スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2021の投稿を表示しています

早船ちよ(1914~2005)

キューポラのある街 中学3年の石黒ジュンは、鋳物工場の直立炉が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女である。何事にも前向きで、高校進学を目指すジュンだが、父・辰五郎が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任教師の助力で修学旅行にも行けることになった。しかし、ようやく再就職した父親は、待遇が不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかけた。全日制の高校進学を取りやめて、就職を決断するジュン。北朝鮮への帰還問題で苦悩する朝鮮人の一家や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、自立して働きながら定時制高等学校で学び続けることに意義を見出したのだった。

ペイトン・ラウス(1879~1970)

腫瘍ウイルス 最初の腫瘍ウイルスは1911年にペイトン・ラウスによってニワトリに肉腫を生じさせる濾過性病原体として発見され、後にラウス肉腫ウイルスと名付けられた。彼はこの業績により1966年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。このウイルスは1本鎖RNAゲノムを持つレトロウイルスだった。がんの原因となる遺伝子は、肉腫からsrcと命名された。srcは後にウイルスだけでなく宿主のゲノムにも存在していることがわかり科学者たちに衝撃を与えた。ウイルス由来のものをv-src、細胞由来のものを c-srcと書く。

神保光太郎(1905~1990)

山形県山形市立日本大学山形中学校校歌 ボーイズビーアンビシャスわかものよ高き理想を涯りなきもの蔵王の姿われら行くこの道を永遠の真実の道よ日本大学山形学園花咲く学園ボーイズビーアンビシャスわかものよ嵐に堪えて清らなるもの最上の流れわれら行くこの道を新しき歴史の道よ日本大学山形学園花咲く学園ボーイズビーアンビシャスわかものよ輝く未来かちどきの歌とどろきわたるわれら行くこの道を大いなる世紀の道よ日本大学山形学園花咲く学園

ベル・スター(1848~1889)

最初の結婚 1866年11月、18歳のベルは農場に逃げて来たジェイムズ=ヤンカー一味のメンバー、ジム・リードと結婚した。ジムはシャーリーの家に住み農場を手伝っていたが、、翌年ベルを伴って実家の母の下に戻り、さらに1年後に娘のパールをもうけた。しかしジムは、チェロキー・インディアンの馬泥棒トム・スターとつるんでウィスキーの密売や家畜盗みに手を出すようになり、昔馴染みのヤンガーズ一味とも縒りを戻し始めた。

クロード・マクドナルド(1852~1915)

マクドナルドと競馬 マクドナルドは1901年から横浜の根岸競馬場の日本レース・倶楽部会頭を務めた。1905年に根岸競馬場で初めて“The Emperor's Cup”というカップ競走が開催されるが、この時の賞品の銀杯は、マクドナルドと明治天皇の個人的関係によって、明治天皇から下賜されたものだった。この“The Emperor's Cup”が現在の天皇賞の起源とされている。

エドモンド・ハミルトン(1904~1977)

キャプテン・フューチャー~物語の舞台~ 物語の舞台は、執筆された1940年代という時代を反映して太陽系内がそのほとんどを占め、各惑星で固有の人類が存在しており、また太陽系のほとんどの惑星、衛星に地球人の植民地が設けられ、各惑星人が混在して生活しているという設定になっている。ちなみにSFガジェットとしての原子力は登場するが、現実の核分裂反応ではない。年代設定は、「恐怖の宇宙帝王」事件が起きたのが2015年となっていた。

藤原成範(1135~1187)

唐物語 それぞれに異なる人物を主人公とする27の短い物語を集成したものである。『蒙求』『白氏文集』などを主要な出典とし、多くは有名な故事を題材としている。「唐」は中国を意味し、唐代以前の故事が多い。文章は『源氏物語』や和歌の影響の強い優雅な和文体で、また内容的にも原拠と目される作品とはかなりの違いが見られる。

アルバート・ギャラティン(1761~1849)

財務長官時代 ギャラティンは財務長官就任直後から連邦予算の均衡を保つことを重視し、大きな成功を収めた。また1803年にはギャラティンの努力により1500万ドルという破格の値段でミシシッピ川流域の土地を購入することに成功し、一度の増税も行うことなくルイジアナ買収を達成した。ギャラティンはその後も合衆国の拡張を目指し、ルイス・クラーク探検隊の計画策定にも参加した。

村上頼勝(不明~1604)

村上藩初代藩主 1598年1月、陸奥国会津若松城主の蒲生秀行が家中の抗争を理由に下野宇都宮城への減封を命ぜられ、玉突きで大規模な移封が生じた。同年4月、秀治の越後移封に伴い、頼勝も小松城から越後本庄城9万石に加増移封された。8月の秀吉の死で遺物左文字の刀を受領。

マリー・タッソー(1761~1850)

マダム・タッソー館 1835年、蝋人形彫刻家マリー・タッソーがロンドンのベイカー・ストリートに創立し、1884年にメリルボン・ロードに移転した。現在はマーリン・エンターテイメンツが経営している。ビートルズやチャールズ・チャップリンなどイギリス出身の有名人をはじめ、歴史上の人物、各国の政治家、エンターテイナーからスポーツ選手などを精巧に再現して展示している。

源翁心昭(1329~1400)

伝説 殺生石を退治する逸話は有名であり、大きな金槌の玄能・玄翁の由来となった。伝承によれば、玄翁が殺生石を退治したのは1385年8月のことであるという。この功績により翌年、後小松天皇より法王能昭禅師の号を賜ったという。

ジョン・ウェスレー(1703~1791)

キリスト者の完全 この書に紹介された「キリスト者の完全」における「完全」は、神についてのみ言い得る哲学的な、絶対的完全を意味しない。「キリスト者の」と限定されているように、クリスチャンが恵みによって、また、信仰によって領有することのできる信仰の状態、すなわちアダムの堕罪依頼、すべての人のものとなった「肉」の性質を、聖霊によってきよめられ、その支配から解放たれた心の状態を言い表している。欠点や過誤のないことではなく、その動機において、絶えず神の愛に支配された状態である。この転機的なきよめの経験の後にも、その人は生涯かけて、恵みによって、キリストの満ち満ちた愛の身たけに達するまで、様々な原因から来る罪への傾き易さを克服して、愛に成長していく。成長の余地を残している。愛における動機の「完全」を「キリスト者の完全」と表現する。

中山忠能(1809~1888)

 天誅組の変 その後、議奏となる。公武合体派の公家として1860年、孝明天皇から和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられた。その経緯から翌1861年、和宮の江戸下向に随行するが、これが一部の過激な尊皇攘夷派からの憤激を生み、1863年に議奏を辞職して失脚した。また同年には、子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。

イーディス・ネズビット(1858~1924)

砂の妖精 同じネズビットの『鉄道の子どもたち』と同様、この物語も、子ども達がロンドンからケント地方へ引っ越すところから始まる。5人の子ども達 - ロバート、アンシア、シリル、ジェインと彼らの坊や - が砂利堀り場で、少し無愛想で、不格好で、時々機嫌を悪くするサミアドという名の妖精を発見する。この妖精は、願いをかなえる能力を持っていた。サミアドは、願いが、日が暮れると石に変わるという忠告をし、1日に願いは4人で1つでいいように説得させた。この規則は、子どもがみんな食べ物を願っていたという石器時代に決められ、これらは化石に変わっている。しかし、いつしか子どもが空想的な願いを望むようになったので、日没で石に変えることができず、この場合は単に消えるのみとなった。

酒井家次(1564~1618)

大坂の陣 1614年の大坂の陣では、大坂城の東側の黒門口を持ち場として戦ったが、大坂城の堅い守りに阻まれてはかばかしい武功を挙げることは出来なかった。大坂夏の陣では激戦となった天王寺・岡山の戦いにおいて、天王寺口第三陣の大将を任されている。しかし、豊臣軍の猛攻により、天王寺口の味方は散々に崩され、家次も敗走している。これに関連したのか戦後に家康より譴責があったが、閏6月に許されている。

ジョゼフ・ニーダム(1900~1995)

政治的見解 ニーダムは若いころからキリスト教社会主義者であり、また中国に対する関心は1949年の中華人民共和国成立後も続けられた。ニーダムは1952年に中国政府からの朝鮮戦争の調査依頼を受け入れ、北朝鮮と中国で米軍が生物兵器を使ったと証言したことが論争を呼んだ。ニーダムは米国政府によって1970年代までブラックリストに載せられており、2008年にニーダムの伝記を書いたサイモン・ウィンチェスターは共産主義に共感を寄せたニーダムを共産主義者が利用したと論評した。1964年には周恩来と会見し、1965年には英中相互理解協会を設立した。

京極高知(1572~1622)

丹後国主 戦後は丹後一国12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称した。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。その後、領地は嫡男・高広、三男・高三、甥で婿養子の高通の3人に分封し、宮津藩・田辺藩・峰山藩の3つに分割された。嫡流は宮津7万8200石の領主となったが、3代で改易となる。その後、嫡流子孫は江戸幕府の高家として取り立てられ、幕末まで続く。田辺藩京極家は3代で但馬国豊岡へ転封となった。峰山藩京極家は幕末まで転封もなく、幾人もの若年寄を出すなど譜代格の大名として幕政にも参画した。

アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844~1925)

子女たちの結婚 アリックスは子女たちの結婚に対し、姑ヴィクトリア女王や夫エドワード・アルバートが勧める縁談でも反対する事が多々あり、それが影響して破談となる事もあった。クラレンス公アルバート・ヴィクターの妃候補にヘッセン大公女アレクサンドラが浮上したが、アリックスが断古反対し白紙に、次男ヨーク公ジョージとザクセン=コーブルク=ゴータ公女マリーが恋愛関係にあり結婚に進展した際、ヴィクトリア女王や王室の面々が賛成しても反対し破談となるなど、また、次女ヴィクトリア・アレクサンドラ王女が生涯独身であったのも、アリックスが愛娘の健康に配慮し、結婚を思い留まらせたためとも言われており、ヴィクトリア女王や夫アルバート・エドワードの影に隠れがちだったアリックスも、王室内では発言力も有していたのである。

蟹江一太郎(1875~1971)

カゴメ 創業者の蟹江一太郎が1899年に名古屋の農業試験場の佐藤杉右衛門からトマトの種子を譲り受けてトマトの栽培を開始。その数年後、トマトが豊作でダブついた時にトマトの保存を兼ねて国産トマトソースの製造に踏み切る。幾度なく失敗を重ね、1903年に国産トマトソースの製造に成功、1906年に愛知県東海市の自宅の裏に工場を竣工し、本格的トマトソースの製造を開始。その後1909年にはトマトケチャップとウスターソースを製造し、やがて業績を上げるようになる。

エドガー・ケイシー(1877~1945)

概要 ケイシーは自宅のソファに横たわり、催眠状態で様々な過去を視ることができた、とされている。ケイシーはクムランにあったエッセネ派の集落の場所を正確に示し、その歴史上の役割についても詳細に述べた。マイケル・タルボットは、11年後に死海文書が発見された事で、ケイシーの話は立証されたと述べている。ノストラダムスやジーン・ディクソンとともに世界三大予言者と言われることもある。他の予言者同様、予言にはあいまいな表現が見られ、多くは当否が確認できないリーディングの半数以上が、病気治療のフィジカル・リーディングと呼ばれるものである。リーディング家といった神話的エピソードもあるが、いずれも仲違いをしたり急死したなどとされ、これらの出来事は記録が残っていない。記録として残されているリーディングから神話的な評価をすることは困難である。

桑名吉成(1551~1615)

藤堂家臣時代 吉成の政治的・事務的な手腕は東軍方の諸将の間でも高く評価され、盛親の兄・津野親忠と懇意にしていた藤堂高虎はその手腕を認めて2,000石で吉成を召し抱えた。ただし藤堂家の家臣となった時代の吉成の事績はほとんど不明である。1615年5月、大坂夏の陣・八尾の戦いで藤堂軍の一員として参加し、かつての主君・長宗我部盛親の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた。主君と槍を交わすのに忍びず、自ら敵中になだれ込み、自殺したとも言う。

ジョージ・グリーン(1793~1841)

グリーン関数 グリーン関数とは、微分方程式や偏微分方程式の解法の一つであるグリーン関数法に現れる関数である。グリーン関数法は、英国の数学者ジョージ・グリーンによって考案された。物理学、数学、工学各分野において非常に重要な関数であり、広い用途で使用される。物理学におけるグリーン関数はプロパゲーターとも呼ばれる。

鶴田浩二(1924~1987)

傷だらけの人生 「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。」何から何まで真っ暗闇よすじの通らぬことばかり右を向いても左を見てもばかと阿呆のからみあいどこに男の夢がある「好いた惚れたとけだものごっこがまかり通る世の中でございます。好いた惚れたは、もともと心が決めるもの…こんなことを申し上げる私もやっぱり古い人間でござんしょうかね。」ひとつの心に重なる心それが恋ならそれもよししょせんこの世は男と女意地に裂かれる恋もあり夢に消される意地もある「なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたがそういう私も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く…馬鹿な人間でございます。」真っ平ご免と大手を振って歩きたいけど歩けない嫌だ嫌ですお天道様よ日陰育ちの泣きどころ明るすぎます俺らには

ジャコ・パストリアス(1951~1987)

ウェザー・リポート時代 フロリダにウェザー・リポートのツアーで訪れていたジョー・ザヴィヌルに自分のデモ・テープを渡すなど、ジャコはベーシストとしてバンドに参加したい旨を直接ザヴィヌルへ伝えていた。丁度その頃には2代目のベーシスト、アルフォンソ・ジョンソンが脱退する予定であったため、1975年12月から1976年1月にかけての『ブラック・マーケット』のレコーディング・セッションで、ジャコはザヴィヌル作の「キャノンボール」と自作の「バーバリー・コースト」の2曲にベーシストとして参加した。これ以降、ジャコはウェザー・リポートの正式メンバーとなり、次作『ヘヴィ・ウェザー』以降ではジャコ・プロデューサーとしてクレジットされるようになった。

辻村みちよ(1888~1969)

茶カテキン 一方、日本人になじみの深いカテキンは、1929年から辻村みちよらによって結晶状に単離されていった。茶カテキンの主要成分は、エピカテキンとそのヒドロキシ体のエピガロカテキン、およびそれらの没食子酸エステルであるエピカテキンガラートとエピガロカテキンガラートの4つである。これらの化合物は緑茶の渋み成分として含有量は EGCg>EGC>ECg>EC の順であり、合計すると茶葉中の水分を除いた総重量中の13~30%程度を占める。紅茶を作る際の発酵の工程では、カテキンはポリフェノールオキシダーゼによって酸化重合し、テアフラビンやテアルビジンへと変化する。

サンフォード・ロビンソン・ギフォード(1823~1880)

マッジョーレ湖のベッラ島  

夢野久作(1889~1936)

ドグラ・マグラ 1926年ごろ、九州帝国大学医学部精神病科の独房に閉じ込められた、記憶が喪失中の若き精神病患者の物語「私」という一人称で語られていく。彼は過去に発生した複数の事件と何らかの関わりを有しており、物語が進むにつれて、謎に包まれた一連の事件の真犯人や動機、犯行手口などが次第に明かされていく。

フェリックス・ジェルジンスキー(1877~1926)

秘密警察の父 十月革命後、国内で反対派のゼネストやデモが活発化し、更に列強諸国がこの動きを支援する形で軍事干渉を開始した。この危機的状況下を耐え抜くために、レーニンは反政府運動を監視・摘発する治安部隊の必要性を感じていたが、こうした組織には政府への強い忠誠心が必要であった。レーニンは革命に全てを投げ打ってきたジェルジンスキーを「革命の使徒」として信頼しており、軍事委員であった彼に反革命勢力への断固たる「対処」を命令した。1917年12月20日、ジェルジンスキーは「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」を創設、ヤーコフ・ペテルス、ヨシフ・ウンシュリフト、アブラム・ベレンキー、ヴャチェスラフ・メンジンスキーらと共に反体制派の摘発を開始した。

隈部親永(不明~1588)

赤星氏との抗争 当時の肥後北部は、大友氏支配の下で城氏・赤星氏・隈部氏ら旧菊池家臣が統治していたが、その中で親永と赤星親家が主導権を争い、領土問題も絡んで対立が深まった。1559年には、侵攻してきた赤星親家を合勢川の戦いで破った。敗退した赤星氏が大友氏に援助を求めたため、親永はこれに対抗して肥前国の龍造寺隆信と結んだ。1578年に耳川の戦いで大友氏が大敗すると、龍造寺氏の肥後侵攻に加担した。

アレッサンドロ・アントネッリ(1798~1888)

モーレ・アントネリアーナ  

佐脇嵩之(1707~1772)

百怪図巻~ぬっぺっぽう~

カナレット(1697~1768)

南から見たリアルト橋

波多野秀治(1538~1579)

黒井城の戦い 1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、波多野氏は織田氏に従った。秀治の確実な初見は、1570年11月24日の秀治の太刀・馬贈呈の返礼をする織田信長黒印状である。1575年10月、信長が明智光秀の軍勢を派遣してくるとそれに味方したが、1576年1月に叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した。

マーヴィン・ゲイ(1939~1984)

復活と死 一度は破産などのどん底の状態にあったマーヴィンではあったが、彼の才能を惜しむ後援者が積極的に援助に回ってくれたことがきっかけとなり、途切れがちだった音楽活動も徐々に復調し始めた。1980年のモントルーでのライヴを皮切りに、1982年には移籍したCBSコロムビアより『ミッドナイト・ラヴ』をリリースする。ドイツのミュンヘンにてレコーディングがおこなわれ、シンセサイザーを使用した本作は発表と同時に評判を呼び、シングルカットされた「セクシャル・ヒーリング」も全米シングルチャートの3位を記録するヒットとなった。翌1983年には、マイケル・ジャクソンやスティーヴィー・ワンダーらを迎え、グラミー賞を受賞するなど健在振りを見せつけた。しかし、彼のキャリアで最大の成功を収めた本作が遺作となった。

有馬新七(1825~1862)

尊皇攘夷 尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺後を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を引き、結果的に水戸藩を裏切る形となった。1860年に町田久成の要請を受け、伊集院郷石谷村を統治することとなった。新七は石谷村を治める間に、村における刑法を定め、悪事を働くものに罰として石坂と呼ばれる道の建設にあたらせたり、郷士に五人組制を実施するなどの指導を行った。

スヴァトポルク1世(980~1019)

キエフ大公位を巡る戦い~ルーシ内戦~ 1015年、貢税の支払を停止した息子ヤロスラフを懲罰するために遠征軍の準備をしていたウラジーミルが急死すると、キエフの人々の一部でウラジーミルが寵愛したボリスをキエフ大公に迎えようとする動きがあった。『原初年代記』によれば、このときキエフ大公の座を狙うスヴァトポルクはキエフ近郊の町ヴィシェゴロドの貴族らにボリスの殺害を指示したという。ペチェネグ人討伐のためウラジーミルから兵を与えられていたボリスは、配下の兵からの「スヴァトポルクを討つべきだ」という献言を退け、無抵抗のうちにリト川の付近で殺された。スヴァトポルクは続いて年端のいかぬ異母弟グレブにも暗殺者を送って殺害し、その遺体は暗殺者らによって「荒野の二本の丸太のあいだに投げ捨てられた。」

小野篁(802~853)

逸話と伝説 京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。

グエン・ズー(1765~1820)

金雲翹 物語の舞台は明の嘉靖時代の開封。女性主人公ヴオン・トゥイ・キエウは、弟の友人であるキム・チョンと知り合い結婚を約束するが、ヴオン家に不幸が訪れる。トゥイ・キエウは、妹のトゥイ・ヴァンにキム・チョンとの結婚を託し、金を工面するために身を売る。トゥイ・キエウは流転のなかでさまざまな辛酸をなめたのち、15年の歳月を経て妹や婚約者と再会し、幸せに暮らす。

新藤兼人(1912~2012)

映画監督デビュー 1951年、大映から請け負う形で近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。この自伝的な内容の脚本はどうしても他人にやらせたくなかったと告白している。主演は大映人気スター“百萬弗のゑくぼ”乙羽信子で、乙羽がこの脚本を読んでどうしても妻の役をやりたいと願い出てきたこと、新藤としては愛妻物語のモデルである内妻・孝子と乙羽がよく似ているから、との理由で決まった。

クトゥブッディーン・アイバク(1150~1210)

出世 1206年、アイバクはシハーブッディーンより「ペシャワールの門からインドの最も奥地まで」のゴール領の総督に任命された。それから2、3週間後の3月に主君のシハーブッディーンが暗殺されてゴール朝が統一を失うと、アイバクは6月に自らスルタンを称して事実上デリーに独立、インドを本拠地とし、インドのみを支配する史上初のイスラーム王朝である奴隷王朝を開いた。アイバクは、ゴール朝の分裂にともなう混乱と争奪の中でアフガニスタンとデリーの中間に位置するパンジャーブ地方を併合することに成功する。さらにイルトゥトゥミシュに娘を嫁がせ、シンド地方の総督であったナースィル・ウッディーン・カバーチャに姉妹を嫁がせ、自らはケルマーンの総督であるタージ・ウッディーン・ヤルドーズの娘を妻として迎えて権力の基盤を固めた。

三浦義澄(1127~1200)

衣笠城合戦 1180年、源頼朝が石橋山の戦いで挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流し、のちに頼朝に帰服した重忠らと共に鎌倉に入る。

ジュゼッペ・ピアッツィ(1746~1826)

小惑星の発見 19世紀が始まった1801年11月1日に彼が天体観測をしている際に恒星とは違う動きをする天体を発見した。彼は最初彗星だと考えていたが、その後の観測により彼は太陽系の天体と確認。病気で倒れたことにより、2月11日が最初の観測となった。この星は、ローマ神話の女神ケレスとナポリ王フェルディナンド4世からケレス・フェルディナンデアと命名された。その後国王の名は政治的理由により削除され、現在のケレスとなった。

吉富簡一(1838~1914)

山口県政へ 1876年に先収会社が解散した後、井上や木戸は農民たちの不平運動を抑えるために吉富に対して山口へ帰るように要望する。この時不平士族を集めた前原一誠による萩の乱がおこる。この時期には全国的にも佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱、西南戦争や自由民権運動が起こり、薩長藩閥体制への挑戦が連続していた。長州閥の政治家達はお膝元山口での不平農民や不平士族たち、自由民権運動を押さえ込むことを吉富に託したのである。

ジャン=フィリップ・ラモー(1683~1764)

クラヴサン曲集第1巻 フランスの作曲家、ジャン=フィリップ・ラモーが作曲したクラヴサン曲集第1巻は、ラモーが最初にパリに滞在した1706年に発表した。この作品は、1700年から1710年の間にパリで出版したいくつかのチェンバロ曲集のひとつである。

日根野弘就(1518~1602)

織田家臣時代 織田家仕官後の身分は馬廻で、1575年8月の越前一向一揆討伐に参加し、遠藤慶隆らと共に越前国に攻めこみ、日根野隊は白木峠を越えて穴馬谷に侵入し、ここを固めていた一揆を撃破した。1578年11月の有岡城の戦いにも参陣している。1580年閏3月には弟・盛就を初めとして同六郎左衛門・半左衛門・勘右衛門・五右衛門らが揃って安土に屋敷地を与えられており、弘就以外の日根野一門も信長の馬廻に取り立てられている。1582年6月の本能寺の変時には在京して宿をとっていたが、本能寺や二条御所には駆けつけず状況を静観しつつ、美濃の佐藤秀方と書状を交わして今後に付いて相談する。山崎の戦いの後には遠藤慶隆に京都の情勢を伝えている。

シャルル・ウジェーヌ・ガブリエル・ド・ラ・クロワ・ド・カストリー(1727~1801)

海軍長官として 1780年10月13日に友人ジャック・ネッケルの推薦で海軍長官に選出され、1787年8月24日までその地位にあった。1783年、彼はフランス元帥となった。彼は艦隊を再編成し、グラン・コンセーユにて採用された新たな海軍戦略を用いた。それは戦列艦は海上に置いておきながら、艦隊がイギリス海軍を封鎖して港の中に引き留めるというものであった。この戦略によって、フランス海軍はアメリカ独立戦争で勝利を挙げた。また、法制面で彼が務めた重要な改革に、海軍の階級の単純化とその徴兵制度の再編成がある。カストリーは送られてきた調査資料を徹底的に調査し、それらの役割にとても精力的で、彼は「私は高速に寝てみたい」と言った。