両細川の乱
一方、危機は西から迫っていた。かつて義澄の従兄弟の10代将軍足利義稙に明応の政変で政元に将軍の座から追われたが、政元の横死やその後の内乱を知ると帰洛の好機ととらえ、亡命先の周防の大内義興に上洛を求めて中国・四国の兵を集めていたのである。澄元は出家して道空と号していた祖父や高国に義興との和平工作を行なわせ、義澄にも和平を求めた。だがこの頃、澄元は高国の謀反を疑い不仲になっており、之長からも忌避されていたため、1508年3月17日に高国は伊勢神宮参宮と称して従兄弟に当たる伊賀守護の仁木高長を頼って云ってしまった事により和平工作は決裂した。
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