織田信長の筆頭家老 秀貞は行政官として堅実な手腕を持っていた事が信長に評価されたものと思われ、稲生の戦い後に赦免された秀貞はそれまで通り織田家の家宰として清洲同盟の立会人を務めるなど、外交や行政面を中心に活動しており、武将というよりは政治家としての働きが目立つ。また、信長が発給した政治的文書に常に署名しており、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した際に信長の重臣と義昭の重臣が交わした起請文では秀貞が1番に署名している。また、『言継卿記』によると、山科言継が信長に拝謁する際には常に秀貞が奏者を果たしていたとされる。