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投稿

7月, 2020の投稿を表示しています

弘田三枝子(1947~2020)

人形の家 一、顔も見たくない程あなたに嫌われるなんてとても信じられない愛が消えたいまもほこりにまみれた人形みたい愛されて捨てられて忘れられた部屋のかたすみ私はあなたに命をあずけた二、あれはかりそめの恋心のたわむれだなんてなぜか思いたくない胸がいたみすぎてほこりにまみれた人形みたい待ちわびて待ちわびて泣きぬれる部屋のかたすみ私はあなたに命をあずけた私はあなたに命をあずけた

バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト(1613~1670)

ヴェストファーレン条約締結を祝うアムステルダムの市警備隊

ヘンドリク・ヤコブス・ショルテン(1824~1907)

日曜日の朝

張継(1882~1947)

中国国民党での活動 辛亥革命後、同盟会本部が南京に遷るに伴い、張継も帰国して交際部主任兼河北支部長に任命された。1913年、国民党として国会議員に当選し、参議院議長に選出される。同年の二次革命失敗後は、主に欧米で活動し、1920年以降、孫文の下で中国国民党組織のために奔走する。当初、張継は孫文の唱える聯ソ聯共に賛成であった。しかし張継が実際にソ連との交渉を担当すると、ソ連側が国民党への兵器供与等に消極的であったことなどから、不信感を抱くようになる。

張継(生没年不詳)

楓橋夜泊 月落ち烏啼きて霜天に満つ江楓漁火愁眠に対す姑蘇城外寒山寺夜半の鐘声客船に到る

ダニエル・ペーター(1836~1919)

チョコレート職人 友人のアンリ・ネスレにすすめられてミルクチョコレート作りに取り組んだペーターだが、そのためにはカビが生えないように牛乳から水分を取り除かなければならないという難題があった。ネスレと協力しあい昼夜をとわずに研究を続け、ついに乳児向けの食品製造会社を営んでいたネスレは市場に製品を売り込むことができたのである。1876年のことだった。その後ネスレ社は今日にいたるまで成長を続けていくことになる。

ウィリアム・トラヴィス(1809~1836)

アラモの戦い~アラモの守備隊~ ボウイナイフで知られるジェームズ・ボウイの名声などにより、正規の軍人でない志願兵も砦を守るために集まった。ボウイとトラヴィスは作戦と指揮を巡って度々口論したが、ボウイが2月27日結核のため病床につくと、指揮権をトラヴィスに全権委任した。アラモには約200名程度の軍勢しかいなかったため、トラヴィスは成立したてのテキサス暫定政府に再三援軍を求めたが、テキサス軍将軍サミュエル・ヒューストンは兵の召集を待っていたために援軍の派遣は志願して行った30名程度だけだった。

年代記者ネストル(1056~1114)

原初年代記~3種類のエディション~ 1116年、ネストルの初版は典院シリヴェストルによって広範囲にわたって編集された、彼は自分の名を年代記の最後に付け加えている。ウラジーミル・モノマフ公が彼の修道院が位置したヴィードゥブィチのパトロンであったため、この版では公は神聖化されており、書の後半部の中心人物にされている。この第2版はラヴレンチー写本に保存されている。

ヤクブ・ベク(1820~1877)

回民蜂起~グレート・ゲーム~ 当時、イギリス帝国とロシア帝国は中央アジアの支配を巡って角逐を繰り広げており、ヤクブ・ベクはイギリス領インドから大量の武器援助を受け、1874年にはイギリスと条約を結んでいる。英国はカシュガルに領事を常駐させた。この条約でヤクブ・ベクはカシュガルとヤルカンドのアミールと称したので、英語ではヤクブ・ベクの王国をカシュガル王国と呼ぶ。彼はまた西トルキスタンのブハラ・ハン国やトルコのオスマン帝国とも通交した。特にオスマン帝国とは、ヤクブ・ベクの政権に対するオスマン帝国の宗主権を認める代わりに武器の援助や軍事顧問の派遣を求める交渉を行い、オスマン帝国から正式にアミールに任じられるなどの一定の成果を得た。

ジェイムズ・コクラン・ドビン(1814~1857)

連邦政府への進出 1852年、ドビンは民主党全国大会の代表となった。ドビンは民主党の大統領候補選出にあたって膠着状態となっていた状況を打破する決定的なスピーチを行った。その結果、民主党の大統領候補にはダークホースであったフランクリン・ピアーズが選出された。1852年の大統領選挙で勝利したピアーズは、ドビンに論功行賞として海軍長官のポストを与えた。

アントニー・ヘインシウス(1641~1720)

ホラント州法律顧問 1689年6月27日、ホラント州法律顧問に選出された。ウィレム3世がウィリアム3世としてイングランド王に即位、ロンドンに向かったとき、ヘインシウスはオランダ本国に留まった。ウィリアム3世はオランダの事務をほとんどヘインシウスに委ねたという。

レイモンド・チャンドラー(1888~1959)

さらば愛しき女よ 刑務所から出てきたばかりの大男、通称、大鹿マロイは、別れた踊り子の恋人ヴェルマを探しに酒場フロリアンを訪ねるが、酒場の主が何も答えようとしないので逆上して、再び殺人を犯し逃亡する。仕事で現場に居合わせてマロイと話しこんでいた私立探偵フィリップ・マーロウは警察に尋問されるが、マロイを捕まえたいならまずヴェルマを見つけろという自身の勧告を警察が受け入れないので、自らヴェルマとマロイを探し始める。その折に怪しげな用心棒の仕事がマーロウの元に舞い込む。マーロウもまたなぜか命を狙われる中、その依頼人や、ヴェルマがかつて居た酒場の元女主人などが殺されていく。事件が紛糾するなか、ついにマロイの居場所を突き止めたマーロウは、ヴェルマに会わせると言付けて、マロイを自宅に呼び出すと、彼を別室に隠す。そのとき現れたのは意外な人物で、真相が暴かれていく。

マリク・カーフール(不明~1316)

デカン・南インドへの遠征 マリク・カーフールがホイサラ朝を侵略しているさなか、南インドのマーハールを支配していたパーンディヤ朝ではすでに内紛が起きており、ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤとジャターヴァルマン・ヴィーラ・パーンディヤの2王子の兄弟が争っていた。スンダラ・パーンディヤは1310年に父王マーラヴァルマン・クラシェーカラ・パーンディヤを殺害して王座を得たが、ヴィーラ・パーンディヤに首都マドゥライを追われ、スンダラ・パーンディヤがマリク・カーフールに援助を求めた。マリク・カーフールはヴィーラ・パーンディヤがホイサラ朝のバッラーラ3世を支援していたことを知っていたので、この援助に応じた。

慧遠(334~416)

慧遠と陶淵明の交わり 慧遠は廬山に居を定め、東林寺の麓の虎渓を境として山を出ないことを誓い、三〇年間それを守った。ある日、田園詩人として有名な陶淵明と道教の大家陸静修が慧遠を訪ね、三人で「道」について語り合った。二人が帰るのを送りながら話に夢中になり、虎渓を越えてしまった。三人はそれに気づき、大笑いしたという。この話は「虎渓三笑」という画題にされている。陶淵明と慧遠に親交があったというのは作り話らしいが、二人は同時代の人で、陶淵明は廬山の南方の田園で酒と菊を愛し、農耕のかたわら詩を詠んでいた。

鳥山石燕(1712~1788)

画図百鬼夜行

川崎洋(1930~2004)

はくちょう はねがぬれるよはくちょうみつめればくだかれそうになりながらかすかにはねのおとがゆめにぬれるよはくちょうだれのゆめにみられている?そしてみちてきてはしたたりおちそのかげがはねにさしこむようにさまざまはなしかけてくるほしかげはあおいそらにうつるとしろいになる?うまれたときからひみつをしっているひかりのもようのなかににおうあさひのそむなかにそらへすでにかたちがあたえられそれははじらいのためにしろいはくちょうもうすこしでしきさいになってしまいそうではくちょうよ

エマヌエル・スヴェーデンボリ(1688~1772)

神学・神秘主義思想 スヴェーデンボリの神学論は伝統的な三位一体を「三神論」であるとして退けているが、「三一性」という考え方で、「父を意味する創造神、子を意味するイエス・キリスト、聖霊を意味するイエス・キリストの霊の働きという三つの性質が一つの人格神のうちにある」ということを認めている。また、伝統的なプロテスタント聖書主義と同じく「天地の創造神が、時空の観念を超え、イエス・キリストという人間となって救いのために降臨された」としている。主の再臨や、聖書・みことばとして認める対象などについては、正統信仰と異なる独自の解釈で知られている。しかし、プロテスタント教派間でも聖書解釈の違いは多数あり、実は知られていないだけで、正統信仰と言われるプロテスタントとの共通点も多い。

ジョニー・アップルシード(1774~1845)

メロディ・タイム 1948年に公開されたディズニー製作のオムニバス・アニメ映画『メロディ・タイム』の1編に「リンゴ作りのジョニー」があり、ジョニー・アップルシードを主題としている。この映画ではスヴェーデンボリの著書ではなく、単に聖書としている。また、「ジョニー・アップルシードの伝説」が広まるにつれ、ジョニーの歩いたエリアはペンシルベニア州、オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ケンタッキー州と拡がっていた。

丘灯至夫(1917~2009)

ハクション大魔王の歌 ハハハクションくしゃみひとつで呼ばれたからはそれがわたしご主人さまよハハハクション大魔王つぼの中からハとんでくるハハハクション大魔王つぼの中からハハハンハとんでくるなにか困ったことあるときは呼んでおくれよくしゃみが合い図ハハハクション大魔王やってやれないハこともあるハハハクション大魔王やってやれないハハハンハこともあるうそがきらいで涙にもろいくしゃみされればどこでもゆくよハハハクション大魔王だけど数字にゃハ泣けてくるハハハクション大魔王だけど数字にゃハハハンハ泣けてくる

越部信義(1933~2014)

おもちゃのチャチャチャ おもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャチャチャチャおもちゃのチャチャチャそらにきらきらおほしさまみんなすやすやねむるころおもちゃははこをとびだしておどるおもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャチャチャチャおもちゃのチャチャチャなまりのへいたいトテチテタラッパならしてこんばんはフランスにんぎょうすてきでしょはなのドレスでチャチャチャおもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャチャチャチャおもちゃのチャチャチャきょうはおもちゃのおまつりだみんなたのしくうたいましょこひつじメエメエこねこはニャーこぶたブースカチャチャチャおもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャチャチャチャおもちゃのチャチャチャそらにさよならおほしさままどにおひさまこんにちはおもちゃはかえるおもちゃばこそしてねむるよチャチャチャおもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャチャチャチャおもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャチャチャチャおもちゃのチャチャチャ

マックス・ブルッフ(1838~1920)

コル・ニドライ 作曲にあたってブルッフは、ユダヤ教の音楽から二つの旋律を借用している。一つはユダヤ教の祭日であるヨム・キプルで歌われる典礼歌「コル・ニドレ」の旋律、もう一つはジョージ・ゴードン・バイロンの詩に基づきアイザック・ネイサンが作曲した哀歌「ああ、彼等のために泣け」である。様々な民族音楽に興味を持っていたブルッフがあくまでその一環としてユダヤからのインスピレーションを作品に取り入れたもので、ブルッフ自身はユダヤ音楽を作曲する気はなかった。また素材の扱い方も厳密なものではなく、ロマン派音楽の語法の中に組み込まれている。

三好之長(1458~1520)

両細川の乱 一方、危機は西から迫っていた。かつて義澄の従兄弟の10代将軍足利義稙に明応の政変で政元に将軍の座から追われたが、政元の横死やその後の内乱を知ると帰洛の好機ととらえ、亡命先の周防の大内義興に上洛を求めて中国・四国の兵を集めていたのである。澄元は出家して道空と号していた祖父や高国に義興との和平工作を行なわせ、義澄にも和平を求めた。だがこの頃、澄元は高国の謀反を疑い不仲になっており、之長からも忌避されていたため、1508年3月17日に高国は伊勢神宮参宮と称して従兄弟に当たる伊賀守護の仁木高長を頼って云ってしまった事により和平工作は決裂した。

蝉丸(生没年不詳)

小倉百人一首 これやこの行くも帰るもわかれつつ知るも知らぬも逢坂の関

猿丸大夫(生没年不詳)

「猿丸大夫」の読み方 このなかの「サルマロマウチギミ」というのは、猿丸大夫のことである。「サルマロ」は「猿丸」、「マウチギミ」は「大夫」に当たる。これは『方丈記』だけではなく、陽明文庫蔵の『古今和歌集序注』にも、この猿丸大夫の「大夫」の字の脇に「マウチキミ」という振り仮名が付けられており、ほかにも猿丸大夫を「サルマロマウチキミ」と読む文献がある。

ロバート・プルイン(1815~1882)

駐日米国公使としての活動 前任者のタウンゼント・ハリスと同様、当初は欧州諸国とは異なる独自外交を行った。生麦事件後、イギリス・フランスが武力を背景に幕府と交渉を行ったが、プルインはこれに対して批判的であった。しかし、その砲艦外交が効果をあげるのを見たこと、さらに自国の軍用帆船ワイオミングが日本に派遣されてきたことから、徐々に英仏との協調路線に転換していく。アメリカにとって、プルインの日本における最大の功績は下関戦争後の交渉であった。下関海峡で米国商船が砲撃されたことを知ると、プルインはワイオミングに報復攻撃を命じたが、これは日本に対する西欧諸国の最初の攻撃であった。四国艦隊下関砲撃事件の際、アメリカは適切な蒸気軍艦を日本近海に有していなかったため、蒸気商船タ・キアンをチャーターし、武装させて攻撃に参加させた。江戸幕府との交渉はアメリカにとって極めて成功であったと認識されている。

大谷吉治(不明~1615)

大坂の陣 1614年、大坂の陣が起こると招きに応じて大坂城に入城。吉治は豊臣方から100名の兵士を担当する隊長に任命されたという。1615年5月、道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いでは、真田信繁隊と前線で戦うが、越前福井藩の松平忠直軍との戦闘中、忠直家老の本多富正の配下により討たれ、戦死した。

上杉禅秀(不明~1417)

上杉禅秀の乱 鎌倉府は南北朝時代に室町幕府が関東統治のために設置した機関で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、管領職は上杉氏による世襲状態であった。1409年に3代鎌倉公方足利満兼が死去すると満兼の子の持氏が新公方となった。当初、山内上杉家の上杉憲定が関東管領の地位にあったが、1411年に憲定が失脚すると、代わりに山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家の上杉氏憲が関東管領に就任した。氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近して若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとした。

式子内親王(1149~1201)

歌壇における評価 『新古今和歌集』に大量入集する等、この時代の代表的女流歌人と見なされていたと考えられる。歌合等の歌壇行事への参加がほとんど記録されていない式子内親王が、このような地位を得た理由として、藤原俊成に師事していたこと、その子・定家とも交流があったことにより、この時代の主流に直接触れ得る立場だったことが挙げられる。後鳥羽院は、近き世の殊勝なる歌人として九条良経・慈円と共に彼女を挙げ、「斎院は殊にもみもみとあるやうに詠まれき」等と賞賛している。

ポール・クローデル(1868~1955)

マリアへのお告げ 話は主人公のヴィオレーヌが18歳のときに友人で聖堂建築の技師ピエール・ド・クラオンに再会する場面から始まる。ヴィオレーヌはハンセン病になり、家を出る。ヴィオレーヌの婚約者ジャック・ユリはヴィオレーヌの妹マラと結婚する。ジャックとマラの幼い娘が急死する。病で目が見えなくなっているヴィオレーヌがその子を抱くと生き返る。しかしその娘の目の色がマラと同じ黒色からヴィオレーヌと同じ青色に変わっている。ヴィオレーヌはマラに殺される。

ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ(1827~1871)

リッサ沖海戦 1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の際は、5月9日のヘルゴラント海戦でデンマーク海軍相手に戦った。この戦功により37歳で少将に昇進し、時代に合わせたオーストリア艦隊の根本的改革を任されることになった。1866年の普墺戦争に伴う第三次イタリア独立戦争では、海軍の新時代を身をもって示すことになる。同年7月20日のリッサ海戦で、数的に勝るイタリア艦隊を相手に衝角戦法を使用して大勝利を収めたが、同時に新たな装甲艦の優越を示すことにもなった。オーストリアは戦争に敗れたが、彼はこの功によりマリア・テレジア勲章を受章し中将にも昇進した。

ヒュー・マーサー(1726~1777)

アメリカ独立戦争 イギリス軍によるニューヨーク方面作戦の前に、ワシントンはイギリス海軍を撥ね付けるために2つの砦を建設させた。ハドソン川のニューヨーク側にワシントン砦を建設させ、マーサー自身はニュージャージー側のリー砦の土で固めた防塁建設を監督した。アメリカ軍は果敢に守ったが、1776年11月16日にワシントン砦がイギリス軍に占領され、数日後にはリー砦を放棄することになった。このときのニュージャージーへの撤退は「独立の危機」と呼ばれるようになった。というのもワシントンの戦い敗れ踏みにじられた兵士達の徴兵期間が1777年の元日に終わろうとしていた。

アブド・アルカーディル(1808~1883)

アルジェリア出兵 1830年、フランス復古王政のシャルル10世は、国内の人気を得るために、地中海の対岸のアルジェリアに出兵し、占領した。同時に七月革命が勃発し、シャルル10世は退位してイギリスに亡命した。フランスは七月王政下においてもアルジェリアから撤退せず、それに対してアラブ人首長アブド・アルカーディルによる反フランス闘争が1832年から始まる。1847年、アブド・アルカーディルは捕らえられ、晩年はフランスに協力するようになり、抵抗運動は衰えた。その後130年にわたりフランス植民地支配が続き、第二次世界大戦後、アルジェリア民族解放戦線による独立運動が始まり、激しい闘争の末、1962年に独立を達成する。

ジャン・デュビュッフェ(1901~1985)

ハートのキング

リチャード・ウェルズリー(1760~1842)

インド総督 ニザーム藩王国のニザーム・アリー・ハーンらとの同盟軍をマイソール王国に当たらせ、1799年の第四次マイソール戦争でティプーを滅ぼした。ティプーによって簒奪されていたオデヤ家を復活させ、それに英国との軍事保護条約を結ばせることで英国支配下のマイソール藩王国を創った。また一部のマイソール王国領については英国領に編入した。この勝利は英国民を喜ばせ、本国における彼の威信は高まった。1799年12月にはアイルランド貴族爵位ウェルズリー侯爵に叙せられた。イギリス東インド会社は戦利品の分け前として10万ポンドの贈与をウェルズリーに申し出たが、ウェルズリーはこれを断り、軍から贈られたティプーの宝石で作った聖パトリック記章のみ受けとっている。

張士誠(1321~1367)

官軍襲来による危機 張士誠の反乱を元朝は極めて深刻に受け止めた。なぜなら、反乱が起こった淮東は、全国最大の塩の生産地であり、かつ江南の物資を京師に輸送する大動脈である大運河が通っている地域であったからである。塩の専売を最大の財源とし、経済面で江南の豊かな物資に依存している元朝にとってはまさに死活問題であった。そのため、右丞相トクトを司令官とする大規模な討伐軍がただちに発せられた。

岩崎久弥(1865~1955)

三菱財閥3代目総帥 1891年に帰国後、副社長として三菱社に入り、1894年、三菱社の合資会社転換と共に、叔父、岩崎弥之助に代わって社長に就任。以後、1916年にいとこの岩崎小弥太に社長を譲るまで、三菱財閥三代目として長崎造船所の近代化や東京・丸の内地区の開発など事業の拡充を図り、麒麟麦酒、農政事業、製糸業などの創業にも関わった。特に農政事業に関しては小岩井農場、末廣農場のほか、朝鮮半島、スマトラ島、ブラジルといった海外にまで経営の手を広げた。また、現在でいう事業部制を三菱合資会社に導入し、グループの活性化をもたらした。

中村正義(1924~1977)

ジャン=バティスト・カリエ(1756~1794)

共和国の結婚 共和国の結婚とは、フランス革命期の恐怖時代にナントで行われたとされる死刑の方法である。「それに巻き込まれた者は裸にされ男と女で縛られ、溺死させられる」。この刑は、1793年11月から1794年1月のあいだに、ジャコバン派で派遣議員のジャン=バティスト・カリエの命により執行された、と伝えられている。犠牲者はロアール川で溺れ死んだとする文献がほとんどのなか、わずかに別の処刑方法の記録も残っている。それによれば、拘束された男女は溺死させられる前に、あるいはその代わりに剣で一突きにされた。

ウィリアム・ワシントン(1752~1810)

独立戦争 ワシントンは1775年9月12日にスタッフォード郡民兵隊の大尉に選ばれ、その中隊は1776年2月25日に大陸軍の第3バージニア連隊に組み込まれた。初陣は1776年9月14日のハーレムハイツの戦いであったが、この時敵のマスケット銃弾が当たり負傷した。この年遅く、部隊を率いて北方に至り、ナサニエル・グリーンの下に入ってトレントンの戦いで功績を上げた。ワシントンはドイツ人傭兵部隊の防御柵に突撃をかけ、同じ中隊のジェームズ・モンロー中尉と共に、キング・ストリートにあった敵の大砲2門を捕獲した。この戦闘でもワシントンは手を負傷したが、総司令官のジョージ・ワシントン将軍からは感謝の言葉を貰った。ワシントンは他にも幾つかの戦闘に参戦したが、これらは歩兵隊の戦闘であった。

ポール・ヴェルレーヌ(1844~1896)

教職と美少年 イギリスの中学に教職を得た。アルデンヌ県の学校に転じ、生徒中の美少年リュシアン・レチノアに惚れて授業をおろされる。その後リュシアンと英国へと渡り、教職を得た。元妻との和解をまたはかり、黙殺された。リュシアンを伴い帰国し、その郷里に滞留。母と暫くパリに住み、市役所への復職をはかるも果せず、西郊の学校に就職した。リュシアンが死に、その故郷で堕落放浪の日を送った。泥酔して母の頸を絞め、入牢。出獄後またリュシアンの故郷を放浪した。

ゲアハルト・ハウプトマン(1862~1946)

沈鐘 登場するのは、鐘の鋳造家。よい音を作ることに執着した芸術家肌の職人ハインリッヒだ。彼が制作に絶望したとき、出会うのは山の妖精ラウテンデライン。彼女は芸術家に一目ぼれし、周囲の妖精や森の魔やらの制止を振り切って、人間界に行くことを決める。そのきっかけになったのは、衰弱した彼に憐憫することによって流した一滴の涙。ここにおいて初めて山の妖精は感情、特に愛情を知ることができ、それは永遠不変であるはずの妖精はもってはならないものである。以上が第1幕。

アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ(1542~1595)

ソロモン諸島 1568年、スペイン人探検家のアルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラがヨーロッパ人として初めて渡来。ガダルカナル島で砂金を発見し、これが捜し求めていた古代イスラエルのソロモン王の財宝だと考え「ソロモン諸島」と名付けた。

塩野季彦(1880~1949)

思想検事のドン 戦前にかけて、俗に司法・検察人事では平沼騏一郎、鈴木喜三郎らの流れを汲み、初期の社会主義運動、大逆事件の指揮にあたった小山松吉らを経てのち、思想検事は「塩野閥」が主流とされ、刑事警察を常道とすべきする小原直らの「小原派」と対立関係にあったが、小原派は超弱小派閥ゆえ問題とならなかった。三・一五事件などで実質的指揮をとった松阪広政、思想検察を確立した池田克、戦後でも経済検事の流れを汲む馬場義続と対立関係にあたった岸本義広、井本台吉らに辿れる。

富永恭次(1892~1960)

第4航空軍司令官~陸軍特別攻撃隊の拡大~ 陸軍搭乗員の精鋭を選抜し、機体もわざわざ特攻専用機に改修しながら、万朶隊と富嶽隊の挙げた戦果は陸軍中央を失望させた。参謀本部参謀の田中は「明快な報告が電報されてこないんですね。それでこれはどうしちゃったんだろうというようなですね、せっかく改装をして、特別選り抜きの搭乗員をあてがって、何か寂しいような感じを持ちましたですね」と回想している。しかし、この時点で富永は、万朶隊と富嶽隊という特攻隊が日本内地で編成されてから送られてきたので出撃させたが、部隊の士気から見ても、富永指揮下の現地の部隊で特攻隊を編成することはせずに、引き続き通常作戦を継続すべきと考えていた。

斎藤緑雨(1868~1904)

青眼白頭 後世を口にすること、一派の癖のやうになりぬ。陸に汽車あり、海に汽船あり、今や文明の世の便利を主とすればなるべし。何故といはんも事あたらしや、お互に後世に於て、鼻突合はす憂なければなり。憂は寧ろ、虞に作るをよしとす。

クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルク(1795~1876)

微生物の研究 30年近くの間、エーレンベルクは水や土壌、堆積物、風塵、岩石などの試料を観察し、何千もの微生物の新種記載を行った。この中にはユーグレナ藻のような良く知られた鞭毛虫、ゾウリムシに代表される繊毛虫、そして多くの微化石が含まれ、発表された論文は400編近くに達した。彼は特に単細胞の原生生物の仲間である珪藻に興味を持っていたが、同時に放散虫についても多くの研究を重ね、命名を行った。

エマニュエル・ド・グルーシー(1766~1847)

ワーテルローの戦い ワーテルローの戦いではナポレオンの命令に固執して敗因を作ったとされている。ワーテルローの戦いでは、その2日前のリニーの戦いで破ったブリュッヘル率いるプロイセン軍を、騎兵35000人をもって追撃するようナポレオンから命じられていたものの、プロイセン軍に追いつき打撃を与えることが出来なかった。その後、ワーテルロー近くで砲声が聞こえ、エティエンヌ・モーリス・ジェラール将軍などから砲声の方向に進むよう求められたにもかかわらず、それを拒否してワーブルへの進軍を続いた。このため、プロイセン軍はワーテルローの主戦場において初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍に有力な援軍として参戦する結果となってしまい、夕方まで優勢だったはずのフランス軍は敗北してしまった。

ムイッズ(932~975)

概略 チュニジアで建国されたファーティマ朝は、ムイッズの時代に西部のベルベル人や地中海のシチリア人などを軍隊に編入し、地中海南岸の全域へと版図を拡大させた。とりわけ部下のジャウハルがエジプトを平定したことは、ファーティマ朝発展の礎となり、ジャウハルの主導で建てられた新都カイロは、ファーティマ朝の新たな政治的中心地となった。ファーティマ朝はイスマーイール派を信仰していたが、エジプトのスンナ派住民に対して抑圧を加えるようなことはせず、各派の融和が図られていた。975年にはメッカ巡礼を行 い、イスラーム世界におけるファーティマ朝カリフの地位を知らしめた。

中村武羅夫(1886~1949)

不同調 『不同調』は「新人生派」文学を標榜し、中村武羅夫は「人生のための芸術」を書き、戸川貞雄は「新人生派の文学観」として「自然主義によって探り得たところの人間性の深みと、社会我の覚醒によって認識し得た生活の広さとの、深刻にして複雑な」「人生に、刻面的な関心を有つ態度こそ、文芸家としての最も正しい態度と信ずるところから、『新人生派』の文芸観は胚胎するのである」と主張したが、作品としてみるべきものは生まれなかった。

山葉寅楠(1851~1916)

オルガン製造 当時浜松で飾り職人をしていた河合喜三郎と協力し2ヶ月後にオルガンを完成させたが、浜松の小学校や静岡の師範学校での評価は低かった。そこで東京の音楽取調所までオルガンを運んだ。東海道線が全通していなかった当時、オルガンを担いで徒歩で箱根峠を越えての上京だったという。音楽取調所御用掛・伊沢修二の評価は、「調律が不正確」というものだった。寅楠は1ヶ月かけて音楽取調所で音楽理論を学び、オルガン第2号を製作した。