大日本編年史
この修史事業に携わっていたのは前記「修史の詔」が漢文による正史編纂を標榜していたことから分かるように基本的に漢学者であり、1875年以降修史局の幹部であった重野安鐸は、1880年『東京学士会院雑誌』に「国史編纂の方法を論ず」を発表し、清代考証学の伝統を引く実証的方法論を主張していた。しかしこのような方法論をめぐっては修史館内部にも意見の相違があり、1881年の機構改革に際し川田剛・依田学海が修史館を去った背景には、彼らと重野・久米邦武・星野恒との間に編纂方針をめぐる対立があったという見方もある。
コメント
コメントを投稿