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中山忠能(1809~1888)

 天誅組の変
その後、議奏となる。公武合体派の公家として1860年、孝明天皇から和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられた。その経緯から翌1861年、和宮の江戸下向に随行するが、これが一部の過激な尊皇攘夷派からの憤激を生み、1863年に議奏を辞職して失脚した。また同年には、子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。

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