桂川原の戦い
ところが、1526年7月に細川高国が香西元盛を誅殺すると、これに怒った丹波国の波多野稙通と柳本賢治が細川高国から離反、それに呼応して足利義晴の弟・足利義維を擁立する細川晴元も阿波で挙兵した。同年10月23日、細川高国は、丹波神尾山城に総大将細川尹賢を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、更に、足利義晴の名で元光に援軍を要請したため、同年12月、元光は足利義晴を支援するため上洛した。一方、丹波で細川尹賢を打ち破った波多野稙通と柳本賢治は京都に向けて進軍、堺に上陸した細川晴元が派兵した三好勝長、三好政長がこれに加わった。翌1527年2月、両軍は桂川原で激突したが、武田元光軍が三好軍の襲撃を受けて崩れ、細川高国軍も壊走、元光は将軍足利義晴、細川高国と共に近江国に逃亡した。
ところが、1526年7月に細川高国が香西元盛を誅殺すると、これに怒った丹波国の波多野稙通と柳本賢治が細川高国から離反、それに呼応して足利義晴の弟・足利義維を擁立する細川晴元も阿波で挙兵した。同年10月23日、細川高国は、丹波神尾山城に総大将細川尹賢を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、更に、足利義晴の名で元光に援軍を要請したため、同年12月、元光は足利義晴を支援するため上洛した。一方、丹波で細川尹賢を打ち破った波多野稙通と柳本賢治は京都に向けて進軍、堺に上陸した細川晴元が派兵した三好勝長、三好政長がこれに加わった。翌1527年2月、両軍は桂川原で激突したが、武田元光軍が三好軍の襲撃を受けて崩れ、細川高国軍も壊走、元光は将軍足利義晴、細川高国と共に近江国に逃亡した。
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