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林秀貞(1513~1580)

織田信長の筆頭家老 秀貞は行政官として堅実な手腕を持っていた事が信長に評価されたものと思われ、稲生の戦い後に赦免された秀貞はそれまで通り織田家の家宰として清洲同盟の立会人を務めるなど、外交や行政面を中心に活動しており、武将というよりは政治家としての働きが目立つ。また、信長が発給した政治的文書に常に署名しており、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した際に信長の重臣と義昭の重臣が交わした起請文では秀貞が1番に署名している。また、『言継卿記』によると、山科言継が信長に拝謁する際には常に秀貞が奏者を果たしていたとされる。

サミュエル・テイラー・コールリッジ(1772~1834)

サスケハナ計画、『抒情民謡集』 1793年に『モーニング・クロニクル』誌に初めて詩が掲載される。1794年にウェールズに旅行し、途中立ち寄ったオックスフォードでロバート・サウジー、トマス・プールらと知り合い親しくなった。この頃はフランス革命に共鳴し、サウジーらとともにアメリカ大陸のサスケハナでの理想の平等社会「万民同権共同体」の建設を計画していた。既にアメリカに移住していたジョゼフ・プリーストリーから土地の斡旋を受けて、1795年に出航する予定だったが、資金不足で断念し、また考えの違いからサウジーとも別れる。資金集めの際に寄留したブリストルのフリッカー家の娘姉妹の一人、セアラ・フリッカーと婚約。フリッカーの娘姉妹とは仲間のうちコールリッジやサウジーら三名が結婚することになる。また、政治、宗教の面で急進的な思想を抱き、素行問題から大学を退学となった。

茨木のり子(1926~2006)

見えない配達夫~高麗村~ 栗の花のふさふさ垂れる道むかしの高句麗の王が亡命して住んだ村瓦を焼き野をひらきついにふるさとに帰れなかったひと今も屋根のそりにふるさとの名残りをとどめる子孫

ヘンリー・ローリンソン(1810~1895)

南西アジア 偶然の成り行きから、ローリンソンはインド総督の個人的知遇を得、オスマン帝国支配下のアラビアに赴く政務官に任命された。こうしてバグダードに定着したローリンソンは、楔形文字の研究に没頭した。当時のローリンソンは、相当の困難や、個人的リスクを伴ってではあったが、ベヒストゥン碑文の完全な転写を作成できるようになっており、内容の解読にも成功していた。サー・オースティン・ヘンリー・レヤードとともにニネヴェの遺跡を訪問するなど、様々な探検家たちへの聞き取りによって得られた豊富な地理的知識に加え、碑文について計り知れない価値をもつ資料を収集し、ローリンソンは1849年に休暇をとってイングランドに帰国した。

水野信元(不明~1576)

清洲同盟 水野信元と松平元康は、織田と今川の代理戦争のように、刈谷城外や石ヶ瀬川など尾張南部および西三河の国境周辺において戦っていたが、桶狭間の戦いによって、今川・武田・北条の三国同盟陣営は弱体化し、更に松平元康が今川家から独立してしまう。その上、同年5月から上杉謙信の関東出兵が始まっており、この情勢下において北条氏康は1561年に信元へ「松平の裏切りは嘆かわしいことである。自分自身が出馬しようか」と今川・松平の和解に向けた協調を呼びかけている。

ジョージ・ランドルフ(1818~1867)

南北戦争 アメリカ合衆国において南北間の対立が明白となってきた1860年、ランドルフはのちにバージニア州兵の砲兵部隊として活躍した組織リッチモンド榴弾砲隊を結成した。1861年3月、ランドルフはバージニア州連邦離脱会議にリッチモンド代表として出席し、バージニア州の連邦離脱を議論した。1861年4月12日、ランドルフはウィリアム・プレストンおよびアレクサンダー・スチュアートと特別代表団を構成してワシントンD.C.を訪れ、エイブラハム・リンカーン大統領と会談した。その席でリンカーンは南部に砦を保持し続けることを表明したため、3人は4月15日にリッチモンドへ戻り、バージニア州の連邦離脱の手続きを進めた。そして4月17日、バージニア州は連邦を脱退し、アメリカ連合国に加盟した。ランドルフはバージニア州の連邦離脱決議において、賛成票を投じた。

青島幸男(1932~2006)

東京都知事 1995年、参議院議員を辞職し、東京都知事選挙に無所属で出馬することを表明する。当初は、内閣官房副長官として7人の内閣総理大臣を補佐し、自民・自由連合・社会・公明4党からの推薦、新党さきがけからの支持を受けていた石原信雄の当選が有力視され、5選不出馬により勇退する鈴木俊一も事実上、石原を後継に考えていた。しかし青島は、開発が進む臨海副都心地区で開催が予定されていた鈴木肝煎りの世界都市博覧会の中止を公約に掲げ、石原や大前研一、岩國哲人、上田哲ら有力候補を破り、170万0933票を獲得して圧勝する。石原の落選は、「国民の政党に対する不信感の表れ」のまさしく象徴的な出来事であった。

フリーデリケ・ツー・メクレンブルク(1778~1841)

最初の結婚 1793年3月、ルイーゼと妹フリーデリケはフランクフルト・アム・マインの劇場で「偶然」プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と出会った。王は一瞬で姉妹の愛らしさに魅了され、彼女たちを自分の年長の息子2人、長男フリードリヒ・ヴィルヘルム王子と次男フリードリヒ・ルートヴィヒ王子に引き合わせた。姉妹の父公爵とプロイセン王との間ですぐさま婚姻条約が結ばれ、1793年4月24日に2組のカップルの婚約がダルムシュタットで祝われた。12月、姉妹は一緒にベルリンへ到着した。12月24日のクリスマスイブにルイーゼと王太子が結婚式を挙げ、その2日後にフリーデリケとフリードリヒ・ルートヴィヒ、通称ルイ王子の婚礼が行われた。

岩谷時子(1916~2013)

越路吹雪と歩んだ半生~越路吹雪とのエピソード~ 時子と越路が初めて接触したのは、当時新人だった越路が自分のサインの見本を書いてほしいと時子に相談を持ちかけたときだった。このとき2人で作ったサインを越路は終生使い続け、越路が忙しくなってからは時子が「代筆」することもよくあったという。

アンゲリカ・カウフマン(1741~1807)

  ダービー伯爵と家族

永易将之(1942~2003)

黒い霧事件 1969年10月8日、読売新聞と報知新聞が永易が公式戦で八百長を演じていたと報じ、球界内外に衝撃を与えた。永易はこの年の7月の大阪スタヂアムでの対南海戦で、打ち込まれたにもかかわらず悪びれた様子も見せない態度を見て、球団社長の国広直俊が不信感を抱いた。国広は永易を呼び、八百長をやっているのではないかと問いただしたが、永易は否定も肯定せず震えているばかりで何も話さなかった。国広は、この永易の態度から永易が八百長を演じていたと確信した。

カール・メンガー(1840~1921)

学説 人間は或る財を使用せる時価値順位の高い目的に先ず割り振るのである。故に財が一単位失われる時は最低の目的詰り限界単位が差し控えられるのである。そして夫れが其財の価値なのである。之れが限界効用理論である。而して財のパラドックスは解決せられた。譬えば水は百単位あるが、ダイヤは十単位しか無いとしよう。則ち水の限界単位とダイヤの限界単位ではダイヤの効用の方が大きい。勿論大規模の金鉱が存在する沙漠では、之れとは真逆になるであろう。

渡辺綱(953~1025)

羅城門の鬼 源頼光が酒吞童子を討伐した後、自分の屋敷で頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ、平井が、羅城門に鬼がいると言い出した。四天王の1人・渡辺綱は、王地の総門に鬼が住む謂れはないと言い、確かめるために鎧兜と先祖伝来の太刀で武装して馬に乗り、従者も従えずに1人で羅城門へ向かった。

アルレット・ド・ファレーズ(1003~1050)

エルリュアン・ド・コントヴィルとの結婚 別の説では、アルレットがロベールの死後もエルリュアンと結婚しなかったことを示唆している。なぜならロベールが他の女性との関係を始めた記録がないのに対し、エルリュアンがグレスタン修道院を創建した時点でフレドサンディスという別の女性と結婚しているからである。

ヴァスィリー・エロシェンコ(1890~1952)

東京盲学校での学習と生活 エロシェンコは、1914年5月11日に東京盲学校を訪ね、按摩術とマッサージ研究のための入学を許可される。東京盲学校の生徒は、年齢がばらばらではあったが、エロシェンコは他よりも年輩で、堂々たる偉丈夫だった。日本語が上手で、生徒と按摩の練習をしたり、話しあったり、相撲で遊ぶこともあった。盲学校の生徒を対象に、エスペラントの講習会を何回も開いた。熱心に学んだ人たちに、鳥居篤治郎、平方龍男、新津吉久、斎藤武弥・百合夫妻、三谷復二郎、熊谷鉄太郎、今関秀雄らがいる。また、これらの人々に、バハイ教の教義をも教えていた。のちに外国の盲人組織とも連携して日本盲人会連合会長として活躍する鳥居篤治郎の仕事も、このエスペラント学習に負うところが大きい。通常授業の前に小川源助に按摩術を習い、他の生徒とともに練習した。校内で他の生徒と同格での講演・ギター演奏・バイオリン演奏をすることもあった。1916年5月6日に築地盲人技術学校で開かれた中央盲青年会で講演をしたのは、小森・平方龍男・エロシェンコ・高木正年・立花盲人会長・斎藤武弥であった。当時の盲人会の重鎮と並んで講演していることからも、エロシェンコの当時の立場が察せられる。しかし、1921年、思想的に危険人物と疑われ国外に追放される。

スンジャタ・ケイタ(1217~1255)

信仰 ニアヌは、スンジャタがムスリムであったのではないかと推定した。ところが、ジョン・フェイジによると、その主張の根拠となるような口承伝統叙事詩はまったく存在しない。スンジャタの臣民は先祖伝来の宗教を墨守し、スンジャタもまたそうすることで臣民の支持を得ていたとするのが通説である。その他、スンジャタはムスリムではあったが伝統宗教も重んじていたという説がある。スンジャタの跡を継いだマンサは、マッカ巡礼で有名なマンサ・ムーサは言うに及ばず、スンジャタの息子とされるマンサ・ウリ・ケイタも含めて、みなムスリムであったとされる。

北の湖敏満(1953~2015)

日本相撲協会理事長として 2006年2月より理事長3期目を迎え、協会の事業部長に二所ノ関の先輩理事を2期据えてきたが、3期目は同じ出羽海一門の14代武蔵川を事業部長にすることで「攻め」の姿勢も見せている。また、勧進元制に復しながらも実績不振に陥っている巡業を強化するため、2期目まで監事2名だった巡業部副部長を契約推進担当を3名にして巡業部スタッフを強化した。

マージェリー・シャープ(1905~1991)

ミス・ビアンカシリーズ~くらやみ城の冒険~ 優雅な白ねずみミス・ビアンカ、勇敢な船乗りねずみニルス、沈着冷静な家ねずみバーナードの3びきが、断崖絶壁にたつくらやみ城の地下牢から詩人を救出するという危険な仕事をひきうけます。

舟越保武(1912~2002)

  笛吹き少年

ベニグノ・アキノ・ジュニア(1932~1983)

暗殺 8月21日、フィリピン軍の兵士たちが厳重に警戒にあたっていたマニラ国際空港に、ニノイは台北空港から乗ってきた中華航空機で到着した。機内には、アキノ帰国を取材するために多くの取材陣が同乗しており、テレビカメラによる撮影もされていた。そこへ3人の兵士が旅客機に乗り込み、ニノイを機外へと連れ出しに来た。兵士は、立ち上がってニノイと一緒に出ようとした、義弟ケン・カシワハラに「You just take a seat!」と告げた。ニノイは兵士と伴にボーディングブリッジ側のタラップを降りると、10秒後に頭を撃たれて即死した。ニノイ最期の言葉は、飛行機を降りる直前に同行していた記者に言った「必ず何かが起こるから、ビデオカメラを回し続けておいてくれ」だった。

亀倉雄策(1915~1997)

日本グラフィックデザイン協会 1978年、戦後日本のグラフィックデザインの礎を築き、東京オリンピックポスターをはじめ数々の作品を残した亀倉雄策らを中心に設立。グラフィックデザインの向上を目指し、年鑑やデザイン教科書の発行、さまざまなテーマの展覧会やセミナーの開催、地域振興や公共デザインの取り組み、デザイナーの権利の保護など、多岐にわたる活動を全国的に行っている。

ハインリヒ・シュッツ(1585~1672)

楽長就任以降 ドレスデンの楽長職について最初の10年間は楽団を組織する仕事に従事できた。楽長としてシュッツは、合唱団と器楽奏者たちからなる宮廷楽団の監督を行った。場合によって政治的な判断さえ行いながら、宮廷の音楽すべてに責任を持ち、教会音楽も世俗音楽も手がけた。しかし彼の手による劇場用の世俗音楽は、たいてい台本が印刷されただけで、音楽そのものは失われている。

かこさとし(1926~2018)

からすのパンやさん いずみがもりのからすのまちにあるパン屋に、4羽の赤ちゃんが生まれた。からすの夫婦は子ども達の意見を参考にユニークな形のパンをたくさん作り、パン屋は大いに繁盛する。

ヘンリー・バーグ(1813~1888)

アメリカ動物虐待防止協会 活動理念として「動物虐待の防止のための効果的な手段を合衆国に提供する」ことを掲げている。英国動物虐待防止協会にならい、1866年4月6日にヘンリー・バーグが設立した。アメリカ合衆国のこの種の団体としては最古である。

森可成(1523~1570)

宇佐山城の戦い 同年9月、宇佐山城に在った可成は浅井長政・朝倉義景の連合軍出撃の知らせを受けて進軍を妨害する為に宇佐山城より出撃して坂本に陣取り街道を封鎖。9月16日に緒戦においては連合軍3万を1千の軍勢で撃退する。しかし石山本願寺法主・顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬、玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったため信長の弟・織田信治、近江の国人・青地茂綱と共に討死した。

ジミー・デュランテ(1893~1980)

「デカッ鼻」 その後、1920年代から当時最先端のメディアであったラジオのボードヴィルショーなどに出演し人気を博し、その後映画に進出。バスター・キートンなどと共演し、「デカッ鼻」のあだ名で人気を博し多数の映画に出演する。

周富徳(1943~2014)

テレビへの出演 テレビ番組には、「南園」時代からNHK『きょうの料理』に出演していたが、1990年代に入ってからは、テレビ東京系『浅草橋ヤング洋品店』、TBS系『わいど!ウオッチャー』火曜日のコーナー「周富徳の中華指南」、フジテレビ系『たほいや』などの番組への出演でブレイクし、全国区の人気となった。

ゼルダ・セイヤー(1900~1948)

国籍離脱 二人は住所をパリに移し、そこからすぐにコート・ダジュールのアンティーブに移った。スコットが2作目の長編の執筆にかかりきりになった事で構ってもらえなくなった間、ゼルダは若く溌剌としたフランス人の空軍パイロット、エドゥアール・ジョーザンに夢中になった。ゼルダはジョーザンと日暮れまでビーチで泳ぎを楽しみ、夜はカジノでダンスをした。6週間後、ゼルダはスコットに離婚を申し出た。これに狼狽した彼は、はじめジョーザンに会わせろと要求したが、ついにはゼルダを自分たちの家に監禁し、離婚を諦めるまでそこに閉じ込めた。ジョーザンはゼルダが夫にそんな頼み事をしていることを知らず、その年のうちにコートダジュールを去り、ゼルダと再び会うことはなかった。ゼルダとジョーザンがどこまでの関係であったかは不明だが、多くの関係者は2人が肉体関係にまで及んでいたと考えている。しかし、後にジョーザンはゼルダの伝記作家ミルフォードとのインタビューで「あの二人はどちらもドラマを必要としていた。彼らはそれをでっちあげ、おそらくは自分たちの穏やかでない、すこしだけ不健全な想像力の犠牲者に進んでなったんだ」と述べ、これを否定している。

覚猷(1053~1140)

鳥獣人物戯画 鳥獣人物戯画は、京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵に始まる戯画の集大成といえる。特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化されて描かれた甲巻が非常に有名である。

バッファロー・ビル(1846~1917)

ワイルド・ウェスト・ショー 1880年ころから拳銃捌き・駅馬車襲撃などを実演してショー化した『ワイルド・ウェスト・ショー』を立ち上げ、米国内やヨーロッパを巡業した。往年のガンマンや無法者、そしてスー族インディアンのシッティング・ブル本人などが参加したため人気を集め、興行は大成功した。生まれ故郷のアイオワ州でも何度もワイルド・ウェスト・ショーの興行を開催したが、1913年のアイオワ州ダベンポートでの開催を最後にする。

井筒俊彦(1914~1993)

語学の天才 1959年より、ロシア・フォルマリストのローマン・ヤーコブソンの推薦を得てロックフェラー財団フェローとして、レバノン、エジプト、シリア、ドイツ、パリなど中近東・欧米での研究生活に入る。思想研究の主要な業績はイスラーム思想、特にペルシア思想とイスラーム神秘主義に関する数多くの著作を出版したことだが、自身は仏教徒で、晩年には研究を仏教哲学、老荘思想、朱子学、西洋中世哲学、ユダヤ思想などの分野にまで広げた。古代ギリシャ哲学やロシア文学に関する専門書も若くして出版している。東洋思想の「共時的構造化」を試みた『意識と本質』は、井筒の広範な思想成果が盛り込まれた代表的著作とされる。

マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(1892~1918)

航空隊へ リヒトホーフェンが志望した当時の飛行隊にはまだ戦闘機はなく、単機同士の銃撃戦や飛行機が編隊飛行を行うことさえなかった。飛行機は写真偵察や味方砲撃での着弾観測が主任務で、パイロット同様に優れた偵察員が必要とされた。彼の志望の動機も「少なくとも前線で何が起きているかを見ることができるから」であった。彼は、ケルンの第七飛行訓練所で4週間の座学と15時間の機上訓練を受けることとなり、訓練所では最初に機上試験で飛行機に乗れるかが試された。リヒトホーフェンの偵察員の訓練教官は、アルバトロスB.II偵察機の名操縦士ツォイマー中尉であった。

大谷光演(1875~1943)

句仏事件 光演が父親から法主を受け継いだ1908年当時、普段の出費過剰に加えて、焼失講堂の再建費や北海道開拓事業費、明治政府への賦課金などで東本願寺は巨額の負債を抱えていた。光演は再建のため海外投資などを試みたが全て失敗し、債権者の返済要求により所有資産の限定相続宣告に追い込まれた。監督官庁である文部省が指導に入り、岡田良平文相の忠告で光演は管長職を諭旨退職することになり、本願寺在職も辞し、息子の大谷光暢に24世紀を継職した。これに反発して、句仏上人擁護運動も展開されたが、1925年に大谷家相続財産の破産宣告が下され、1929年には光演の僧籍も削除された。光演を支持して抗議運動を展開した近角常観らも僧籍を剥奪されたが、1935年に僧籍復帰は認められた。

アル・ハリーリー(1054~1122)

マカーマート イスラーム世界を放浪するアブー・ザイドなる人物が己の弁才を以って諸処で騙りをはたらく様を、バスラ出身の教養人ハーリスが目撃し語る形の物語50篇からなる。二人の人物は架空だが、アブー・ザイドについてはエデッサ伯国に近いサルージュ出身地で、侵略により流浪の身となったと語られているため、アル・ハリーリーの同時代の出来事であった十字軍侵略が背景になっていると考えられている。アブー・ザイドの騙りは、辻説教や裁判、文化人の会合等様々な場面で展開され、それに応じて題目は道徳やイスラーム法、詩や文法等多岐にわたりながら、巧みに目的を達成する様子が各篇で活き活きと描写されている。叙述は、全文が基本的にサジュウ体と呼ばれる一種の韻文で書かれ、更に修辞や言葉遊び、文字遊び、難解な単語を駆使し、イスラーム世界の故事、諺を多く織り交ぜた極めて完成度の高いものとされている。このため古来多くの注釈書が書かれてきた。

三橋鷹女(1899~1972)

鷹女の俳句 ひるがほに電流かよひゐはせぬか みんな夢雪割草が咲いたのね 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 深追いの恋はすまじき沈丁花 虹消えて了へば還る人妻に 春の夢みてゐて瞼ぬれにけり 白露や死んでゆく日も帯納めて 千万年後の恋人へダリヤ剪る 百日紅何年度は老婆たち 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし

サミュエル・ラングレー(1834~1906)

ボロメータ ボロメータは入射する電磁波などの放射のエネルギーを、温度に依存する電気抵抗を持つ物質を受ける熱を通して計測する観測機器である。1878年にアメリカ人天文学者サミュエル・ラングレーにより発明された。名前は、光線のことを放り投げられたものを意味するギリシャ語: βολη により表現している。

星野立子(1903~1984)

立子の俳句 絵巻もの拡げゆく如春の山 しんしんと寒さがたのし歩みゆく 午後からは頭が悪く芥子の花 朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ ままごとの飯もおさいも土筆かな 燃えきりし焚火のそばに語りをる 蓑虫の留守かと見れば動きけり 鞦韆に腰かけて読む手紙かな 言問の出船の鐘や桜餅 ほどほどになすことおぼえ老の春 水連の敷き重なりし広葉かな この旅の思ひ出波の浮寝鳥 いつの間に風冷えて来し辛夷かな 魂の抜けはてて昼寝かな 山寺の天井までも秋日和 秋晴の茅舎訪へばよろこべり 何といふ淋しきところ宇治の冬 初秋の大きな富士に対しけり 斯かる人ありきと炭火育てつつ 大佛に足場かけたり小六月 昃れば春水の心あともどり 囀をこぼさじと抱く大樹かな 父がつけしわが名立子や月を仰ぐ 美しき緑走れり夏料理 雛飾りつつふと命惜しきかな

ヴィルヘルム・ヴェーバー(1804~1891)

業績 ガウスによってゲッティンゲンに招かれたヴェーバーは、まず共同で地磁気の研究にとりかかった。1833年にはゲッティンゲンに地磁気観測所を設け、みずから開発した精密な磁気計を用いて1836年から1841年まで国際的な地磁気観測を行い、世界最初の磁気地図を発表した。またこの際、研究所とガウスのいる天文台との間に、商業的には使用されなかったもののこれも世界初となる実用的な電信装置を設置した。

山本徳郁(1977~2018)

総合格闘技転向・修斗 オリンピック出場への道が絶望的になったのと同時期に姉・美憂の夫であるエンセン井上に師事して総合格闘技に転向。姉からの総合格闘技のビデオを見せられたのがきっかけになったという。2000年7月、愛知で行われたアマ修斗ワンマッチにて2RKO勝ちでアマデビュー。同年9月第7回全日本アマチュア修斗選手権大会ライト級で優勝。翌2001年にプロデビューし修斗で世界ライト級ランク2位まで登り詰めた。

アレクセイ・コスイギン(1904~1980)

フルシチョフ時代 スターリンの死から半年後の1953年9月に工業製品大臣となり、12月にはスターリンの後継首相であるマレンコフの下で閣僚会議副議長に復帰した。ニキータ・フルシチョフの権力が優勢になると、1956年にゴスプラン第一副議長に任命された。1957年の反党グループ事件に際しては、フルシチョフを支持した。その理由についてコスイギンは後に「血が再び流れると考えたからだ」と述べている。

海野十三(1897~1949)

人間灰 赤沢博士の経営する空気工場は海抜一千三百メートルの高原にある右足湖畔に建っていた。この空気工場では、三年ほどの間に雇人がつぎつぎに六人も、奇怪なる失踪をした。そして今に至るも、誰一人として帰って来なかった。ずいぶん永いことになるので、多分もう誰も生きていないだろうと云われているが、ここに一つの不思議な噂があった。それは彼の雇人が疾走する日には、必ず強い西風が吹くというのである、だから雇人たちは、西風を極度に恐れた。

マーロン・ブランド(1924~2004)

トップスターへ 『乱暴者』で反抗的な若者を演じ、新しいタイプのスターとして注目を浴びる。イギリスなどでは、この映画は反社会的とされ上映が禁止されたが、ブランドの革ジャンとジーンズでオートバイにまたがる写真を見た世界中の若者が、そのスタイルを真似るようになる。そんな若者の中にはエルヴィス・プレスリーやビートルズなど、後に有名になる者もいた。

石原慎太郎(1932~2022)

太陽の季節 ある日、竜哉は街でナンパした少女の英子と肉体関係を結び、英子は次第に竜哉に惹かれていく。だが竜哉は英子に付き纏われるのに嫌気がさし、英子に関心を示した兄・道久に彼女を5千円で売りつける。それを知った英子は怒って道久に金を送り付け、3人の間で金の遣り取りが繰り返される。

フリードリヒ・エーベルト(1871~1925)

ヴァイマル共和国初代大統領 1919年7月にヴァイマル憲法が制定され、ヴァイマル共和国が発足すると、国民議会で臨時大統領から正式の大統領に選出され、初代大統領となった。エーベルト大統領は穏健左派としてヴァイマル共和国を脅かす左右からの揺さぶりをうまくかわし、舵取りにあたったが、1925年に病死した。ヴァイマル憲法下の最初の大統領直接選挙ではエーベルトとまったく方向性の異なる右翼の軍人ヒンデンブルクが選出された。

三の丸殿(不明~1603)

醍醐の花見 確かな史料に初めて名前が出てくるのは、1598年3月の醍醐寺の花見の記述であり、三の丸殿は4番目の輿にて花見に参加した。御供として随従したのは平塚為広と片桐且元で、側室の序列としては3位だった。

アーサー・エヴァンズ(1851~1941)

クノッソス遺跡 クレタ島は地中海の東部、エーゲ海の入口にある大きな島。クレタ島の中央部にあるクノッソスで、イギリス人のエヴァンズが1900年から本格的に発掘を開始した。その結果、前2000年頃から前1400年ごろの青銅器文明の存在を明らかになり、クレタ文明と名付けられた。クノッソスは伝承上のミノス王の都とも考えられ、そこからクレタ文明をミノス文明とも言う。