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10月, 2021の投稿を表示しています

竹原春泉斎(生没年不詳)

絵本百物語~二口女~  

ヴィッサリオン・ベリンスキー(1811~1848)

思想と影響 ロシア文学においてベリンスキーは、チェルヌイシェフスキー・ドブロリューボフにより継承発展させられ、ロシア・マルクス主義の〈社会主義リアリズム〉へと連なる文学観・芸術観の伝統を創設した人である。彼は純粋芸術を否定し、芸術は特殊な社会関係を背景とすると考え、この見地から18世紀以来のロシア作家・詩人を評価した。最初の国民詩人としてプーシキンの意義を確定し、それをついだレールモントフを高く評価し、〈現実生活の詩人〉としてゴーゴリを、またはゴンチャロフやコリツォーフ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーを発見し、熱烈に紹介した。

松島詩子(1905~1996)

マロニエの木蔭 空はくれて丘の涯に輝くは星の瞳よなつかしのマロニエの木蔭に風は想い出の夢をゆすりて今日も返えらぬ歌を歌うよ彼方遠く君は去りて我が胸に残る瞳よ想い出のマロニエの木蔭に一人たたずめば尽きぬ想いに今日もあふるる熱き涙よ空はくれて丘の涯にまたたくは星の瞳よなつかしのマロニエの木蔭にあわれ若き日の夢の面影今日もはかなく偲ぶ心よ

エルンスト・エンゲル(1821~1896)

エンゲル係数 "エンゲル係数の値が高いほど生活水準は低い"傾向にある。これは、食費は生命維持の関係から極端な節約が困難なためであり、これをエンゲルの法則という。経済成長に伴い生活水準が向上していくため、エンゲル係数は経済成長に伴い低下していく。

伊東祐親(不明~1182)

所領争い 伊東を領する工藤祐隆の嫡男であった父・伊藤祐家が早世すると、祖父・祐隆は後妻の連れ子である継娘が産んだ子である伊藤祐継を養子とし、嫡男として本領の伊東荘を与え、同じく養子にした孫の祐親には次男として河津荘を与えた。嫡孫として約束されたはずだった総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・祐経が上京している間に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせた自身の娘・万劫御前とも離縁させてしまった。

アブデュルハミト1世(1725~1789)

戦間期 アブデュルハミトは即位後軍事的、領土的な穴埋めをすべくイェニチェリの軍事力を強化するために装備の更新や新たな砲兵隊の設立、イスタンブールに工科学校を設立などをした。さらにエジプト、シリア。ギリシャ、イラクでのオスマン帝国の支配力を強化しようとした。イラクでの支配力強化は失敗したもののエジプトではアリー・パシャの独立宣言以来弱まっていた支配力を強化することに成功した。シリアやペロポネソス戦争ではオスマン帝国に対する反乱が起きていたが鎮圧するなどした。

石橋正二郎(1889~1976)

ブリヂストン 社名の由来は、創業者の石橋正二郎にちなみ、英語の「ブリッジ」と「ストーン」を合成したものの。姓を直訳して「ストーンブリッジ」では語呂が悪いので、逆さにして「ブリヂストン」とした。また当時、タイヤの世界的ブランドだったファイアストンのような一流企業になりたいという思いも込められた。

サラ・ベルナール(1844~1923)

名声の確立と独立 1880年にサラは「フランス人」の栄光とともに退職し、彼女には、契約の濫用に対する損害賠償として10万フラン相当の金が支払われた。彼女は自分で会社を設立し、その会社とともに1917年まで外国で演技の仕事をし、財を成すことにした。サラは、はじめて国際的な「スター」となった人物であり、五大陸をツアーとしたコメディエンヌであった。そのスターぶりはジャン・コクトーとして「聖なる怪物」と言わしめた。また、遅くとも1881年に行われたサラ・ベルナールのロシア興行の際に、当時新聞記者であったアントン・チェーホフは、悪意のある筆致で次のように描いている。「北極と南極を訪れ、旅の軌跡は五大陸に広がり、海原を超えて、一回ならず天国まで昇ったこの女」。また、新聞記者らの狂騒を「固定観念」となったものの後を追って「飲まず食わずで、ただ走り回っているだ」と風刺した。

邦光史郎(1922~1996)

海の邪馬台国~三内丸山遺跡が古代史の定説を変えた~ 古代の繁栄は、水辺を離れては成立しなかった。縄文都市・三内丸山遺跡も、弥生時代の代表的集落・吉野ヶ里も、海を窓口としていたから繁栄を手に入れたのだ。古代の“海”が生んだ壮大なドラマ…の共通点を探ることで浮かび上がってくる、邪馬台国の真の姿を追う!

アンドレ・ブルトン(1896~1966)

シュルレアリスムの父 ブルトンはシュルレアリスムを創始し、運動として組織した。その中でブルトンは前述の通り「法王」として君臨した。そのようなブルトンは、エルンストやダリら多くの芸術家をシュルレアリスムから「除名」している。このブルトンの態度、行動、やり方といったものには多くの人間が反発しており、例えばダリは「ブルトンはシュルレアリスムの父であり、子は常に父より優れ、子であるダリはその父から離れていった」と語っている。最初の妻シモーヌはブルトンとの結婚以前に、友人への手紙でブルトンを「率直な」人物と評していたが、著書にしばしば見られる過激な言葉などからも、ブルトンの人柄がいくらか知れるだろう。アラゴン、エリュアール、スーポーといった、シュルレアリスムを創始したメンバーのほとんどは、後にブルトンの元を離れている。

古今亭志ん朝(1938~2001)

志ん朝に影響を与えた落語家 6代目三遊亭圓生も敬愛する大先輩であった。1978年5月の落語協会分裂騒動では、志ん朝は一時的に圓生と行動を共にして落語協会脱退を表明している。しかし当初見込みとは異なり、東京都内の落語定席の席亭たちは圓生の新団体に寄席出演を許可しなかった。志ん朝一人だらけならば3代目三遊亭金馬のように寄席に出ずに活動することは可能だが、自らの弟子を含む若手の落語家にとって寄席出演は芸を磨くために重要と考え、周囲の説得もあって脱退を撤回した。この時「これからは芸を見てもらう、それしかありません」と決意表明をし、落語協会の会長であった5代目柳家小さんは、新宿末廣亭の北村銀太郎の助言もあり香盤を下げずに志ん朝を含む協会復帰組を受け入れた。

アルフレド・ストロエスネル(1912~2006)

大統領時代 1956年-1957年には左翼勢力による権力奪取の試みがあったが失敗し、反ストロエスネル派の人々は海外へ亡命した。以後1958年から1988年まで5年の任期ごとに計8選された。当時は冷戦下にあり、徹底的な反共主義者だったストロエスネルは非同盟のユーゴスラビアを除く共産圏とは国交を結ばず、アメリカを始めとする西側諸国の厚い庇護に恵まれたことや、隣国のアルゼンチンをはじめ中南米にはまだ軍事政権が多く、民主化を求める流れに至っていなかったことで長期政権の維持に成功した。

坂上弘(1936~2021)

近くて遠い旅 会社生活と文学を両立させて四十年。定年を控えた修吾が仄かに惹かれる同世代の従妹は、娘を乳癌で失う苦境に陥っている。その彼の前に現れたのは、夭折した先輩作家の初恋の女性だった…。ドイツ中都市と日本の美しい四季を背景に、自立をめざした二人の女性に導かれるように、主人公は、過去の部屋に入る。一枚のタペストリイのように繊細で甘美な感情を織りなす長篇小説。

ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア(1766~1840)

政策~教育・生活~ フランシアは対立者の追放と高等教育の廃止を行い、新聞や郵便といったインフラストラクチャーの発展も阻害した。また、宗教裁判所を廃止し、代わりに秘密警察を創設した。こうした独裁的な政治は、アルゼンチン等のパラグアイの独立を認めない国々から国土を防衛する為の巨大な軍隊が必要だとフランシアが考えていた為であった。

山川方夫(1930~1965)

愛のごとく 「私はいつも自分にだけ関心をもって生きてきたのだ。」という鮮烈な一行から始まる。29歳の主人公「私」は、家族との激しい葛藤から逃れるように人妻と嗜虐的な情事に溺れていく。自分と家族・他者との関係性を描く。

アーサー・テューダー(1486~1502)

カタリナ王女との結婚、早世 ヘンリー7世は、パジェントリで、アーサー王伝説や聖カタリナにちなんで2人を讃える演目を披露する等、アーサーとキャサリン夫妻の王位継承の正統性を印象付けるための配慮をした。11月14日にセント・ポール大聖堂で挙式したが、結婚を「完成」させたか否かは重視されなかった。

立川談志(1936~2011)

落語立川流創設 1978年、6代目三遊亭圓生ら三遊派が落語協会脱退。落語協会分裂騒動となる。この脱退については諸説あり、落語史としても今なお不透明な部分が多い。談志と5代目圓楽を黒幕とする説が多数説だが、反響の大きさに慌てる談志の姿が目撃されてもいる。また、参加しないと思われていた志ん朝が参加してしまったため、慌てて参加を取りやめたとの説もある。川柳川柳の著書によると、談志は脱退した三遊派で構成される「三遊協会」の次期会長は自分だと思い込んでおり、圓生に確認したところ、「次は志ん朝だ」と答えられたため、思惑が外れて計画から手を退いたという。金原亭伯楽の著書にも同趣旨が記述されている。

ウィリアム4世(1765~1837)

治世 1830年、長兄ジョージ4世の後を襲って王位に即く。戴冠式などどうでもいいと言い出して側近を慌てさせたが、華美にしないことと節約を条件に挙行を渋々受け入れた。派手好きな貴族たちがそんな地味な式など面白くないと騒ぎ出すと、「ウェストミンスター寺院が広々として涼しげではないか」と全く意に介さなかった。65歳という当時としては高齢の新国王は、海軍時代にロンドン市内を自由に歩き回ったのと同じように、侍従も連れずに気軽に市中へ出かける習慣を止めなかった。幸運にも街角で国王を見つけたロンドン市民は歓喜のもとに彼を取り巻き、彼もまたそうした者たちと気さくに握手をしたり語りかけたりして人気を集めた。

大姫(1178~1197)

入内問題 頼朝はその年の10月から上洛の準備を始め、翌1195年2月、政子と大姫・頼家らの子女を伴って京へ上る。表向きの目的は東大寺の落慶供養であったが、都では大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていた。頼朝は宮廷の実力者である土御門通親と丹後局にさかんに接触を図る。3月29日には丹後局を招いて政子と大姫と対面させ、銀製の蒔絵の箱に砂金300両を納め、白綾30反など多くの派手な贈り物をし、その従者たちにまで引き出物を送った。

マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン(1798~1870)

奇跡の子 1830年、七月革命によりブルボン王家はフランスから追われた。マリー・カロリーヌは国王一族と共にイギリスに亡命したが、国王一家が1831年にオーストリア皇帝フランツ1世が用意したプラハのフランシン宮殿へ向かうことを決めた際、マリー・カロリーヌは同行せず、単身ジェノヴァを経由しローマに向かった。ローマ教皇グレゴリウス16世はフランス王ルイ・フィリップに、マリー・カロリーヌを匿う意図はないと誓った。マリー・カロリーヌはローマから実家のナポリ宮廷へ連絡をしたが、家族すら彼女を疎み、異母弟である両シチリア国王フェルディナンド2世は困惑した。

安藤守就(1503~1582)

織田氏家臣 1567年、信長の美濃侵攻軍に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕えた。その後は1568年の上洛戦、1570年の姉川の戦いなどにも参加している。1571年の伊勢長島攻めでは三人衆の氏家直元が殿を務めて戦死しているが、守就もこの戦闘に参加しており負傷している。

カス・ダマト(1908~1985)

人物 ピーカブーを使いこなしマイク・タイソンやフロイド・パターソン、ホセ・トーレスは、いずれもボクシング史に残る名チャンピオンとなった。だがトレーナーとしてはこうしたファイトスタイルの指導一本やりであったことや、他人をあまり信用しない頑固な性格も災いとして、トーレスを世界チャンプに育てて以降タイソンに会うまでは指導実績に恵まれなかった。

毛利就隆(1602~1679)

萩藩からの独立騒動 1634年7月、将軍・徳川家光が諸大名に改めて領知朱印状を与えるために江戸へ上る。これを好機と見た毛利秀元は、家光に直接自らの所領を安堵してもらうことで萩藩からの独立を図り、これに就隆も同調した。秀元は縁戚の永井尚政の協力を受け、老中の土井利勝と酒井忠勝にたびたび密かに面会し、水面下で独立運動を展開した。

オットー・ウィフテルレ(1913~1998)

コンタクトレンズの開発 ウィフテルレは、生体と接し続けても問題のない素材を見つけるために、架橋性の親水性ゲルを合成する研究に専念していた。ウィフテルレは同僚のドラホスラフ・リムの協力により、最大40%の水を吸収し、適切な機械的特性を持ち、透明な架橋性ゲルの作成に成功した。これがポリメタクリル酸ヒドロキシエチルであり、1953年にリムと共同で特許を取得した。ウィフテルレはpHEMAがコンタクトレンズに適した素材ではないかと考え、ソフトコンタクトレンズに関する最初の特許を取得した。1954年に、この素材が初めて眼窩インプラントとして使用された。1957年にウィフテルレは、ポリスチレン製の型から約100枚のソフトレンズを製造したが、型からレンズを外すときに縁が裂けたり破れたりした。手作業による最終的な仕上げを必要とした。ウィフテルレはコンタクトレンズの改良のための研究を続けていたが、1958年の共産主義者による政治的粛清により、ウィフテルレをはじめとする研究者は化学技術研究所を去ることになった。

三好宗渭(不明~1569)

長慶への帰順と三好三人衆 1558年9月には仇敵であった長慶の家臣となっている。以後は長慶の勢力拡大に貢献し、1562年の畠山高政攻めに参陣して武功を挙げた。1564年に長慶が死ぬと、長慶の甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。おしどりを形どった花押を用いていたという。1565年3月には出家して釣竿斎宗渭と名乗り、同年5月19日、他の三人衆、松永久通と共に三好氏と対立する室町幕府13代将軍足利義輝の御所を襲撃して殺害した。

セルジオ・レオーネ(1929~1989)

「ドル箱三部作」 1960年代に入り『ソドムとゴモラ』、『山猫』、『クレオパトラ』といった歴史劇大作が次々と興行的に失敗、イタリアの歴史劇バブルは急速に終焉し、同時にイタリアの映画産業自体も大打撃を受ける。この頃、レオーネはイタリアで公開された黒澤明の『用心棒』に深い感銘を受け、1964年に『用心棒』を西部劇風に翻案した『荒野の用心棒』を監督する。『荒野の用心棒』は低予算での製作ながら本国イタリアのみならず世界的に大ヒットし、1960年代後半のマカロニ・ウェスタンブームの火付け役となった。しかし、製作にあたり正式な許可を得ていなかったため公開後盗作問題が浮上、黒澤側に著作権侵害だとして訴えられることになる。裁判の結果を受けてレオーネたちは、黒澤プロにアジアでの配給権と全世界における興行収入の15%を支払うことになった。  

本庄繁長(1540~1614)

本庄繁長の乱 本庄繁長は、1568年4月から1569年3月にかけて揚北衆の本庄繁長と越後国主上杉謙信との間で行われた越後国本庄城を中心とした大規模な内乱でその影響は信濃や越中方面にも伝わった。上杉家の主立つ武将が総動員された戦いであり、本庄繁長の武名が一躍有名になった戦い。この戦いは後に繁長の主君となる上杉景勝の初陣であったとも伝わる。

リー・ハーヴェイ・オズワルド(1939~1963)

ケネディ大統領暗殺と逮捕 1963年10月半ば、オズワルドはテキサス教科書倉庫に就職した。翌月の11月22日、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領が、遊説のためダラスを訪れる。ウォーレン委員会の報告書では、1963年11月22日午後0時30分頃、オズワルドが働いていたテキサス州ダラスの教科書倉庫ビル6階の窓から狙撃し、ケネディ大統領を暗殺したと発表している。

白隠慧鶴(1686~1769)

思想 彼は初めて悟りの後の修行の重要性を説き、生涯に三六回の悟りを開いたと自称した。その飽くなき求道精神は「大悟十八度、小悟数知らず」という言葉に表象され、現代に伝わっている。また、これまでの語録を再編して公案を洗練させ、体系化した。中でも自ら考案した「隻手音声」と最初の見性体験をした「趙州無字」の問いを、公案の最初の入り口に置き、以後の修行者に必ず参究するようにさせた。また、菩提心の大切さを説いた。菩提心の無き修行者は「魔道に落ちる」と、自身の著作に綴っている。彼は生涯において、この四弘誓願を貫き通し、民衆の教化および弟子を育てた。

オスマン2世(1604~1622)

ポーランド遠征 オスマン2世が次に企図したのは、ポーランド遠征であった。黒海北岸には、コサックと呼ばれる自由民が居住しており、ときおり黒海を船で南下しアナトリア北岸を略奪していた。さらにはボスポラス海峡に侵入してイスタンブール郊外を襲撃することもあった。この忌まわしいコサックを背後からポーランドが支援しているとして、1621年、オスマン2世はポーランドへの親征を宣言したのである。親征の勝利によって自らの権威を高めるのも、彼の計画のうちであっただろう。ヨーロッパ側の史料では、バルト海進出を狙ってたとするものもある。

寺島良安(1654~不明)

和漢三才図会 編集者は大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であった。明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典で、約30年余りかけて編纂された。

ムラト4世(1612~1640)

サファヴィー朝との戦い 秩序の乱れた帝国問題を解決するべく取り組みを始め、オスマン・サファヴィー戦争では、1624年にサファヴィー朝のアッバース1世にバグダードを含むイラクが奪われると奪還を試んだ。1625年に大宰相をイラクに派遣してバグダードを攻撃したあと一歩のところでアッバース1世率いる増援隊が到着したため、モースルへと撤退した。1629年には大宰相のガジ・ヒュスレフ・パシャのもと、バグダードを奪還する作戦が再び開始したが、厳しい冬と洪水によって戦果が挙げられなかった。しかし翌年にはケルマーンシャー近くでサファヴィー軍を撃破することに成功し、ハマダーンを占領したその勢いでバグダードを再び包囲したが、この時も厳しい冬が襲って来ていたため、結局攻略できずに撤退した。これ以降サファヴィー朝のバグダード支配が確固たるものとなった。

丹下健三(1913~2005)

国立代々木競技場

キョセム・スルタン(不明~1651)

母后として この頃のオスマン帝国の支配は混乱しており、オスマン2世の殺害に反発したアバザ・メフメト・パシャがアナトリア北部で反乱を起こしており、さらに、東方ではアッバース1世率いるサファヴィー朝がイラクを侵攻しており、バグダードが奪われていた。1631年にはイェニチェリが宮殿を襲撃し、大宰相が殺害された。兄のオスマン2世と同じく殺害されるのを恐れたムラト4世は1632年に権力を掌握し、親政を開始した。しかしそれ以降もキョセムは帝国政府の会議に出席するなど権力を握った。

新田次郎(1912~1980)

武田信玄 父・信虎を駿河に追放した武田信玄は、甲斐の領主として独り立ちしていく。諏訪、そして信濃を平定した後、宿敵・上杉謙信と川中島で対峙する。その一方で、金山を発掘するなど、政治家としてもその力を発揮する。元来の病と戦いながら、徳川家康を破り上洛を目前にするが、その道中で没する。

ヘンリー・ローソン(1867~1922)

詩と散文の著作 ローソンはスケッチ・ストーリーの利点を強固に信奉しており、"the sketch story is best of all"との言葉を残している。ローソンの「ジャック・ミッチェル」譚の1つ、"On the Edge of Plain"は、最も完成度の高いスケッチの例としてしばしば言及される。

日野熊蔵(1878~1946)

かつをどり~開発~ これに興味を示した陸軍参謀本部の石原莞爾大佐らの働きかけもあって、1936年1月に陸軍の出資によって萱場製作所が5年間でジェットエンジンの開発を行うことが決定し、萱場製作所内部にジェットエンジン搭載航空機の開発を目的としたKF研究課が設置された。KF研究課には東京帝国大学航空研究所の小川太一郎工学博士と中西不二夫工学博士、石川政吉工学博士のほか、嘱託として日野熊蔵退役陸軍少佐が参加していた。

コダーイ・ゾルターン(1882~1967)

ガランタ舞曲~作曲の経緯~ ブダペスト・フィルハーモニック協会の創立80周年記念のため作品を依頼され、1933年の夏に作曲、完成された。コダーイが幼年期を過ごしたガランタに伝わる民謡を題材として用いている。素材に使われたのは、1800年代の初めにウィーンで出版された「ガランタ・ジプシー音楽集」という曲集である。ハンガリーの新兵徴募の踊りであるヴェルブンコシュの要素とジプシーの演奏スタイルを取り合わせた交響作品となっている。

舟橋聖一(1904~1976)

ある女の遠景 維子には30歳そこそこで死んだ13歳上の父方の叔母伊勢子がいた。美しく教養がある伊勢子を維子は母よりも好きであった。伊勢子には泉中紋哉という結婚を約束した男がいた。紋哉は軍需会社の社長で戦時中にも関わらず道楽者と評される人物で在った。そして伊勢子の他に芸者の二郎丸という女がいるのを伊勢子に知られながら、二郎丸と手を切るのを先延ばしにしていた。

マリア(1875~1938)

結婚 1914年、カロルの死によりフェルディナンドとともに国王・王妃となったが、第一次世界大戦のために戴冠は1922年まで待たねばならなかった。マリアは熱烈なルーマニア愛国主義者となり、意志が弱くて周囲に流されやすい夫の代わりにルーマニアを統治した、とまで言われた。戦争中は赤十字社にボランティアで加わり、負傷者の看護をした。1917年、国土の半分はドイツ軍により踏みにじられ、マリアと軍の助言者グループは、ロシアに与するよりもルーマニア軍は独立してドイツ・ロシアの両方と戦うべきだという選択をした。これには、アメリカから資金援助が得られた。

畑和(1910~1996)

埼玉県政 「新・現実主義」を打ち出し、野党である自由民主党の意見も必要に応じて取り入れ、地方自治に保守も革新もないという立場を取った。例えば、就任当初は「公営ギャンブルの廃止」を主張していたが、途中で撤回した。在任中は「憲法をくらしに生かそう」という垂れ幕を埼玉県庁舎東側に掲げていた。他地域からの人口の流入が多かった時期に、県立高校の大量新設による県内の高校進学率の大幅向上、後に公立教育の先進校とも言われる伊奈学園の設立、さいたま新都心構想など、以降の埼玉県の発展にも関わる重要な功績を残した。また、堅実な財政運営は高い評価を得ている。

クロード・カアン(1894~1954)

作品 1930年にカアンが公刊した Aveux non-avenus, は、フォトモンタージュを交えたエッセイと夢日記と、雑誌に寄稿したいくつかのエッセイを載せた本である。この本に収録された「ヒロインたち」という作品は、おとぎ話の女性キャラクターたちの独自に、1930年代当時の女性たちのイメージを対置させるという皮肉の利いたシリーズ作品である。

横山光輝(1934~2004)

鉄人28号 太平洋戦争末期に大日本帝国陸軍が起死回生の秘密兵器として開発していた巨大ロボット「鉄人28号」。この鉄人が戦後に現れた。鉄人を自由に操れる小型操縦器を巡って悪漢、犯罪組織にスパイ団までもが入り乱れる争奪戦に、主人公の少年探偵・金田正太郎も巻き込まれる。

張儀(不明~前309)

楚への復讐 紀元前313年、張儀は対楚工作に入り、楚に対し商・於の地六百里を割譲するから、斉との同盟を破棄して欲しいと申し入れた。楚の懐王は喜んでこれに応じ、斉との同盟を破棄して、将軍に秦に領土を受け取りに行かせたが、張儀は六里四方の土地を割譲すると言った。これに楚の将軍は約束は六百里だと猛烈に抗議するが張儀はとぼけて相手にしなかった。

岡部芳郎(1884~1945)

エピソード 親日家であったエジソンとの個人的関係が深く、多くのエピソードを残している。エジソンを襲った暴漢を得意の柔道で投げ飛ばしたり、ヘンリー・フォードやハーベイ・ファイアストーンらとのキャンプ旅行の世話をしたりで、大いに気を入られたと言われている。また、エジソンは彼について、「自分の子供たちはしょっちゅう自分の周りから金品を勝手に持ち出していくが、この日本の青年はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることなど全くない」とコメントしている。1937年に「日本の植物学の父」と言われる牧野富太郎が兵庫県と鳥取県の県境の氷ノ山を学術調査した際に、岡部が撮影した2012年に発見され、牧野と親交があったことが分かった。

蘇秦(不明~前284)

合従連衡~合従~ その最大規模のものが縦横家の蘇秦によるもので、史記によると彼は鬼谷に師事した後に母国に帰ったときすっかり貧乏であったため、兄の嫁や妻からさえ馬鹿にされた。このため、一念発起してこれに取り組んだという。彼はまず燕の文公に各国をとりまとめて秦に対することを説き、承諾を得ると趙・韓・魏・斉・楚と各国を言葉巧みに説き伏せ、六国の合従を成立させたとされる。このとき蘇秦は同盟の総長となり、六国の宰相も兼ねた。蘇秦の後はその弟の蘇代などによって継承された。

今田智憲(1923~2006)

東映動画設立時 1955年、日本動画の藪下泰司と山本善次郎から今田は日本動画の買収を持ちかけられ、国際的な映像の仕事としての大きな可能性を感じた今田が大川社長に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言し東映は日動の買収を決めた。1956年1月、東映は東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を起ち上げるが、委員会は大川社長で、今田は赤川孝一管理課長らと共にその設立準備の実務担当委員に任命された。今田は「カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入することを提案。さらに作品制作事業だけでなく、関連商品販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない」などと提案し、今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、事業計画案を巡り今田と赤川の意見が対立した。結局赤川の教育映画部の意見が優先され、今田の意見は却下、同年7月の東映動画の発足にあたっては短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はなかった。同年東映動画取締役、1958年朝日テレビニュース社常務取締役で、遠山隆専務取締役を補佐する実務を担当。1959年、東映にテレビ課を新設し初代課長。

ルーネル・ヨンソン(1916~2006)

小さなバイキング 魔法の剣によって黄金に変えられてしまった母を救うために、ビッケが海賊の父親とその仲間たちとともに魔法の剣の秘密を解き明かす、原作と異なるオリジナルストーリーである。