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内藤昌豊(1522~1575)

出生から信玄時代
1566年までに信濃国深志城の城代を務める。武田氏は西上野侵攻を行い、同1566年9月に箕輪城を攻略し、1567年3月に白井城を攻略し、西上野を領国化する。昌秀は1566年頃から後閑氏など上野国衆の取次を務めている。箕輪城代は1566年から1567年まで春日虎綱・真田幸隆による在番で、1568年から1569年には浅利信種が務めている。浅利信種は1569年10月6日の三増峠の戦いにおいて戦死したため、昌秀は信種の後任として永禄13年から1570年4月頃までに箕輪城代となり、長篠合戦で戦死する1575年まで務めている。なお、三増峠合戦で昌秀は小荷駄隊を率いて自軍の補給を支えたという。

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エイブラハム・ダービー1世(1678~1717)

ダービー父子~父、ダービー1世~ 父のダービーはブルストルで鋳物製造を行っていたが、砂型鋳物製造の特許を取り、事業を安定させ、1709年に石炭をコークス化して燃料として用い、鉄鉱石を熔解する高炉を成功させた。コークスは石炭を蒸し焼きにしてつくり、香炉の中で鉄鉱石と一緒に入れて燃やすと、不純物を除去することができる。また高炉はつねに高温を保たなければならないが、そのために従来は「ふいご」が使われていたがダービーは送風シリンダーを考案し、その問題も解決した。こうして本格的な製鉄業を興し、鍋などの生活用具からニューコメンの蒸気機関用の部品まで製造し、事業を成功させた。

度会家行(1256~1351)

伊勢神道 鎌倉時代末期に、それまでの両部神道や山王神道などの本地垂迹説とは逆に、反本地垂迹説が勃興するようになり、その影響で、伊勢神宮の外宮の神官である度会家行によって、伊勢神道が唱えられた。伊勢神道は、『神道五部書』を根本経典とする。また、儒教・道教思想の要素も含まれた最初の神道理論とされる。伊勢神道は、元寇により日本が神国であると再認識し、日本における唯一絶対の宗教は神道であるとする勢力から支持され発展した。日本書紀によると、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女で、天照大神の御杖代として各地を巡行し、伊勢の地で神宮を創祀した。「神道五部書」と呼ばれる伊勢神道の根本史料の一つ『倭姫命世記』に、度会郡を中心とする倭姫命の足跡が数多く記されている。

フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(1778~1852)

体操~ドイツ体操~ ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。バゼドーは神学教師であったが、哲学者ルソーの『エミール』に触発され、身体と精神は互いに助け合わなければならないと考え、その実現の場として1771年にデッサウに汎愛学校を設立し、平均台や徒歩競争などを含む体育法「ギリシャ体育」を生徒に施した。ヤーンは教育所を設立して高跳び用のスタンドなど体操用の器械を考案し、『ドイツ体操術』の著し、運動を愛国心に結び付け、旅先や公園で指導し、その発展と普及に努めた。今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。その後スピースに引き継がれ、号令による運動や性別・年令に応じた段階的・組織的運動などを採り入れ、ドイツ初の器具装備の体操場を造った。1860年にはドイツ体操祭が開催され、今も4年に一度開催されている。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われたが、医者などの支持を得て、今日に至っている。