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フランス=アルベール・ルネ(1935~2019)

第二共和国時代 1979年に新憲法が公布され、セーシェルは第二共和国と呼ばれる一党独裁時代に入る。同年、ケニア駐在のアメリカ外交官に支援されたマンチャム派によるクーデターが計画されたが、ルネ政権により未然に防がれた。更にこのクーデター計画にはフランスも関わっていたことが証明されている。1981年11月25日には、アパルトヘイト時代の南アフリカに支援された勢力によるクーデター計画が発生したが、同じ社会主義国だったタンザニアの援軍により、鎮圧に成功した。

アンドレア・ドーリア(1466~1560)

プレヴェザの海戦 プレヴェザの海戦は、1538年9月28日、バルバロス・ハイレッディンの指揮するオスマン帝国艦隊と、アンドレア・ドーリアが指揮するスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とによって戦われた海戦。イオニア海、レフカダ島沖が戦場となった。連合艦隊側は統制が取れずに敗走し、結果、オスマン帝国はクレタ、マルタを除く全地中海域の制海権を握ることとなった。この優位は1571年のレパントの海戦で揺らぐものの、以後もオスマン帝国は地中海での一大勢力であり続けることになった。しかしこの勝利には、オスマン帝国側に帰属したバルバリア海賊の影響力無しには為し得なかった。

ルイ2世(1870~1949)

第二次世界大戦 ルイ2世自身はフランス軍に長く籍を置いたためフランス寄りであったが、大戦中の公国は中立を宣言していた。陸軍時代からの仲間ペタン元帥のヴィシー政府が誕生しても、それは続いた。ルイ2世の優柔不断ゆえの中立であり、国内では対立が絶えなかった。国民の大多数がイタリア系であるため、イタリアのファシスト政権を支援する声が多かったのである。1943年、イタリア軍が侵攻し、モナコにファシスト政権が誕生した。ムッソリーニの影響下におかれるや、ドイツ軍も駐留し、ユダヤ系住民の追放を始めた。モンテカルロ・オペラ劇場を設立したルネ・ブルムも、ナチスの収容所に送られて死んでいる。モナコ警察はルイ2世の秘密の指令により、ゲシュタポの捜索より前に、ユダヤ系住民に出国を警告する役割を、危険を冒しておこなっていた。

重野安鐸(1827~1910)

大日本編年史 この修史事業に携わっていたのは前記「修史の詔」が漢文による正史編纂を標榜していたことから分かるように基本的に漢学者であり、1875年以降修史局の幹部であった重野安鐸は、1880年『東京学士会院雑誌』に「国史編纂の方法を論ず」を発表し、清代考証学の伝統を引く実証的方法論を主張していた。しかしこのような方法論をめぐっては修史館内部にも意見の相違があり、1881年の機構改革に際し川田剛・依田学海が修史館を去った背景には、彼らと重野・久米邦武・星野恒との間に編纂方針をめぐる対立があったという見方もある。

坪井九馬三(1859~1936)

歴史地理 1891年10月、帰国。翌月、34歳で東京帝国大学文科大学教授となった。1900年、43歳で「歴史地理」の講義を開始した。1899年創立の日本歴史地理研究会の会員であり、その機関誌『歴史地理』に論文「歴史地理とは何ぞや」を1900年に発表した。

加藤建夫(1903~1942)

戦隊長として 1941年4月、陸軍少佐・4代目戦隊長として広州天河飛行場駐留の飛行第64戦隊に着任。なお、第64戦隊は加藤がかつて中隊長を務めていた飛行第2大隊第1中隊と、同大隊第2中隊および独立飛行第9中隊の計3個飛行中隊が合同して1938年8月1日に編成された飛行戦隊である。1941年8月末に部隊は新鋭の一式戦「隼」に機種改変を行い、ここに「加藤隼戦闘隊」が誕生した。

ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(1741~1825)

ハムレットとその父の幽霊

アレッサンドロ・マルチェッロ(1669~1747)

オーボエ協奏曲 アレッサンドロ・マルチェッロの《オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 ニ短調》は、1700年代初頭の作品であり、マルチェッロの最も有名な作品である。また最も有名なオーボエ協奏曲の一つである。過去においては、ベネデット・マルチェッロやアントニオ・ヴィヴァルディの作品と誤って伝えられてきた。ヨハン・ゼバスティアン・バッハはこの作品をニ短調のチェンバロ協奏曲に編曲した。

ギヨーム・デュファイ(1397~1474)

作品と作風 百年戦争の休戦期にイングランドのジョン・ダンスタブルが伝えた3度や6度の協和音程、フランスのイソリズムを含むポリフォニー音楽、青年期に接触した旋律優位のイタリア音楽を統合し、イタリアで活躍したフランドル人チコーニアなどの影響を受け、ルネサンス音楽を開拓した。しばしば「ルネサンス音楽におけるバッハ」15世紀最大の巨匠と評価される。バッハがバロック音楽時代の最盛期から終期に活躍したのに対し、デュファイはルネサンス音楽の開始へと成熟してゆく過程を跡付けることが、ある程度まで可能である。ブルゴーニュ楽派の中心的人物であるが、その後期の作品には、ルネサンス音楽の次の時代でありヨーロッパ普遍の音楽様式を確立するフランドル楽派に通じる要素も見られる。

カルロ・ジェズアルド(1566~1613)

フェラーラ時代 1594年にジェズアルドは、当時のイタリアの最も急進的な音楽活動の中心地の一つであり、とりわけマドリガーレの創作が盛んであったフェラーラに赴く。同地は、当時の最も進歩的なマドリガーレ作曲家であるルッツァスコ・ルッツァスキの拠点でもあった。ジェズアルドは、大公アルフォンソ2世・デステの姪レオノーラ・デステとの再婚のために、この地を訪れたのである。レオノーラはジェズアルドと結婚して、1597年に彼の領地に同行した。その間ジェズアルドは、フェラーラ宮廷の前衛的な空気のもと、イタリア屈指の音楽家に取り巻かれて、2年以上にわたって創作活動に明け暮れた。最初のマドリガーレ集を出版したのも、フェラーラ滞在中のことである。

オルランド・ディ・ラッソ(1532~1594)

宗教曲~その他の宗教曲~ ラッソは、「ムジカ・レゼルヴァータ」様式の作曲家として知られている。大まかに言うと、テクストの内容を音楽に濃密に表出させ、半音階技法をとる作曲様式のことをいい、特に音楽通のために作曲された楽曲の様式を指すともいわれる。ラッソ作品でこの様式を代表する有名な例は、12曲のモテットからなる曲集《シビラの預言 Prophetiae Sibyllarum 》であり、ジェズアルドを連想させるような大胆な半音階的和声が広く活用されている。この作品における和声進行のいくつかは、20世紀初頭になるまで二度とお目見えしないようなものもある。

パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)

カナの婚礼

ベンヴェヌート・チェッリーニ(1500~1571)

ニンフの浮彫り

テオフィル・ゴーティエ(1811~1872)

死霊の恋 老いたロミュオーが青春時代に体験した不思議な出来事を語って聞かせるというスタイルで物語は始まる。何十年も昔、自身の叙品式の日に彼は教会で美しい若い女性に出会った。彼女はクルチザンヌだった。そして彼女が彼を愛しており、教会を去って彼女のものになった暁には神が天国に迎え入れるより、ずっと幸せにするであろうと目で訴えかけてくるのをはっきりと胸の奥で聞いた。しかし彼は誓いの最中であり、引き裂かれるような想いの中、機械的に式典は進み彼は僧侶になってしまう。教会を出る時、冷たい手が彼の腕を握った。振り向くとそれは例の女性で、「薄情な人!」と小声で言って去っていった。神学校への帰り道、奇妙な出で立ちの小姓が寄って来て彼にこっそりと紙入れを渡した。自室に戻り開けてみると、「クラリモンド、コンティニ宮」と書かれた紙片が入っていた。

アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー(1801~1877)

クールノー均衡 2つの企業しかない複占産業で、各企業がライバル企業の供給量が変わらないという仮定のもとで、自企業の供給量を決定するモデルを「クールノーの複占のモデル」という。すなわち複占状態の場合、1つの企業が選ぼうとする産出量に応じて、他企業が産出量を変えてくるといった戦略上の相互依存関係がありうる。しかし、企業1の産出量の変化によって企業2の産出量が変わらない推測があるという仮定をすると、どの企業にも産出量を変更しようとする誘因は存在しない。このような点を「クールノー均衡」と呼ぶ。

マルセル・エイメ(1902~1967)

壁抜け男 舞台は1947年、パリの下町。まじめだけがとりえのデュティユルは、郵政省のクレーム処理係として平凡な毎日を送っていました。今日も一日中タイプライターに向かい、バカていねいにクレームの返事を書く彼を横目に、なまけ者の同僚たちはあきれ顔。定時の5時きっかりにデュティユルを残して職場を後にします。仕事を終え、陽気な隣人たちとすれ違いながら部屋の前にたどり着いたときには、すっかり日が落ちていました。

アレッサンドロ・マニャスコ(1667~1749)

夜明けの庭の楽しみ

ジローラモ・ダ・カルピ(1501~1556)

魔術師のいる風景

内藤昌豊(1522~1575)

出生から信玄時代 1566年までに信濃国深志城の城代を務める。武田氏は西上野侵攻を行い、同1566年9月に箕輪城を攻略し、1567年3月に白井城を攻略し、西上野を領国化する。昌秀は1566年頃から後閑氏など上野国衆の取次を務めている。箕輪城代は1566年から1567年まで春日虎綱・真田幸隆による在番で、1568年から1569年には浅利信種が務めている。浅利信種は1569年10月6日の三増峠の戦いにおいて戦死したため、昌秀は信種の後任として永禄13年から1570年4月頃までに箕輪城代となり、長篠合戦で戦死する1575年まで務めている。なお、三増峠合戦で昌秀は小荷駄隊を率いて自軍の補給を支えたという。

宇佐美定満(1489~1564)

上杉謙信の家督相続以後 1548年に上杉謙信が家督を継ぐと定満はこれに従い、謙信と対立した上田長尾家の当主長尾政景に備えて要害に入る。1549年6月、謙信の家臣平子孫太郎に宛てた書状によると、定満は政景側の計略や脅迫を受けており、まだ自身に力が無く、家臣も士気が低下しているため、自分達だけに備えを任せれば後悔するであろうことを訴えている。

里村紹巴(1525~1602)

紹巴抄 連歌師里村紹巴により著されたものである。1563年に受けた三条西公条による源氏物語の講釈をまとめたもので、1564年に作業を始めたが、1565年春の成立と考えられている。多くの写本が存在するが、書名が異なるだけでなく内容にも異同が多い。江戸時代に入ると源氏物語の注釈書の中では最も早く版本として刊行されて広く読まれるようになったが、版本の記述には後代の加筆の跡が認められる。

武田元光(1494~1551)

桂川原の戦い ところが、1526年7月に細川高国が香西元盛を誅殺すると、これに怒った丹波国の波多野稙通と柳本賢治が細川高国から離反、それに呼応して足利義晴の弟・足利義維を擁立する細川晴元も阿波で挙兵した。同年10月23日、細川高国は、丹波神尾山城に総大将細川尹賢を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、更に、足利義晴の名で元光に援軍を要請したため、同年12月、元光は足利義晴を支援するため上洛した。一方、丹波で細川尹賢を打ち破った波多野稙通と柳本賢治は京都に向けて進軍、堺に上陸した細川晴元が派兵した三好勝長、三好政長がこれに加わった。翌1527年2月、両軍は桂川原で激突したが、武田元光軍が三好軍の襲撃を受けて崩れ、細川高国軍も壊走、元光は将軍足利義晴、細川高国と共に近江国に逃亡した。

豊臣鶴松(1589~1591)

鶴松の生涯 1590年の年賀を大坂城で迎えた鶴松は、2月13日に再び京の都に戻り、聚楽第に入った。秀吉が小田原征伐に出征していた間は大坂城に戻り、その後は淀城にいたが、7月27日頃から病気になった。多聞院日記によれば興福寺に供物が贈られた奈良春日神社では祈祷が行われたと言い、しばらくして全快した。

木村重成(1593~1615)

大坂夏の陣~八尾・若江の戦い~ 1615年5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。その後、敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたが朝昌はその功を重勝に譲ったともいわれる。

徳川宗武(1716~1771)

天降言 江戸時代中期の歌集。徳川宗武著。1巻。成立年未詳。宗武没後、その家臣による編纂という。歌数は309首。そのうち2首は旋頭歌。作品はほぼ製作年代順に収められ、宗武生涯の歌風の変遷を知ることができる。歌風が後世風から万葉風へと変化した過程には、「ますらをぶり」の歌を提唱した賀茂真淵の影響が大きい。しかし、その歌の率直でおおらかな調べは、師の真淵をこえる達成をみせ、万葉調に迫っている。

芳沢あやめ(1673~1729)

女形の歌舞伎役者 1692年に京に上り、1695年に太夫の号を取得して芳沢菊之丞と改名。1698年には『傾城浅間嶽』での傾城三浦役が演じ人気を博す。1713年11月江戸に下り、翌年11月に帰京。2年後には役者評判記『三ヶ津惣芸頭』で高い評価を受ける。1721年には立役に転じて芳沢権七を名乗るが不評で女形に戻る。この前後に「吉沢あやめ」を名乗ったといわれているが、詳細は不明。

松井石根(1878~1948)

南京戦 松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。松井はトラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。ところが、11月19日第10軍は独断で「南京攻略戦」を開始した。松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」を兵士に示した。12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。13日、南京陥落。17日、松井、南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想に念を押すようにして戒めた。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。

川島芳子(1907~1948)

満洲国建国の陰で 1931年9月に関東軍の石原莞爾が日本政府の承認を得ないまま張学良軍を独断で攻撃した満州事変を引き起こし、11月には清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が、関東軍の要請を受けて天津から満洲へ脱出する。芳子はこの時、溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことを関東軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務に携わった。

ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ(1769~1834)

ナポレオン ブーリエンヌはシュトゥットガルトで外交官の辞令を受けたが、すぐに亡命貴族のリストに載ることとなり、1797年11月までそこから取り除かれなかった。しかし、ヴァンデミエールの反乱の後にはパリに帰還し、国内軍の副官からイタリア方面軍司令官に昇進したばかりのナポレオンに再会した。ブーリエンヌはイタリア遠征には同行しなかったが、オーストリアに勝って長い交渉に入っていたナポレオンに呼ばれ、その法律と外交の知識を生かしてカンポ・フォルミオ条約の起草に携わった。

ジャック・カトリノー(1759~1793)

ヴァンデの反乱~武装蜂起~ 反乱軍は自らを「カトリック王党軍」と名乗り、行商人出身のジャック・カトリノーが最高司令官に選ばれた。ヴァンデの民衆反乱は当初3万人規模を擁する大規模なものであった。この頃には連戦連勝で勢力圏を拡大し、ブルターニュのゲリラ組織シュアヌリと合流するために6月にはナント市を攻略した。しかし、ナント市民は政府軍と協力して徹底抗戦したため、撤退を余儀なくされた。その際、最高司令官のカトリノーが戦死。そのためこの反乱はそれ以上広がらなかった。しかし、この間、フランス国内の商業および軍事活動は妨げられ、ジロンド派に非難が集中した。

ジョン・ランバート(1619~1683)

統治章典 ニューモデル軍幹部で司令官オリバー・クロムウェルの腹心ジョン・ランバートを中心とした将校会議が『建議要目』と『人民協定』を参考にしながら1653年9月から11月にかけて作成、12月16日に公布、同時にクロムウェルが終身の護国卿に就任し護国卿時代が開始された。内容は全42条からなる。

ロジャー・ウィリアムズ(1603~1683)

プロビデンスへの入植 ウィリアムズはともあれ、12人の「愛する友と隣人」と共に開拓地を造った。ウィリアムズの開拓地は平等の原則に立っていた。「我々の大半が同時に仲間にすべきと投票する者は」その共和国の一員となると定められた。多数意見に従うことが全員に約束させられたが、「公共の事項」に限られた。1640年、「良心の自由を保持し続ける」という決意を表明する合意事項に39名の自由人が署名した。このようにして当時としては特徴ある政府が作られた。政府は明確に信教の自由と、公共と教会の権威との間との分離を定めた。

ユーグ10世・ド・リュジニャン(1183~1249)

第5回十字軍 1219年、第5回十字軍に参加した父がダミエッタで亡くなったためラ・マルシュ伯領を相続、1216年にジョンが亡くなり未亡人となったイザベラと1220年に結婚した。この結婚でアングレーム伯領も手に入れ、西フランスの有力貴族にのし上がった。1241年に継子のヘンリー3世と共にルイ9世に反乱を起こしたが、鎮圧された。

大窪詩仏(1767~1837)

珍事 1816年、書画番付運動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。

片桐貞昌(1605~1673)

茶人としての石州 1663年、父の菩提のために慈光院を創立した。これは寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という、茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま30年を越えて眼にすることができるということで、現在も全国的に見ても貴重な場所となっている。慈光院の庭園は1934年に国の史跡及び名勝に指定され、1944年には書院と茶室が国宝保存法により当時の国宝に指定された。

杉亨二(1828~1917)

日本近代統計の祖 一方、現在の国勢調査にあたる全国の総人口の現在調査を志し、その調査方法や問題点を把握するために1879年に日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を甲斐国で実施した。同年の12月31日午後12時現在人を対象として行い、調査2,000人、調査費用は約5,760円、そして調査対象となる甲斐国の現在人数は397,416人という結果を得た。

足利氏満(1359~1398)

小山氏の乱 小山氏の乱とは、室町時代前期に下野守護であった小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して起こった反乱及び、義政の滅亡後に遺児の小山若犬丸に引き継がれて続けられた反乱の総称。17年にわたって繰り広げられた結果、小山氏嫡流は滅亡することとなる。

千種忠顕(不明~1336)

恩賞後の暮らしぶり 建武の新政の功により、後醍醐天皇から莫大な恩賞を得て、忠顕は家臣らと共に日夜酒宴に明け暮れた。宴に集う者は300人を数え、費やされる酒肴の費用は膨大な額に上がった。数十間もある厩で肥馬を50 - 60頭も飼育し、興が乗ると数百騎を従えて上京や北山へ繰り出して、犬追物や鷹狩に没頭した。狩りの際は豹や虎の皮を装着し、金襴刺繍や絞り染めの直垂を着用していたとされる。

川上眉山(1869~1908)

書記官 笆に媚ぶる野萩の下露もはや秋の色なり。人々は争うて帰りを急ぎぬ。小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくなりぬ。車のあとより車の多くは旅鞄と客とを載せて、一里先なる停車場を指して走りぬ。膳の通い茶の通いに、久しく馴れ睦みたる婢どもは、さすがに後影を見送りてしばし佇立めり。前を遶る渓河の水は、淙々として遠く流れ行く。かなたの森に鳴くは鶫か。

松原岩五郎(1866~1935)

最暗黒の東京 明治中期の東京下層民の生活実態を克明に記録したルポルタージュ、二葉亭四迷の影響で下層社会の探訪を始めた松原岩五郎が、貧民街に潜入、職業を転々としながら、木賃宿の実情や日雇人夫・見世物師・車夫等の暮らしぶりを描き出したもので、横山源之助『日本の下層社会』とならぶ明治記録文学の傑作。

酒井隆(1887~1946)

香港攻略作戦 酒井隆中将は1941年12月2日、香港攻略命令を受けた。指揮下の第23軍は第38師団が主力部隊で、第1砲兵隊や第66連隊、飛行第45戦隊が属していた。これに対する英軍側は香港総督サー・マーク・エイチソン・ヤングを総指揮官とし、香港駐屯軍司令官クリストファー・マイケル・マルトビー少将が率いる香港歩兵旅団、カナダ旅団、ロイヤル砲兵隊、香港義勇軍の計12,000人である。

ガヴリロ・プリンツィプ(1894~1918)

サラエボ事件 当時、バルカンではロシア帝国を後ろ盾とするパン・スラヴ主義とオーストリア帝国・ドイツ帝国の支援を受けるパン・ゲルマン主義が対立し、ゲルマン民族であるオーストリアの占領下にありながら人口の大半がスラヴ系であるボスニアでは、すでにオスマン帝国から独立していた同じスラヴ系のセルビア王国への併合を求める大セルビア主義が台頭していた。

バール・ガンガーダル・ティラク(1856~1920)

ティラクの思想 ティラクは民衆から「ロカマーニャ」と呼ばれ、敬愛されていた。彼の運動の根底にあるのは、インドの伝統的な宗教であるヒンドゥー教の「神の歌」とされる『バガヴァッド・ギーター』であり、そこに示される唯一の真理への帰依という信仰心であた。その点はガンディーの運動とも共通しており、単に近代的な意味の民族独立を目指す反植民地運動ではなく、インドの伝統宗教に依拠する復古主義的な側面が強かった。

木下勝俊(1569~1649)

秀吉の一門衆 1608年、父・家定の死去後、高台院の周旋によって遺領は安堵され、その裁量に任されることになった。この際、家康は遺領を勝俊と利房に分賜するとも定めていたが、高台院は寵愛する勝俊に遺領の全てを渡した。すると、所領を得られなくなった弟・利房は抗議して家康に泣きつき、約半年間、双方の使者が京都と駿河を往復して争議となった。翌年9月、江戸幕府は分地の沙汰を犯して命に背いたという理由で、家定の遺領の全てを没収とした。これで再び勝俊は失領したが、利房も同じであり、代わりに遠縁にあたる浅野長晟が、足守藩を一時拝領して管理した。なお、利房は、大坂の陣で徳川方として参戦して軍功を挙げ、それによって晴れて父の遺領である足守藩の継承を認められている。

ジョン・ディー(1527~1609)

エノク魔術 20世紀以降の西洋オカルティズムにおいて「エノクの魔術」と呼ばれている体系は、天使たちがジョン・ディーに伝えた理論が19世紀末に再発見されたものとされている。ディーのエノク文書のマグレガー・マサースによる魔術的解釈/翻案は、黄金の夜明け団の内陣回覧文書という形で団内で閲覧され、その後、アレイスター・クロウリー編「春秋分点」誌やイズレエル・レガーディー編『黄金の夜明け』において公開された。

ソロモン・イブン・ガビーロール(1021~1070)

思想 新プラトン主義の哲学者として、プロティノスと同じく流出説をとり、「最高の原理である神の意志から、知性、世界精神、自然の順に流出する」とした。彼は、神を除いてあらゆる存在者は質料と形相によって合成されていると考えた。この命題を初めて唱えた人として西方では有名になる。ここでいう質料とは必ずしも物体を意味するのではなく、単に現実態に対して可能態を指すものである。神に劣るすべてのものは、純粋な現実態ではありえない。有限の存在は常に幾分かの可能態が混合しており、この可能態はまさしくその有限なる存在の質料であって、もろもろの知性や人間の魂の精神的な質料からの物体の粗雑な質料に到るまで、段階を追って不完全になっていくのである。これはフランシスコ学派の神学者たちが主張し、トマス・アクィナスが反対した説であった。

策彦周良(1501~1579)

二度の入明 1537年周防国の戦国大名大内義隆の主催により、明に勘合貿易を派遣を計画した際に、副使に任命される。寧波の乱以降、日明貿易の主体は大内氏に移っていたが、形式上は室町幕府の正式な使節であった。実際には1539年5月7日に3隻に分乗した460名の船団を率い五島列島を出帆する。同5月2日温州府に到着。しばらく同地に滞在し、翌年3月2日北京に入城、朝貢任務を果たす。7月2日に北京を離れて寧波へ向かい、風待ちの後、帰国したのは1541年7月19日であった。

足利義勝(1434~1443)

嘉吉の徳政一揆 7代将軍、足利義勝は要求を受け入れ、差し押さえられてから20年未満の質物の返還など、山城一国平均での徳政令を発布。正長の土一揆では遂に公式な徳政令を出さなかった室町幕府が徳政令を出したことにより、その権威は大きく傷ついた。