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ティベリウス(前42~37)

元首時代 アウグストゥスの後継者として、金融危機対策、辺境防衛網の確立など優れた行政手腕を発揮した。「アウグストゥスの政治は、自分にとっての法である」とまで述べて、その継承と確立に努めた。彼は共和政ローマ以来の名門クラウディウス氏族の嫡流という出自であり、ユリウス家の養子となったが、出生は騎士階級出身であったアウグストゥスよりも貴族的な出自であった。にもかかわらず上記の事を述べたという事は帝政こそが未来のローマに最適な政体であることを見極めていた事がうかがえる。

イオアニス・カポディストリアス(1776~1831)

ギリシャ時代 ロシアの外交官として務める間も、カポディストリアスは故郷のイオニア諸島に、そしてオスマン帝国の支配下にあるギリシャに対して注意を払っていた。1818年に彼はイギリスの支配下に入っていたイオニア諸島を訪れた。住民の間で独立に対する希望が強いことを知ったカポディストリアスは、翌1819年にロンドンに行きイオニア諸島の処遇に対して善処を求めたが、イギリス政府はこれを拒否している。

アルトゥル・ショーペンハウアー(1788~1860)

ショーペンハウアーの思想 本人は「仏陀、エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べている。ショーペンハウアーは芸術論・自殺論が有名であるが、むしろ博学で、法律学から自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学者としての側面が強い。

ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー(1814~1878)

エネルギー保存の法則~19世紀前半のドイツ自然哲学~ 19世紀前半のドイツの自然哲学では、「破壊されることもなく、形態が様々に変換する根源的な何か」を„Kraft”と呼んでいた。この自然哲学の概念は、現在の「エネルギー保存の法則」という概念の成立に大きな影響を与えている。

キャロライン・オブ・アーンズバック(1683~1737)

イギリスへ 1705年にゾフィーの孫であるハノーファー選帝侯子ゲオルク・アウグストと結婚した。結婚後はハノーファーに住み、将来のイギリス行きに備えて英語の勉強に励んだ。1714年に義父がジョージ1世としてイギリス国王に即位すると、義父や夫より少し後に娘3人を連れてロンドンに移住した。その際、既に7歳になっていた長男フレデリック・ルイスをハノーファーへ残していかねばならなかった。

ピウス9世(1792~1878)

サルデーニャとの対立激化 このような教皇の変化に対して、民衆は反感を持ち、1848年には教皇の信頼の厚いローマ暫定政府首班ペレグリーノ・ロッシが暗殺されて暴動が起こり、教皇自らも市民軍によって軟禁される。11月24日、ピウス9世は政情不安定のローマを離れ、密かにガエータへ逃れた。1849年にはローマ共和国が成立、これを警戒した教皇はフランスに援助を求めたため、フランス軍がローマに進駐した。さらにローマ共和国に破門を宣言するが、かえって人々の嘲笑を買うだけであった。翌1850年、教皇はローマに戻るが、イタリア統一を目指すサルデーニャ王国が教会の力を押さえる政策をとると激しく反発し、教皇と王国との対立は避けられなくなった。

ベルンハルト・リーマン(1826~1866)

リーマン面 数学、特に複素解析においてリーマン面とは、連結な複素1次元の複素多様体のことである。ベルンハルト・リーマンにちなんで名付けられた。リーマン面は、複素平面を変形したものと考えられる。各点の近くで局所的には、複素平面の部分に似ているが、大域的位相は大きく異なり得る。例えば、球面、トーラス、または互いに糊付けした二枚の面のように見え得る。

フワーリズミー(780~845)

約分と消約の計算の書 最古の代数学書のひとつ。のちにラテン語に訳され、アル=ジャブルという語は、英語のアルジェブラの語源となった。jabrは「バラバラのものを再結合する」という意味のjabaraを語根とする語で「移項する」を原義とし、方程式の両辺に等しいものを加えて負の項を消去する過程を表している。また、a'l muqābalaは「縮小」を意味し、方程式の両辺の正の数から同じ数を引いて同類項を消去する過程を表している。

レオンハルト・オイラー(1707~1783)

幾何学 幾何学においては、位相幾何学のはしりとなったオイラーの多面体定理や「ケーニヒスベルクの橋の問題」が特に有名である。特性類の一つであるオイラー類は本質的にこのオイラーの多面体定理によって特徴付けられるものである。「ケーニヒスベルクの橋の問題」は一種の一筆書き問題であるが、オイラーはこれに取り組んで一筆書きが可能になるための必要十分条件を求めた。これはグラフ理論の起源となり、今日では一筆書き可能なグラフはオイラーグラフと呼ばれる。解析幾何学でも古代ギリシャのアポロニウスによる円錐曲線の理論を解析幾何学的手法によって近代化をはかっている。

アレクサンドリアのヘロン(前10~70)

気体装置 ラテン語題はPneumatika。本書には、紀元前215年ごろ古代エジプトの神殿に設置された聖水の自動販売機の記述図解がある。発明者には諸説があり、ヘロンの発明とする説や、クテシビオスの発明とする説、同名の別人のヘロンの発明とする説などがある。ラテン語の写本が、ローマの国立図書館に収蔵されている。

アレクサンドル3世(1845~1894)

皇帝~専制政治~ 1881年、アレクサンドル2世がテロ組織「人民の意志」の爆弾テロにより暗殺された。アレクサンドルは3月13日に皇帝に即位し、1883年5月27日にモスクワ・ウスペンスキー大聖堂で戴冠式を挙げた。しかし、アレクサンドルは自身が統治者としての充分な教養を欠いていることを自覚しており、自らを「誠実なる連隊長」と自認していた。

フランツ1世(1708~1765)

オーストリア継承戦争 1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアがオーストリア大公に即位し、彼女の決定によりフランツは共同統治者になった。しかし列国はカール6世の生前に交わした国事勅書の取り決めを無視してハプスブルク家領を侵略し、オーストリア継承戦争が勃発した。プロイセン王フリードリヒ2世はシュレジェンを占領し、マリア・テレジアの従姉マリア・アマーリエを妃とするバイエルン選帝侯はボヘミアを占領した上にフランツを差し置いてカール7世として戴冠した。

ジェーン・グレイ(1537~1554)

ジェーン・グレイの来歴 エドワード6世が死去すると、ノーサンバランド公はジェーンの即位を宣言したものの、陰謀を察知したメアリーが逃亡し、身柄を拘束できなかった。そのためメアリー派の反攻を許すこととなり、1553年7月19日にサフォークでメアリーが即位を宣言、ジェーンと夫ギルフォードらが逮捕した。ついでギルフォードの兄弟であるジョン・アンブローズ・ロバート・ヘンリーらダドリー一族も逮捕された。

フィリップ3世(1396~1467)

フランスに接近、離反へ だが、善良公はフランス戦線に無関心で、北のネーデルラント獲得を目指していたが、そのネーデルラントを巡り紛争が起こった。ベッドフォード公の弟のグロスター公ハンフリーが1422年に善良公の従妹に当たるエノー・ホラント・ゼーラント女伯ジャクリーヌ・ド・エノーと結婚したことを根拠に1424年にネーデルラントへ出兵したため、憤慨した善良公軍は迎撃に向かい、イングランドとブルゴーニュの同盟にヒビが入った。事態を危ぶんだベッドフォード公が仲介した紛争は収まらず、翌1425年1月にジャクリーヌと善良公の叔父でジャクリーヌと対立していたバイエルン公ヨハン3世が善良公を相続人に指名して亡くなると、それを口実に善良公はエノーに駐屯していたグロスター公の手勢を打ち破りジャクリーヌを捕らえてネーデルラントで優位に立った。

グレゴリウス9世(1143~1241)

治世 グレゴリウス9世の治世は、十字軍遠征を約束しながらなかなか実行しない皇帝に破門猶予を与える事から始まった。猶予期間が過ぎると破門が実行され、皇帝には廃位の危険がせまった。さらにフリードリヒ2世がシチリア王国の教会のコントロールを強化した事、教皇への従順の誓いを破棄する構えを見せ、シチリアでの地盤を固めた事で教皇との溝が深まった。フリードリヒ2世はヨーロッパの諸侯に自分に対する仕打ちが不当であると訴えるとともに、軍勢とともに聖地へ赴いて誓いを果たそうとした。しかし、自分の不在時に教皇がシチリアへの勢力拡大を図ったため、すぐに中東から戻り、1228年に教皇領に侵攻した。この攻撃は失敗に終わり、教皇への服従の誓いをたてさせられている。

陶晴賢(1521~1555)

大内家臣時代 1542年には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。以後、義隆は軍事面に興味を示さなくなり文化に傾倒、文治派の相良武任の台頭を招く。この事態に武断派の隆房は影響力を失ってゆき、さらに武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。

慶滋保胤(933~1002)

日本往生極楽記 「往生伝」は、極楽往生をしたものの伝記またはその伝記を集めたもので、『日本往生極楽記』は日本で最古の往生伝とされる。この書は、聖徳太子をはじめとして、皇族から僧・庶民にいたる計45人の極楽往生の伝記を載せ、保胤の浄土信仰に基づいて編纂されたものである。

物部守屋(不明~587)

丁未の乱 丁未の乱は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏が現れることはなかった。

後三条天皇(1034~1073)

即位後 頼通が失意のあまり引退した後、藤原彰子の推挙で弟の教通を関白にしたが、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の藤原能長や、村上源氏の源師房や源経長等を登用して摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房や藤原実政等の中級貴族などを登用し、積極的に親政を行った。また、源隆国のように、東宮時代の天皇を頼通に気兼ねして蔑ろにしていた者に対しても、隆国の子息の俊明を登用する等、決して報復的態度を取らないように公正な態度を示した。

織田信忠(1555~1582)

甲州征伐 1582年の甲州征伐は、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康・北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。信忠は河尻秀隆、滝川一益の両将を軍監とし、伊那方面から進軍して、信濃南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略する。高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知している。

武田信虎(1494~1574)

信虎の甲斐追放 1541年6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河国に赴いたところ、信玄は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させる。板垣信方・甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた信玄一派によって河内路を遮られ駿河に追放され、信玄は武田家家督と守護職を相続する。信虎は今川義元の元に寓居することになり、正室・大井夫人は甲斐国に残留しているが、信虎側室は駿河国へ赴いており、同地において子をもうけている。

高山右近(1552~1615)

国外追放と死 1614年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅のの疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、1615年2月3日に息を引き取った。享年63.マニラ到着からわずか40日のことだった。

ラザフォード・オールコック(1809~1897)

日本開国後の初代駐日総領事に着任 1858年、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが訪日して日英修好通商条約が締結され、翌1859年7月1日をもって長崎、神奈川、箱館の3港が開港することが約束された。オールコックは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命された。5月3日にこの命令を香港で受け取ると、5月16日には香港を立ち、上海経由で6月4日に長崎に到着した。日英修好通商条約の批准書交換を7月1日以前に行うように命令されていたため、長崎を6月20日に出発し、6月26日に品川沖に到着し、高輪の東禅寺に入った。

井上準之助(1869~1932)

血盟団事件~井上準之助暗殺事件~ 1932年2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺団の一人である小沼正が近づいて懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。井上は、浜口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱に陥った。また、予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけた。そのため、第一の標的とされてしまったのである。小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。

大山郁夫(1880~1955)

労働農民党~第1回普通選挙での躍進~ 分裂後の労働農民党は大山郁夫委員長・細迫兼光書記長が指導し、対華非干渉・労働法制定などの運動を進めた。最初の普通選挙となった1928年の第16回衆議院議員総選挙では権力の干渉は厳しく、香川県から立候補した大山郁夫陣営に対する弾圧は強烈をきわめた。このときの現地の運動員として、当時農民組合の指導にはいっていた後の小説家島木健作がいた。しかし、全国で無産政党最多の28万票を獲得し、水谷長三郎と山本宣治の2名の当選者を出す。特に京都府選挙区から立候補した山本は帝国議会で特別高等警察の拷問行為を暴露することを得意としたが、右翼青年に暗殺された。

光格天皇(1771~1840)

尊号一件 第119代光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったためにその養子となって即位したことにより、父よりも位が上になってしまった。しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならないことに対しても天皇は不満を抱いた。だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府そのものの尊厳を傷つけるものとして拒絶してくることは目に見えて明らかであった。そこで光格天皇は実父典仁親王は対して太上天皇の尊号を贈ろうとした。

パトリック・ギルモア(1829~1892)

ジョニーが凱旋するとき 南北戦争の最中の1863年、北軍のバンド指揮者であったパトリック・ギルモアが、北軍で歌われていた酒宴の歌のメロディに新しい歌詞をつけてバンド曲に編曲したものである。元となった"Johnny Fill Up the Bowl"自体も、17世紀に英国で生まれたバラード曲に適当な替え歌をつけて歌ったもので様々なバージョンが知られているが、南軍兵を擬人化した「ジョニー」に対して杯を満たせと連呼する歌であり、全体として南軍側の政府・大統領・軍隊・人民などを蔑んだ内容となっていた。ギルモアの回想によると、戦場で兵士が口ずさんでいた北軍のはやり歌のメロディーが頭に残り、「ジョニー」の帰還を迎え讃える歌詞をつけたという。

エルンスト・マッハ(1838~1916)

業績~物理学~ 超音速気流の研究でも有名であり、静止流体中を運動する物体が音速を超えた場合、空気に劇的な変化が起き衝撃波が生じることを実験的に示した。この実験には、当時の最新技術であった写真撮影が用いられた。この業績にちなみ、音速を超える物体の速度を表すための数は彼の名前を冠し「マッハ数」と呼ばれている。

エルヴィン・シュレーディンガー(1887~1961)

シュレーディンガーの猫 まず、蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性物質のラジウムを一定量と、ガイガーカウンターを1台、青酸ガスの発生装置を1台入れておく。もし、箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これをガイガーカウンターが感知して、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、青酸ガスを吸った猫は死ぬ。しかし、ラジウムからアルファ粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せず、猫は生き残る。一定時間経過後、果たして猫は生きているか死んでいるか。

スティーブン・ダグラス(1813~1861)

カンザス・ネブラスカ法~民主党の提案~ この法案を提案したのは民主党の指導者の一人、スティーブン・ダグラスだった。彼は北部イリノイの出身であったが、大統領出馬を狙って南部の支持を取り付けようと、奴隷制度拡大に道を開く作を考えた。彼は大陸横断鉄道の建設に着目し、ミズーリ州の西の広大な地域にカンザスとネブラスカを準州として組織し、それが将来、州に昇格するときは奴隷州か自由州かを住民が決めることができるという法案を作成したのだった。一見、民主的だったが、それだとミズーリ協定で奴隷州と自由州を同数にしてバランスを取る従来の妥協案が否定されることになるので、議会では大激論となった。

ジェイムズ・オーティス(1725~1783)

植民地の論客として~援助令状~ このころマサチューセッツの税務局職員は、1750年代にマサチューセッツ最高裁判所が発給した援助令状を元に一般市民に対して捜査への「援助」を強要することができた。これらの援助令状は、発給に当たって捜査の対象や目的、その期間を特定する必要がない一般令状であったため、マサチューセッツの家財は常に強制的な捜査と押収の対象となりうる状態だった。

ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー(1809~1881)

アイグン条約 日本との修好を成し遂げたエフィム・プチャーチンは1857年に同じく清との全権委員に任命されたが、これはムラヴィヨフの反発を招き、彼はもう少しのところで総督職を辞するところであった皇帝に慰留された。彼は引き続き清との硬軟あわせた交渉に臨んだ。

オタカル2世(1230~1278)

ルドルフ1世との戦い 大空位時代を迎えた神聖ローマ帝国において、オタカルはドイツ王の選挙に積極的に関与し、中心的な役割を果たした。まもなく七選帝侯によってドイツ王が選出される体制が確立されるが、選帝侯の中にボヘミア王が含まれていたのはオタカルの活躍に帰する点が大きいと考えられている。1262年には皇帝候補の一人コーンウォール伯リチャードにバーベンベルク家の所領を授封するが、これは当時の法慣例から外れた行為だった。

ルドルフ1世(1218~1291)

ボヘミア王国との戦い ルドルフのローマ王として最初の任務は、東方で勢力を拡大するオタカル2世に勝利を収めることであった。1246年にオーストリア公国を支配していたバーベンベルク家の男子が断絶した後、オタカルはバーベンベルク家の公女マルガレーテと結婚し、婚資としてバーベンベルク家の領土を獲得した。1261年にオタカルはマルガレーテと離婚するが、離婚の後も旧バーベンベルク領と領地から上がる収入を確保する権限を保持していた。このオタカルの旧バーベンベルク家領の獲得を、ルドルフは不当なものと見なした。

ジル・ド・レ(1405~1440)

荒んだ生活 領地に戻るとジルは時々ラ・トレモイユの命令で土地を奪ったり、1431年5月にイングランドに捕縛されたジャンヌの救出を試みルーアンを攻撃したり、1431年に関係が悪化したジャン5世とシャルル7世の仲立ちを祖父と一緒に行うなどしたが、主な活動として湯水のように財産を浪費し錬金術に耽溺。財産目当てのフランソワ・プレラーティら詐欺師まがいの「自称」錬金術師が錬金術成功のために黒魔術を行うよう唆したことも加わり、手下を使って、何百人ともいわれる幼い少年たちを拉致、虐殺した。ジルは、錬金術成功という「実利」のためだけではなく、少年への凌辱と虐殺に性的興奮を得ており、それにより150人から1500人もの犠牲者が出たと伝えられている。

ラファイエット夫人(1634~1693)

クレーヴの奥方 シャルトル嬢は16歳の美しい女相続人。父親は早くに死に、母親の手で厳格に育てられてきた。その母親に連れられて宮中に行った時、クレーヴ公が彼女を見そめ、結婚を申し込む。シャルトル嬢はあまり乗り気でなかったが、母親の薦めもあり、クレーヴ公と結婚し、「クレーヴの奥方」となる。

カロリーヌ・ボナパルト(1782~1839)

結婚後 新婚後まもなく、1800年のイタリア遠征にミュラも参加し、功績を挙げると接収した宮殿にカロリーヌを呼び寄せた。ミュラは落ち着く間もなく各地を転載したが、カロリーヌはここで女王のように暮らした。パリに戻った1804年にミュラは帝国元帥に任命され、金持ちになって2人とも贅沢な生活をした。カロリーヌは、兄の機嫌をとるために次々に愛人を紹介し、逢引のために自分の館まで提供した。この見返りにエリゼ宮を手に入れた。しかし、この頃から夫婦の間で喧嘩が多くなった。

ハドソン・ロー(1769~1844)

セント・ヘレナ プランテーション・ハウスに到着する彼は、前任者のコックバーン提督とナポレオンが不安定な関係にあることを把握した。コックバーンはセントヘレナまでの護送海路、そして新しい統治者の到着までのナポレオンを託されていた。しかしナポレオンとローもまた嵐のような関係であったとされており、わずか6度しか顔を合わせなかった。駐在中のローの行動はロード・バサーストからの指令によって厳重に縛られていたが、彼の機転の利かなさが、ローとナポレオンとの摩擦を激化された。

オソン1世(1815~1867)

クーデターと退位 1843年、ギリシャからバイエルンの軍隊が撤退すると、直ちにギリシャ軍によるクーデターが起き、憲法の制定を認めさせられた。憲法により設置された議会によって、さらに英国艦隊がアテネ近郊のピレウス港を封鎖する事件が発生すると、国王の権威は更に弱まった。

フリードリヒ1世(1655~1713)

選帝侯から国王へ 1688年に父が死去し、フリードリヒ1世は後を継いで選帝侯となるが、この時はまだブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世と呼ばれていた。選帝侯となったフリードリヒ3世は恩師ダンケルマンと、愛人カタリーナの夫ヨーハン・カジミール・コルベ・フォン・ヴァルテンベルクを大臣とした。同年にフランスが大同盟戦争を勃発させると他の帝国諸侯と協議してライン川から北のモーゼル川戦線の守備を担当した。

エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(1715~1797)

ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の親族 神聖ローマ皇帝カール6世の皇后でマリア・テレジアを産んだエリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルは、同じブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の出身で、母方の伯母に当たる。また、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の最初の妻で同名のエリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルは、長兄カールの娘である。兄弟姉妹にはカールと上記のルイーゼ・アマーリエの他、次兄にロシア皇帝イヴァン6世の父アントン・ウルリヒが、末妹にデンマーク王フレゼリク5世の後妻ユリアーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイクがいる。

レオポルト1世(1640~1705)

ウィーン包囲まで 1668年にルイ14世とスペイン分割条約を結び、甥で母方の従兄弟にも当たるカルロス2世亡き後のスペイン領の配分を取り決めた。しかし、ルイ14世がオランダ侵略戦争を起こすと他の帝国諸侯と共に反フランスに立って参戦している。また、1670年にロレーヌ公国をフランスに奪われたシャルル4世を保護して軍人に取り立て、死後はその甥のシャルル5世も軍人として登用、後に異母妹エレオノーレ・マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒと結婚させている。

ドレッド・スコット(1799~1858)

ドレッド・スコット対サンフォード事件 ドレッド・スコット対サンフォード事件は、1857年にアメリカ合衆国最高裁判所で判決が下された、アメリカ合衆国の歴史の中でも転換点となった事件である。この判決は、アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないし、アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした。判決主文は最高裁長官のロジャー・トーニーによって書かれた。

アルバート(1819~1861)

ヴィクトリアとの結婚 1837年、ヴィクトリアはイギリス女王に即位した。1839年、アルブレヒトはエルンスト2世とともに、再びロンドンを訪問した。この訪問の目的は二人の結婚にあった。同年10月に2人は正式に婚約し、翌1840年2月10日、セント・ジェームズ宮殿の王家礼拝堂で結婚式で挙げた。

ベーラ4世(1206~1270)

モンゴル軍の侵入 モンゴル侵入の報告が伝えられると、ベーラは貴族とクマン人に号令をかけ、軍隊の招集を試みた。モンゴル軍の通過した地域は略奪と虐殺に晒され、ペシュトの城壁の外ではモンゴル騎兵がハンガリー軍を誘い出すために連日挑発を行っていた。ペシュトの市民はクマン人がモンゴルの侵入を招いたとみなし、クタンと部下たちを殺害した。クタン殺害の報告が地方に伝わると、農民たちはベーラの元に向かおうとするクマン人たちを殺害する。合流したクマン人達は報復として平原部と国境地帯で収奪を行い、略奪品を携えてブルガリアに移動した。

ヘンリー1世(1068~1135)

政策 ヘンリー1世は有能な支配者で、即位すると大憲章の祖とも言われる戴冠憲章を定め、巡回裁判を広く行い「公正の獅子」と呼ばれるように領内を良く治めたとされる。良く治めたという評価は、兄の急死を受けて即位した彼の立場の弱さが、大貴族に対する妥協を生んだ結果、彼等と対立しなかっただけであり、議会重視の立場を取る歴史家達の評価である。また、彼の学究的な態度からボクレールの渾名を持つ。

ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763~1814)

恋多き女 イタリア遠征中にナポレオンが彼女にあてた熱烈な恋文は有名だが、受け取った彼女はろくに読むことも返事を書くこともなく、「ボナパルトって変な人ね」とその手紙を友人に見せて笑いをさそっていた。ナポレオンに戦場へ来るように何回も促されたが、ごまかして行こうとしない妻のそっけない態度にナポレオンは幾度も絶望を抱く。それに気を揉んだ総裁政府の命令で、彼女は渋々イタリアへ向かった。

ルイ17世(1785~1795)

フランス革命の勃発からルイ16世の処刑まで 1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となった。パリへの移動の際は馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けた。新たな住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い両親を安心させた。国王一家は2年後の1791年にヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によって8月13日にタンプル塔に幽閉された。このときルイ=シャルルは6歳だった。

マリア・フョードロヴナ(1847~1928)

ロシア皇后 1883年5月27日にモスクワのクレムリンで重々しい警備の中で戴冠式が行われ、夫アレクサンドルがロシア皇帝アレクサンドル3世として即位し、マリアは皇后となった。戴冠式にはアレクサンドラとアルバート夫妻も招待され、3000人もの王侯貴族が訪れた。式典は何時間も5メートルもあるアーミンの毛皮のマントと重たいダイヤモンドの王冠をつけていなければならず、小柄なマリアの足はむくんでしまい、靴が入らないのでこっそりとスリッパを履いていた、マリアは戴冠式の最中、いつものようにアレクサンドル皇帝をそっと抱きしめ、儀式の最中にキスをした。

アナスタシア・ニコラエヴナ(1901~1918)

第一次世界大戦中の奉仕活動 第一次世界大戦中にアナスタシアは直ぐ上の姉のマリアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。2人は彼女達の母親や2人の姉のように赤十字の看護師になるにはまだ若過ぎたので、負傷兵らと一緒にチェッカーやビリヤードで遊び、彼らの士気を高めようと努力した。この病院で治療を受けた負傷兵フェリックス・ダッセルはアナスタシアが「リスのような笑顔」を持ち、軽快な足取りで早歩きしていたことを回想している。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした。