スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

12月, 2023の投稿を表示しています

村田兆治(1949~2022)

現役時代 球団名がロッテとなった2年目の1969年に頭角を現し、5月中旬には先発の一角に抜擢される。同年は6勝8敗を記録し、初めて規定投球回にも達した。1970年にはリーグ優勝を経験、1971年、後に監督となる金田正一のアドバイスを元に、近藤貞雄投手コーチによる投球フォームを大幅に改造し、後に村田の代名詞となる「マサカリ投法」の原型を編み出した。同年には12勝8敗、防御率3.34の好成績を残す。

ジョー・ルイス(1914~1981)

シュメリング第2戦 この間にもナチス・ドイツはオーストリアをアンシュルスで併合するなど、他の西側諸国との間で緊張を高め、アメリカのマスメディアでも多くの反ドイツのプロバガンダを生み出していた。こういった影響もあり、シュメリングがアメリカで宿泊するホテル前ではルイス再戦前の数日間、反ナチスの抗議者が抗議活動を繰り広げ、シュメリングにも、途方もない数の憎しみのこもった脅迫の手紙が送りつけられ、試合でリングに入場する際には煙草の吸殻やゴミを投げつけられた。

渋沢平九郎(1847~1868)

渋沢栄一の見立養子へ 一方、京都に出奔していた栄一と成一郎は、1864年2月に一橋慶喜の家臣となり、1866年、慶喜の将軍就任に伴い幕臣となった。翌1867年、栄一は将軍の名代としてパリ万博へ出席する慶喜の弟清水昭武の随員として、フランスへ渡航することになる。平九郎の人生は栄一の渡欧によって一変する。

ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(1901~1965)

権力掌握 1947年12月30日、ゲオルギウ=デジは、首相のペトル・クローザとともに、ミハイ1世に対して退位を迫った。この数年後、アルバニア共産党の共産指導者、エンヴェル・ホッジャは、このとき、ゲオルギウ=デジ自らミハイ王に対して銃を突き付け、「王位を放棄しなければ殺す」と恫喝した、と証言している。ゲオルギウ=デジらがミハイ王に退位を迫った数時間後、1946年に実施された総選挙後に共産主義者の完全な統制下にあった議会は、王制を廃止し、ルーマニア人民共和国の建国を宣言した。これをもって、ゲオルギウ=デジが事実上ルーマニアの最も強大な権力者となった瞬間でもあった。

吉岡信敬(1885~1940)

早稲田大学中退後 1923年11月には同年9月1日に発生した関東大震災の震災孤児救援のための募金集めのために、大阪毎日新聞社主催で徳川義親侯爵が後援会代表を務めていた奇術師・阿部徳蔵による「阿部氏 科学的マジック試演大会」が関西各地で催され、吉岡信敬はその解説役を務めた。

モハンマド・アリー・シャー(1872~1924)

立憲派の逆襲 シャーによるクーデターの成功に対して、一時的に立憲派の勢力は減退するが、アゼルバイジャン地方の主要都市で、ロシアとの交易により、当時のイランで最も西洋の最新の政治的思想に親しんできたタブリーズが立憲派の拠点となった。モハンマド・アリーは、商人、中・下級ウラマー、任侠・無頼の徒であるルーティーと呼ばれる人々の手により、義勇的武装闘争集団が組織されたタブリーズを包囲したが、11ヵ月の包囲戦に耐え抜き、イラン全土に潜伏していた立憲派を勇気付けた。その動きはラシュト、エスファハーンへ拡がり、立憲派の組織した軍隊は首都テヘランと向かっていた。