スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

12月, 2018の投稿を表示しています

スティーヴン・ホーキング(1942~2018)

特異点定理 特異点定理またはペンローズ・ホーキングの特異点定理は、重力は重力の特異点を必要とするかどうか、という問いへの、一般相対性理論による結論のまとめである。これらの定理は、物質は妥当なエネルギー状況を満たしているため、この問いに肯定的に回答している。これは、妥当な物質をともなう一般相対性理論の厳密解は、一般相対性理論が崩壊する特異点を含んでいる、ということを示している。

カール3世(839~888)

東フランク王国~肥満王~ バイエルン王カールマンは第四代ローマ皇帝ロドヴィコ2世から後継者に指名されていた。しかし875年にロドヴィコ2世が死去した際、実際にイタリアを奪取して教皇ヨハネス8世の指名で第五代ローマ皇帝となったのは叔父の西フランク王シャルル禿頭王であった。翌年にルートヴィヒ2世が死ぬと皇帝は帝国の統一をもくろみアーヘンを急襲、ケルンを拠点にルートヴィヒ3世の領地へと兵を進めた。東フランクの三兄弟は連合軍を組織して10月8日にアンデルナハの戦いで皇帝軍を破った。877年に皇帝が死去すると、カールマンはイタリアを奪還した。しかし879年に病を得たカールマンは嫡子を得ないまま皇帝になることなく880年に死去した。バイエルンはザクセン王ルートヴィヒ2世が、イタリアはアレマニア王カール3世が継承した。

アサ(不明~前870)

戦争 治世の10年にエチオピヤ人ゼラの攻撃を受けた。アサの軍隊はユダ出身の盾と槍を使う兵士30万と、ベニヤミン出身の小盾と弓を使う兵士28万の計58万人であったが敵は100万人の軍隊と300両の戦車を率いていた。戦力で劣るアサはヤハウェに助けを求めた結果、敵を撃ち取り、追撃も加えて敵を全滅させる事に成功した。治世の36年目に、北イスラエル王国のバシャと同盟関係にあったアラムの王ベン・ハダデに神殿および王宮から金銀を贈って援軍を依頼し、北イスラエル軍を撃退した。神の力ではなく、外交政策で問題の解決を図ったことを預言者ハナニに叱責されたが、逆ギレしてハナニを投獄した。

アルケラオス1世(不明~前399)

改革 即位後すぐにアルケラオスは外交政策を大きく転換し、長らく敵対していたアテナイに対して友好的に接するようになった。当時、アテナイはペロポネソス戦争におけるシチリア島への遠征の失敗で海軍が壊滅状態にあり、三段櫂船を作るための木材の調達に苦慮していた。アルケラオスは木材を必要な分だけアテナイに供給し、その行為を称えられてアテナイのプロクセノスに任命された。アルケラオスは内政改革にも乗り出した。良質な貨幣の鋳造や、要塞・軍用直線道路の建設、騎兵・重装歩兵組織の改善など、多くの分野で功績を残した。

ピリッポス5世(前238~前179)

第1次マケドニア戦争 ギリシャでの地位を確立したピリッポス5世はやがてアドリア海湾岸部でのローマの影響力を阻害しようと画策する。まず彼は海路よりイリュリアに進攻し、初回はうまくいかなったものの再度進攻して成功を収め、イリュリアを支配下にする。また第2次ポエニ戦争を利用して紀元前215年にはローマに進攻中のカルタゴの武将ハンニバルと同盟を結び、ローマと対抗していく。しかしながら紀元前211年にローマがアイトリア同盟と同盟関係となるとピリッポス5世の影響力は次第に衰えていき、さらにローマの支援を受けたペルガモンのアッタロス1世の進攻を受けるなど劣勢に立たされるようになった。

ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー(1725~1807)

アメリカ独立戦争 ロシャンボーは、7月10日にロードアイランドのニューポートに上陸したが、そこで一年間も留まった。これはナラガンセット湾でイギリス海軍に封鎖されているフランス艦隊を見捨てることができなかったためである。1781年7月、ロシャンボーの部隊はロードアイランドを離れ、コネチカットを横切り、ハドソン川岸にいたワシントンと合流した。そこから米仏連合軍は南に軍を進め、ヨークタウンを包囲した。9月22日にはラファイエットが率いる部隊も合流し、10月19日にはイギリス軍のコーンウォリス将軍を降伏させた。

ウィリアム・レッグ(1608~1670)

イングランド内戦期 翌1642年に第一次イングランド内戦が勃発し、レッグは国王軍に加わったが、同年4月23日にウォリックシャー州サウザムで起きた小競り合いの際には捕虜となった。レッグは庶民院の決定によってゲイトハウス監獄に送られたが、10月4日頃に脱走し、オックスフォードで再び国王軍に加わった。以後、レッグはプリンス・ルパートの側近となり、ルパートが指揮した1643年4月のリッチフィールド攻城戦では負傷し再び捕虜となった。6月18日のチャルグローヴ・フィールドの戦いにおいては、戦場で一時的に捕虜となった。9月20日の第一次ニューベリーの戦いの後、チャールズ1世はレッグに装飾を施した湾曲刀を与え、レッグをナイトに叙することを望んだ。1644年5月19日、ルパートはレッグをチェスターの臨時総督に任じた。

ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ(1105~1159)

ヴウォストヴィチ事件と弟達との2度目の戦い ヴワディスワフ2世の統治期、最も権勢を誇っていたのは宮中伯ピョトル・ヴウォストヴィチだった。ヴウォストヴィチはボレスワフ3世の忠臣として国内に対する大きな政治的影響力を獲得し、宮廷の要職を押さえていた。宮中伯である彼は、年少の諸公達の領地を含むポーランド全域の地方機関の官職を任命する権利を持っており、このことは国政の命運を決定づける立場の人物にしていた。ヴウォストヴィチの権勢拡大はヴワディスワフ2世との関係を悪化させていき、特に公妃アグネスは彼を裏切り者として嫌っていた。

ジュリオ・ロマーノ(1499~1546)

聖母子

ティントレット(1518~1594)

最後の晩餐

ジャン=レオン・ジェローム(1824~1904)

ヴィーナスの誕生

吉田竜夫(1932~1977)

科学忍者隊ガッチャマン 国際科学技術庁のウラン貯蔵庫が、亀の姿をした巨大な怪獣型ロボに襲撃されウランを強奪される事件が発生した。地球征服を狙う謎の秘密結社「ギャラクター」による犯行だ。ISO「マントル計画」主任である南部博士は、この危機に対して対ギャラクター用に密かに結成していた特殊部隊「科学忍者隊」を出動させる。忍者隊の活躍で「タートルキング」は破壊され、ギャラクターの目論見は潰えたかに思えたが、それは科学忍者隊とギャラクターとの長きにわたる戦いの序幕に過ぎなかった。科学忍者隊は次々と新手を繰り出すギャラクターのテロ攻撃に、時には生身で、時には大型戦闘機「ゴッドフェニックス」で立ち向かって行く。

大塚久雄(1907~1996)

近代欧州経済史序説 近代資本主義発生史で一大学派を打ち立てた大塚先生の代表作。小説のように面白く読めるワクワク感は忘れることができない。なぜイギリスが近代資本主義の成功者になり得たかが説得力をもって語られる。「私は一番分かっていないような学生に向かって、分かるように話すのです」という講義がそのまま本になった。もちろん、内容は高度だ。大塚氏が亡くなった時、時代は近代資本主義の発生の起源を語るには、あまりにも爛熟し腐敗した資本主義の時代だった。学派を形成した弟子たちも師を離れていた。だが、「資本主義の精神」を見直すためにも、本書の価値は薄れない。

セバスティアン・ビスカイノ(1548~1624)

日本との関係 1611年、2年前にフィリピン前総督ドン・ロドリゴ一行が、帰還のためアカプルコへ向けての航海中台風に遭い上総国岩和田村田尻の浜で難破し救助された事への答礼使として、ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣され、二代目「サン・フランシスコ号」で来日した。なおこの人達は、ヨーロッパの鉱山技術に興味があった徳川家康の要請に沿ったもので、同時にヌエバ・エスパーニャ側にも日本の金や銀に興味があったことによるとされ、日本近海にあると言われていた「金銀島」の調査も兼ねていた。

長連龍(1546~1619)

織田家の時代 1578年8月、孝恩寺は自ら兵500を集めて穴水城を奪取し、上杉家臣の当時七尾城主であった鯵坂長実や、織田家に属した神保氏張らと結び、遊佐氏らに対抗した。仇である遊佐らと戦を繰り返し、神保氏張らと共に能登・越中を転戦した。遊佐・温井らによって七尾城の鯵坂が追放されると、柴田勝家に近づき、前田利家・佐久間盛政らとともに遊佐・温井らを攻めて、逐電した遊佐を追撃し、討ち取ることに成功した。能登が前田利家に与えられると、土肥親真らと共にその与力となった。

甲賀三郎(1893~1945)

血液型殺人事件 毛沼博士の変死事件は、今でも時々夢に見て、魘されるほど薄気味の悪い出来事だった。それから僅に一月経たないうちに、父とも仰ぐ恩師笠神博士夫妻が、思いがけない自殺を遂げられた時には、私は驚きを通り越して、魂が抜けたようになって終い、涙も出ないのだった。漸くに気を取直して、博士が私に宛てられた唯一の遺書を読むと、私は忽ち奈落の底に突落されたような絶望を感じた。私は直ぐにも博士夫妻の後を追って、この世に暇をしようしとしたが、辛うじて思い止ったのだった。

壺井栄(1899~1967)

二十四の瞳 十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。

島津忠良(1493~1568)

島津氏中興の祖 忠良は島津貴久が伊集院一宇治城から鹿児島内城に移ると1550年に加世田に本格的に隠居した。しかし実権は握り続けて、琉球を通じた対明貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成に励んだ。また万之瀬川に橋を掛け、麓と呼ばれる城下町を整備、養蚕などの産業を興し多くの仁政を敷いた。忠良はその後の島津氏発展の基礎を作り出し「島津氏中興の祖」と言われ大きな影響力を与える事になった。

ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(1924~2018)

冷戦終結後のアメリカ 冷戦の終結によって共産主義陣営との戦争の危機は去ったが、ブッシュのアメリカは新たな戦いを開始した。1989年末にはパナマのノリエガ将軍を麻薬取引などの不正を行なっているとして軍隊を派遣して逮捕するというパナマ侵攻を実行し、世界を驚かせた。それは「民主主義」とアメリカの安全を脅かす独裁者に対しては、武力行使を辞さないという、「世界の警察」としてのアメリカの強硬な姿勢を示したものであった。

メフメト6世(1861~1926)

トルコ革命~第一次世界大戦の敗北とギリシャの侵入~ 1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、イスタンブールはイギリス、フランス、イタリア、ギリシャの連合軍に占領され、エンヴェル・パシャなどは国外に逃亡し青年トルコ政権は崩壊した。一方、シリアのアレッポでは、ムスタファ・ケマルの率いるオスマン帝国軍は連合軍に対する降伏を拒否して抵抗を続けた。翌1919年5月、ギリシャ軍はイギリスのロイド・ジョージ首相の支持を受けて、突然アナトリア西部のイズミル地方に侵入し、ギリシャ・トルコ戦争が勃発した。ムスタファ・ケマルは1920年4月にアンカラにトルコ大国民議会を招集し、トルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗した。

フレデリック・ダグラス(1818~1895)

主な活動 著書に「フレデリック・ダグラス自叙伝;アメリカの奴隷」がある。一般的に”教養があるはずない”とされていたアフリカン・アメリカ人が本を出版する機会は当時ほぼなかったが、この本は肯定的に迎えられ、ベスト・セラーになりフランス語・オランダ語にも翻訳された。本国で有名になりすぎた為、元奴隷所有者からの告発を懸念して、アイルランドに渡る。アイルランド、イギリスでも講演を行う。

ルドルフ・クラウジウス(1822~1888)

熱力学第二法則 熱力学第二法則を採用したことで、カルノーの理論は修正を迫られることになる。しかし、カルノーの理論を無視することはできない。「というのも、カルノーの理論はかなりの部分経験的にみごとに立証されているからである。注意深く吟味するならば、新しい方法はカルノーの原理の本質的部分とは対立することはなく、ただ熱の消失はないという補足的な主張に対してのみ相容れないのであるということが分かる。」

ヨーゼフ・シュトラウス(1827~1870)

水彩画 ヨーゼフは兄弟のなかで最も芸術に造詣が深く、絵画も彼の趣味のひとつだった。ヨーゼフは画才にも恵まれ、数多くのデッサンや水彩画を残しており、中には東洋の影響を受けた水墨画風の作品さえある。そんな彼はこのワルツで「水彩画の柔らかさ」を表現したというが、あくまで詩人のような感覚で抽象的につけられた曲名であって、標題音楽とは異なる。ちなみに、兄のヨハン2世もヨーゼフに負けじと絵の勉強をしたが、ヨハン2世にはこちらの才能はなかったようで、数枚の稚拙なイラストがわずかに残されているのみである。

フサイン・バイカラ(1438~1506)

文化事業 ヘラートの宮廷には友人のミール・アリー・シール・ナヴァーイーを初めとして、ジャーミー、ビフザード、ミールホーンドらの文人・学者・芸術家が集まった。また、フサイン自身もフサイニーという筆名を用いて作詩を行った。フサインの歓楽的な行為はシャリーアに反していたが、ウラマー、サイイド、スーフィーなどの宗教界の人間もフサインの保護を受ける。フサインはスーフィーに対して敬意を示し、信仰を集めるスーフィーの廟を建てることでウラマーから支持を集めようと努めた。

アビゲイル・アダムズ(1744~1818)

ファーストレディ 1789年にアダムズがワシントン政権下で最初のアメリカ合衆国副大統領になると、アビゲイルは最初の4年間を懸命に、セカンドレディとして様々な公式行事を真面目にこなそうと努力した。しかし、アダムズは「世の中で最も無意味な職務」と副大統領職に失望するようになった。第二期に入ると、アビゲイルも疑問を感じるようになってマサチューセッツへ帰ってしまった。

コデルロス・ド・ラクロ(1741~1803)

危険な関係 メルトイユ侯爵夫人は、自分を裏切った愛人が15歳の清純な少女セシルと婚約したことを聞く。愛人への復讐のために、メルトイユは以前から関係のあるヴァルモン子爵にセシルを誘惑して堕落させるように依頼する。だがヴァルモンは貞節と評判の高いツールヴェル法院長夫人を誘惑し堕とすことに興味を持っており、メルトイユの依頼をいったんは断る。

メタコメット(1639~1676)

「フィリップ王戦争」 1674年12月白人側に付き、キリスト教に改宗したワンパノアグ族のジョン・ササモンがメタコメット酋長たちが白人に対して戦闘準備をしているとプリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスローに告げた。そして1675年6月にメタコメットは入植地を拡大し、自分達の土地を奪おうとする白人に対抗するため、ワンパノアグ族と同盟を結んでいた他部族と共に、白人の入植地を攻撃し、白人入植者達との間で戦争が勃発した。

阮籍(210~263)

白眼視 阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応したという。阮籍が喪に服していた時、嵆喜は礼法に則り弔問した。すると阮籍が白眼視したので、嵆喜は怒って帰ってしまった。弟の嵆康がそれを聞き、酒と琴を持って阮籍の家を訪れると、阮籍は喜んで青眼で迎えたという。転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。一方で彼は時事を評論せず、人の過ちを決して口にしない極めて慎重な人物であったという。

オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン(1838~1889)

未来のイヴ 『未来のイヴ』は、1886年に発表された、フランスの作家オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンによるSF小説で、作中に登場する人造人間に対して「アンドロイド」という呼称を最初に用いた作品と言われる。ギリシャ神話の「ピュグマリオーン」を下敷きにした作品でもある。ヴィーナスの化身のごとき美貌をもちながら、卑俗な魂をもった歌姫アリシヤ。青年貴族エワルドはアリシヤを恋人にしながら、彼女の知性の欠如に絶望し、苦悩した。エジソン博士はエワルドのためにアリシヤの美を写した人造人間ハダリーを創造する。

クリスティアン・トマジウス(1655~1728)

神法学提要 トマジウス自身が述懐しているように、彼の学問的な出発点は、自然法に関する哲学上の誤りを正すということにあった。そして、トマジウスは、1688年に、自然法に関する彼の最初の主著『神法学提要』を著す。トマジウスがそこで念頭に置いたのは、プーフェンドルフの著作群である。このとき、トマジウスは、参照した他の著作家たちの名前をほとんど挙げず、かつ、引用文であってもそのことをなるべく明記しないという大胆な手法を採った。トマジウスは、読者にあくまでも理性を用いることを要求し、権威から生じる先入観を排除するように努めたのである。

ヤロスラフ1世(978~1054)

ルーシ内戦~リューベチの戦い~ 1016年、ヤロスラフは3000人のノヴゴロド兵と、ヴァリャーグの傭兵隊を率いてキエフへ向かった。一方スヴャトポルクはペチェネグ族の部隊を自陣に加え、これに備えた。両軍はリューベチ付近のドニエプル川河畔で遭遇し、3ヶ月の間対峙した。対峙の間に晩秋となったが、両軍ともに渡河攻撃の機会を得なかった。この対峙は、最終的にはヤロスラフ側の勝利に終わった。合戦において、ペチェネグ部隊は湖に阻まれて、スヴャトポルクの本隊と連携をとることができず、救援に向かうことができなかった。勝利したヤロスラフはキエフ大公を名乗り、ノヴゴロドの人々に褒章を支払った。スヴャトポルクはポーランドへ逃走した。

ハーラル1世(不明~986)

ヨムスヴァイキング・パルナトケ ヨムスヴァイキングのパルナトケは、自分が弓の名手で遠く離れた所からも小さなリンゴを射落とせると自慢していた。それを聞いたハーラルはリンゴをパルナトケの息子の頭にのせ、このリンゴを射落としてみろとパルナトケに命じた。パルナトケは息子を落ち着かせると矢を3本手にしてリンゴを狙った。パルナトケの放った矢は見事リンゴを射抜いた。これを見届けたハーラルが「なぜ矢を3本も取ったのだ」と聞いたころ、パルナトケは「射損なったら、残りの2本の矢であなたに復讐するつもりだったからです」と答えた。

アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー(936~1013)

解剖の書 アブー・アル=カースィムの30巻の医学書『解剖の書』は1000年に完成したものである。医学を広範囲にカバーした内容で、歯学から分娩まで扱っており、約50年間外科医として鍛錬し教えてきた経験の蓄積によるデータが詰め込まれている。その中で彼は医師と患者が良好な関係を築くことの重要性を説き、教え子たちを "my children" と愛情をこめて書いている。また、患者の社会的地位に関係なく治療することの重要性を強調している。正確な診断と最適な治療方法を選択するため、個々の症例の綿密な観察を推奨している。

陳寿(233~297)

三国志 紀伝体の歴史書であり、「魏書」30巻、「呉書」20巻、「蜀書」15巻の計65巻から成る。この他、陳寿の自序が付されていたといわれるが、現存しない。また、表や志が存在しない。三国がそれぞれ『魏国志』『蜀国志』『呉国志』として、独立した書物としても扱われたという。『呉国志』『魏国志』『蜀国志』の書かれた前後関係は不明である。三国の記述を独立させ、合わせて『三国志』としたところに本書の特徴がある。

武藤信義(1868~1933)

日満議定書 日本側全権は武藤信義陸軍大将、満洲国側は鄭孝胥国務総理。この議定書では満州国における日本軍の駐屯が明記され、また溥儀附属文書において満洲国国防の関東軍・日本軍への委任が取り決められた。

ジェームズ・スターリング(1791~1865)

日英和親条約 ところが、クリミア戦争の敵国であるロシアの艦隊が長崎に入港しているとの情報が得られ、英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングは、それを捕捉すべく長崎に向かった。1854年9月7日、スターリング率いる帆走フリゲートウィンチェスターを旗艦とするイギリス艦隊が長崎に来港した。すでにロシア艦隊は長崎にはいなかったが、スターリングは英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。このときの長崎奉行は水野忠徳であったが、もともと水野はペリーとの交渉のために長崎に派遣されていた。このため、水野はスターリングも外交交渉のための来航と考え、幕府に許可を求めた。

尾上菊五郎(1784~1849)

芸風 三代目菊五郎は「どうして俺はこんなにいい男なんだろう」と楽屋で自身の顔を鏡に映しながらつぶやいたほどの美貌で知られた。そのうえに演技力に優れ、また創意工夫を重ねた努力家でもあった。多くの怪談狂言では作者の大南北をはじめ、大道具方の十一代目長谷川勘兵衛、鬘師友九郎、衣装方などの裏方と協力して次々と新しい演出を生み出し、特に幽霊や妖怪から一転して美男美女に早変わりする型は観客を喜ばせた。役柄も広く、「立役、女形、老役、若衆方、立敵から三枚目まで、そのままの姿で替ります」と評され「兼ネル」の称号までを与えられている。

柴野栗山(1736~1807)

寛政異学の禁 江戸に着いた後、1776年に徳島藩当主の侍読に就任する。1787年には、江戸幕府老中松平定信から呼び出され、幕府に仕えるように勧められた。以後幕府に仕え、寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなどの評価が高まり、1790年に湯島聖堂の最高責任者となった。

貞慶(1155~1213)

興福寺奏状 興福寺奏状は、鎌倉時代初期の1205年10月、南都興福寺の寺僧らが法然坊源空の唱導する専修念仏の教えを糺し、その禁止を求めて朝廷に上奏した文書である。起草者は、法相宗中興の祖といわれる笠置寺の解脱坊貞慶であり、法然の教義に対する9か条の批判より始まっている。この奏状は、1207年の法然ひきいる吉水教団に対する弾圧の一因となった。また、同奏状中の「八宗同心の訴訟」という文言が、鎌倉仏教および日本仏教史研究の田村圓澄によって注目され、日本の古代仏教に関して「八宗体制論」という理論的枠組みを生む契機となった。

巴御前(生没年不詳)

史実において 巴御前が登場するのは軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書『吾妻鏡』には、その存在は確認されない。女武将であるという物語の記述は史実としては疑問があり、文学的脚色である可能性が高い。『平家物語』においる巴御前の記述は至って簡略で義仲との関係も書かれていないが、より後の時代に書かれた『源平盛衰記』において大きく人物像が書き加えられている。

鈴木善幸(1911~2004)

鈴木政権~鈴木行革~ 翌1983年度予算は原則5%のマイナスシーリングの導入と、臨調の第三次答申の尊重と実施を図ることが閣議決定されたが、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ5~6兆円の税収不足の恐れが出てきたため、1984年までの赤字国債脱却が困難な状況に直面した。1982年9月16日には「財政非常事態宣言」と言われるテレビ演説を行い、更に徹底した歳出削減と赤字国債の増発で「未曽有の困難」を乗り切る必要があると訴えている。その翌月の10月には鈴木は退陣するものの、鈴木が敷いた行革への方針は続く中曽根康弘内閣へと引き継がれていく。

田中久重(1799~1881)

田中製作所の設立まで 1834年には上方へ上り、大坂船場の伏見町に居を構えた。同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、1837年に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、1847年に天文学を学ぶために土御門家に入門。1849年には、優れた職人に与えられる「近江大掾」の称号を得た。翌1850年には、天動説を具現化した須弥山儀を完成させた。この頃に蘭学者の広瀬元恭が営む「時習堂」に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。1851年には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの、様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた。

山名豊国(1548~1626)

織田豊臣時代 1578年から織田信長と誼を通じたものの、1580年に織田氏の武将・羽柴秀吉の侵攻によって、一旦は鳥取城に籠城するが、重臣の中村春続、森下道誉ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、単身で秀吉の陣中に赴き降伏した。豊国は秀吉を通じて助命され、1581年には、秀吉と共に吉川経家や自分の旧家臣が籠もる鳥取城攻めにも従軍する。豊国が籠城した時は鳥取城に兵糧攻めは通じなかったが、再度の兵糧攻めによって陥落するという悲惨な結果になった。

キャサリン・オブ・ブラガンザ(1638~1705)

カトリック信仰と戴冠の拒否 このように、この結婚はイングランドにとって後の大英帝国の発展の原点とも言える2つの植民地の獲得につながった反面、王妃となったキャサリンのカトリック信仰がイングランド国内、特に議会との間に大きな問題を引き起こすこととなる。それが最初に表面化したのは、キャサリンの王妃としての戴冠拒否という事件である。熱心なカトリックであったキャサリンは、戴冠式がイングランド国教会の典礼によって行なわれることを知ると、これを断固拒否した。宗教を理由に戴冠を拒否した王妃は、英国史上キャサリンただ1人である。夫チャールズ2世は新妻にあれこれ強制するのは好まず、事を荒立てなかったが、これに噛み付いたのが国教会信徒の多い議会である。この戴冠拒否問題以後、事あるごとに王妃を追い落とすべく議会の画策が続くことになる。

ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(1453~1515)

第一次イタリア戦争 この時点でのゴンサロに対する大方の評価は、あくまで優秀な士官の域を出なかったが、イサベル1世は彼の忠誠心と器量を評価していた。1494年から開始されたイタリア戦争において、スペイン軍の司令官としてゴンサロが選ばれたのは、こうしたイサベルの個人的な評価のためである。イタリアに上陸したゴンサロは、ナポリ王の元へ5千の援軍を送り届けた。1495年3月31日、教皇アレクサンデル6世の呼びかけによって神聖同盟が結成され、戦況はフランスの劣勢に転換しつつあった。

テュロスのポルピュリオス(234~305)

託宣からの哲学 ポルピュリオスはキリスト教に反対して異教を擁護したことでも知られる。彼の伝統的な宗教擁護論である『託宣からの哲学』はディオクレティアヌスやガレリウスによるキリスト教迫害以前に書かれていて、彼らの迫害の根拠を提供することとなった。

テーバイのクラテス(生没年不詳)

哲学 クラテスは哲学的な主題に関する書簡本を書き、そのスタイルについて、ディオゲネス・ラエルティオスはプラトンのそれと比較している。しかし現存していない。クラテスはさらにいくつかの哲学的悲劇と、「ギリシャ語」と呼ばれるいくつかの短い詩も書いた。クラテスの教えの断片が複数残っている。クラテスは質素な禁欲生活を教えたが、それはクラテスの師シノペのディオゲネスよりは穏便だったようである。