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松井石根(1878~1948)

南京戦
松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。松井はトラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。ところが、11月19日第10軍は独断で「南京攻略戦」を開始した。松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」を兵士に示した。12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。13日、南京陥落。17日、松井、南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想に念を押すようにして戒めた。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。

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エイブラハム・ダービー1世(1678~1717)

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度会家行(1256~1351)

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フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(1778~1852)

体操~ドイツ体操~ ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。バゼドーは神学教師であったが、哲学者ルソーの『エミール』に触発され、身体と精神は互いに助け合わなければならないと考え、その実現の場として1771年にデッサウに汎愛学校を設立し、平均台や徒歩競争などを含む体育法「ギリシャ体育」を生徒に施した。ヤーンは教育所を設立して高跳び用のスタンドなど体操用の器械を考案し、『ドイツ体操術』の著し、運動を愛国心に結び付け、旅先や公園で指導し、その発展と普及に努めた。今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。その後スピースに引き継がれ、号令による運動や性別・年令に応じた段階的・組織的運動などを採り入れ、ドイツ初の器具装備の体操場を造った。1860年にはドイツ体操祭が開催され、今も4年に一度開催されている。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われたが、医者などの支持を得て、今日に至っている。