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11月, 2020の投稿を表示しています

武田義信(1538~1567)

義信事件 『甲陽軍鑑』によれば、1564年7月に義信の傅役である飯富虎昌、側近の長坂源五郎、曽根周防守からが、信玄暗殺の密談をしていたが、計画は事前に虎昌の実弟である飯富三郎兵衛の密書により露見し、1565年1月、虎昌以下は謀反の首謀者として処刑され、80騎の家臣団は追放処分となったという。

ヴィンチェンツォ・ガリレイ(1520~1591)

音律の理論への貢献 その後、ツァルリーノとヴィンチェンツォは音律を巡る激しい論争を引き起こした。無伴奏で歌を歌う場合に、純正律を擁護するツァルリーノに対し、ヴィンチェンツォは平均律の優位性を主張した。この論争の中で『古代と今日の音楽に関する対話』などの著作が著され、ピタゴラス音階への論駁や多声音楽の否定など、のちの音楽の科学や展開に貢献する多くの説が生まれた。

クリスチャン・ディトリウ・フレデリク・レーヴェントロー(1748~1827)

政界にて レーヴェントローは特に農業において革新的な思想を持ち、自領の農奴の待遇を改善した。1784年4月14日にオーヴェ・フーイ=グルベアの超保守派内閣が倒れると、レーヴェントローがずっと感服していたアンドレアス・ペーター・フォン・ベルンシュトルフが復権した。レーヴェントローは1784年8月6日に大蔵省の長に任命され、農業に関するすべての事柄を担当した。彼はまず小人数の農業委員会を設立して王領の農奴の待遇を改善、借地の購入を許可した。王太子フレデリクが農奴解放に前向きであると見抜いたレーヴェントローは1786年7月にフレデリクに話をつけてデンマーク国内の農奴の状況を調査するための委員会を設立させた。この委員会は長期間にかけて多くの改革を実施した。1787年6月8日の法令では賦役を完全廃止した。また小作農が有利な条件でお金を借りることができる銀行を設立した。ほかにもエルンスト・ハインリヒ・フォン・シメルマンとともにデンマーク・ノルウェー間の自由貿易とトウモロコシの自由輸入を許可、アイスランドの貿易独占を廃止した。

アブー・アルハサン・アリー(1297~1351)

イベリア進出の挫折 輝かしい戦勝の後、1339年にナスル朝のユースフ1世から、カスティーリャ王国撃退の援軍を要請される。モロッコから押し寄せた多数のマリーン朝軍は、カスティーリャ王アルフォンソ11世に敵対していたポルトガル王アフォンソ4世との和解を決断させるほどの脅威だった。1339年にアルカンタラ騎士団、サンティアゴ騎士団とナスル朝、マリーン朝双方の間で小規模の小競り合いが起きるにとどまるかが、翌年に事態が進展する。1340年4月、提督アロンソ・ジョフレ・テノーリオ指揮下のカスティーリャ艦隊がマリーン朝の艦隊を撃破するべくセウタから出撃した。ムハンマド・イブン・アリー・アル=アザフィー指揮下のマリーン朝艦隊はカスティーリャの船団を迎撃、4月5日のジブラルタル近海で海戦が行われた。結果はマリーン朝の勝利に終わり、テノーリオは戦死、無事に退却できたカスティリャの艦船は5隻だけだった。同年8月14日、海上からの脅威が消えた後に海峡の向こうのアルヘシラスに軍隊と輜重を送り、自らも大軍を率いてイベリア半島に上陸した。翌月にユースフ1世が率いるグラナダの軍と合流し、タリファの包囲に取り掛かった。

ブリガム・ヤング(1801~1877)

教会の大管長職~アメリカ合衆国政府との紛争~ ヤングの率いたモルモン開拓者がユタに到着した直ぐ後に、新しいモルモン教徒の植民地はメキシコ割譲によってアメリカ合衆国の領土に組み入れられた。ヤングはアメリカ合衆国議会にデザレット州を創るよう請願した。しかし、1850年妥協によって、ユタ準州が創設され、ヤングはその知事に任命された。ヤングは知事と教会大管長を兼務し、宗教面と経済面の事柄を指導した。ヤングは独立と自給自足を奨励した。ユタの中の都市や町および隣接する州の都市や町がヤングの指示で設立された。ヤングの指導スタイルは独裁制であると見なされてきた。

ヴァフタング1世(439~522)

サーサーン朝ペルシアとの戦争 当初イベリア王国はサーサーン朝に従属していたが、度重なる侵略に憤慨したヴァフタング1世はペルシア王女のバレンドゥフトと離婚した。その後王権強化を試みたヴァフタング1世は東ローマ帝国皇帝のゼノンの娘とされるヘレーナと再婚し、見事コンスタンティノープルからイベリア王国教会長に任命され、ムツヘタで監督を担った。親ローマ政策を進めていくヴァフタング1世であったが、482年ついにイランとの亀裂が深まった決定的な事件が起きた。ヴァフタング1世は側近の家臣であるヴァルスケンとビダクシュを、ゾロアスター教に改宗し彼らのキリスト教徒の妻のシュシャニクを殺害したとして極刑にしたのである。このヴァフタング1世の行いがサーサーン朝の逆鱗に触れてしまい彼はサーサーン朝と対立することとなった。そこでヴァフタング1世はアルメニアの王子とフン人に同盟を要請し、反ペルシャ反乱を指揮した。483年と484年にサーサーン朝がイベリア王国へ略奪をしに遠征に行くも、サーサーン朝のペーローズは484年に戦死し、コーカサスに平和が訪れた。イベリア王国の勝利へと終わるとヴァフタング1世は王を改めて宣言した。サーサーン朝に勝利したヴァフタング1世は、すでにイラン人の建てた集落に新たにティフリスという街を創設した。これが現在のトビリシであり、ティフリスはヴァフタング1世の遺言に従った息子のダチによって、後にムツヘタから遷都されイベリア王国の首都となる。

マイスター・エックハルト(1260~1328)

教義~神の慰め~ それでは現に悩みがある者はどうすべきなのかというと、悩みを神から受け取るべきであるとエックハルトは言う。神のうちで「神、ともに悩み給う」のを喜ぶべきなのである。悩みが消えるような慰めが神から与えられないときは、「恩寵を受けない」という仕方で受け取っているのであり、受けないということで受けることにより一層本来的に神を受容することになる。

ジャン・ピエール・ボワイエ(1776~1850)

独立と賠償 ハイチは1804年に独立しジャン=ジャック・デサリーヌが皇帝となるが1806年に倒され、アンリ・クリストフの支配する北部のハイチ王国とペションの支配する南部のハイチ共和国とに分かれた。クリストフが自殺するとペションの後継者となっていたボワイエはハイチ王国を併合した。1821年にサントドミンゴがスペインから独立すると侵攻して1822年2月にこれも併合した。ボワイエは1843年にエリート支配層の支持を失って追放されるまでイスパニョーラ島全島を支配した。

エドヴァルド・エリクセン(1876~1959)

人魚姫の像

ロバート・サウジー(1774~1843)

3びきのくま 女の子が森でクマの家を見つける。誰もいないので入ってみると、テーブルの上にお粥が置いてあった。1つ目のお粥は「熱すぎる」。2つ目のは「冷たすぎる」。3つ目のは「ちょうどいい」ので、全部飲んでしまう。女の子は疲れていたので椅子に座ろうとした。1つ目の椅子は「大きすぎる」。2つ目のは「もっと大きすぎる」。3つ目のは「ちょうどいい」ので座ったが、椅子は壊れてしまった。眠たくなったので寝室に行ってみると3つのベッドがあった。1つ目のベッドは「固すぎる」。2つ目のは「柔らかすぎる」。3つ目のは「ちょうどいい」ので、そこで寝てしまう。クマが戻って来て、お粥は食べられ、椅子には座った痕があり、1つは壊されていて、ベッドには寝た痕があり、子グマのベッドには女の子が寝ているのを発見する。目を覚ました女の子はクマに驚き、慌てて家から逃げていった。

バディ・ホリー(1936~1959)

1959年~冬のダンスパーティー~ 最後のツアーとなる「ウィンター・ダンス・パーティー」の直前、レストラン「ブライアー・ハウス」でバディー・ホリー、ディック・ジェイコブス、デッカとコーラルの副社長を兼任するマーティ・ソルキンの三者による今後の音楽的方向性についての話し合いが持たれた。ジェイコブスの回想。「非常に満足する内容でした。ソルキンは『それが優れた音楽である限りの変更の必要は無い。』と言いました。バディはこれから始まるツアーを楽しみにしてしまいましたが彼と会ったのはその時が最後となってしまいました…」

エドワード・エヴァレット(1794~1865)

ハーバード大学学長 エヴァレットは前任者から引き継いだ貧しい経営状態について、絶えず不満を漏らした。礼拝堂に出席する学生の身なりは貧相で、学内は荒れた状態が恒常化していた。飲酒が常態化し、中庭での焚火や売春は、日常的な出来事であった。建物は修繕の必要があった。エヴァレットは学生からのいたずらに悩まされていたが、対立的な学生や教員を相手にして事態改善を図るには準備不足であると感じていた。エヴァレットは学生から「頑固な婆さん」とあだ名を付けられ、自宅フェンスには落書きが絶えなかった。

長尾景仲(1388~1463)

成氏との対立 ところが、足利持氏の遺児・永寿王丸を新しい鎌倉公方に擁立する動きが清方の後を継いだ越後守護・上杉房朝や関東諸将の間で起き、室町幕府もこれを容認した。1447年、永寿王丸と憲忠は鎌倉に入って憲忠が関東管領に任命され、2年後の1449年に元服して従五位下左馬頭に任命された永寿王丸は8代将軍・足利義成の一字を拝領して「足利成氏」と名乗って正式に第5代鎌倉公方に就任した。だが、成氏が永享の乱・結城合戦で鎌倉公方家に殉じた武将の遺児達を側近として登用するようになると、上杉氏やその家臣団の反発も高まっていた。

カミーユ・デムーラン(1760~1794)

フランスとブラバンの革命 一方、1789年11月には、より自由な立場からの発言の場として「フランスとブラバンの革命」と題した新聞を自ら刊行。1791年7月まで週刊で発行され続けた同紙の中で、デムーランは先鋭的な政治・社会論評を行い、高い人気を得た。こうした活動を通じてかつての貧困生活からは完全に脱却し、1790年12月29日には、リュシル・デュプレシと交際7年で結婚している。

春日虎綱(1527~1578)

出生から香坂氏継承 その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば1561年8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する。『甲陽軍艦』によれば妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。

ニコラス・デ・オバンド(1460~1518)

アメリカへの遠征 1502年2月13日、彼は13隻の艦隊を伴い、スペインを出港した。これは新大陸へ向かう艦隊で過去最大規模であった。13隻の船が2,500人の入植者を運んだ。コロンブスの初期の居住者とは異なり、植民者グループは、意図的に、スペイン社会を代表し、組織することを選択した。オバンドの計画は、西インド諸島を経済的に発展させ、スペインの政治的、宗教的、行政的な影響をこの地域に拡大するというものであった。後に南米の西部を探検し、インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロも彼と同伴していた。別の船には、後に「インディアンの保護者」として知られる、バルトロメ・デ・ラス・カサスも乗っていた。1502年、知人であり遠い親戚であったエルナン・コルテスもオバンドと共にアメリカへ行く計画があったが、コルテスが怪我をして彼の渡航は延期された。

サアディー(1210~1292)

薔薇園~旅の経験~ サアディーが旅をした地域は、東はホラーサーン、トルキスタン、カシュガル、ガズニー等、南はパンジャーブ、ソームナート、グジャラートからアラビア半島、北はアゼルバイジャン、西はイラク、パレスティナ、シリアやエジプトなど北アフリカに及んだ。メッカへの巡礼は14回行い、多く訪れた土地としてはイスファハーン、タブリーズ、バスラ、クーファ、アレキサンドリアなどがある。こうした各地での見聞やサアディー自身の経験が随所に書かれている。

グスタフ・クルップ(1870~1950)

第二次世界大戦 第二次世界大戦の間、クルップ社は軍艦・潜水艦・戦車・軍用トラック・重砲などを製造した。クルップ社は建造した80cm列車砲「シュベーレ・グスタフ」は会長であった彼の名に由来する。また、被占領国国民や強制収容所の収容者に強制労働をさせ、情け容赦なく彼らを扱ったとされる。戦後のニュルンベルク裁判の審理によって約70,000人の強制収容所犠牲者がクルップ社による酷使で死んだと推定されている。なお、クルップ社はアウシュヴィッツ強制収容所の近くでヒューズ工場を持っていた。

山本七平(1921~1991)

イザヤ・ベンダサンとの関係~山本による説明~ 当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも、否定したことはない。」とも述べている。後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。

北大路魯山人(1883~1959)

星ヶ岡茶寮~東京~ 茶寮のあった土地は元々日枝神社の境内に属した小高い丘にあり、夜には星がよく見えたことから「星ヶ岡」と呼ばれていた。ところが、明治維新による江戸から東京への変化の中で周辺の住民構成が大きく変わり、氏子が減少した日枝神社は社域を維持することが出来なくなり、境内の一部を東京府に寄付することにした。東京府は1881年ここに麹町公園を設置して東京市民の憩いの場として提供することとした。

バックミンスター・フラー(1895~1983)

バックミンスター・フラーの富の概念 フラーは独特の富の概念を公言していた。それは、一般的に私たちの大部分に認められている貨幣ではなく人間の生命を維持・保護・成長させるものとした。それらを達成するための衣・食・住・エネルギーを、そして究極的にはより効率的に成し遂げるための形而上学的なものであるノウハウの体系であるテクノロジー、それ自体が更に発展し続ける、それこそが「富」の本質であるとした。「自分の時間をより有効な探査的な投資に解放すれば、それは自分の富を増やすことになる」この言葉にも彼の独特の富の概念が現れている。

テレンス・ハンベリー・ホワイト(1906~1964)

永遠の王~第一部 石に刺さった剣~ 物語はユーサー・ペンドラゴン晩年の治世から始まる。第一部では養父サー・エクターに育てられることになったウォート少年が、エクターの子ケイと喧嘩しつつ友情を育み、魔法使いマーリンの教育をうけることなどが語られる。時間に逆行して生きているマーリンはウォートの運命をすでに予知しており、彼に良い王とは何たるかを様々な動物に変身させることで教える。それぞれの変身には意味があり、それによってウォートを将来に備えさせるのである。

ディック・ブルーナ(1927~2017)

ナインチェ誕生 またこの年、「nijtje」という、うさぎを主人公とした字のない絵本を刊行。当時子供向けの本といえば、写実的な描写が主流で、デ・ステイルをはじめ現代芸術運動の流れを汲む斬新でモダンなキャラクターたちに、大人たちは「子供には理解できない」と敬遠していたのだが、シンプルな線と明解な色彩は子供たちの支持を得た。

寺山修司(1935~1983)

あゝ、荒野 吃音症で対人赤面症に悩む健二。母親の死後、暴力をふるう父親と共に生活していたが耐えられず、家から出るため床屋に住み込みで働いている。一方の新次は幼いころに父親は自殺、母親にも捨てられ野性的な性格に育った。似たところがあるような、ないようなこのふたりがひょんなことから出会い、元ボクサーである堀口にしごかれプロボクサーを目指す。人が心にもっている愛や孤独、自分と向き合う青春物語。

ロン・ノル(1913~1985)

カンボジア内戦~ロン・ノル政権~ カンボジアでは1970年、ベトナム戦争が激化する中、反米姿勢をとるカンボジア王国のシハヌーク政権に対し、親米右派のロン・ノル将軍がクーデターを敢行、シハヌークは滞在中の中国に亡命し、ロン・ノル政権が登場した。同年、アメリカはカンボジアに侵攻し北ベトナムからの支援ルート遮断をめざした。こうしてベトナム戦争はカンボジアに拡大、またカンボジアはアメリカと結んだロン・ノル政府軍、シハヌークの旧政府軍、ポル・ポトらの左派が指導する赤色クメールの三つどもえの内戦状態に突入した。シハヌークは赤色クメールと反米・反ロン・ノルで共闘するカンプチア民族統一戦線を結成した。

野内与吉(1895~1969)

マチュ・ピチュ 当時、インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400mに位置する。標高2,430mのマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にその首都があった。現在のクスコはペルー有数の都市でその市街地は世界遺産である。なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡したが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担などの理由はまだ明確には分かっていない。

ハインリッヒ・ガイスラー(1814~1879)

ガイスラー管 ガイスラー管は、低圧の貴ガスを封入したガラス管の両端に電極を設け、高電圧を加えることで放電させるものである。ガス圧が十分低下すると、放電が発生し、ガイスラー管は明るく輝き始める。輝く色はガラスの含有物、ガスの種類、ガスの圧力で異なる。放電の様子から概略の真空度を推定するのに用いられるほか、教育用の実験に用いられる。当時の科学界にインパクトを与え、改良された放電管は電子の発見やX線の発見につながっていくことになった。

ハンス・ヴィンクラー(1877~1945)

ゲノム ゲノムとは、「遺伝情報の全体・総体」を意味するドイツ語由来の語彙であり、より具体的・限定的な意味・用法としては、現在、大きく分けて以下の2つがある。古典的遺伝学の立場からは、二倍体生物におけるゲノムは生殖細胞に含まれる染色体もしくは遺伝子全体を指し、このため体細胞には2組のゲノムが存在すると考える。原核生物・細胞内小器官、ウイルス等の一倍体生物においては、DNA上の全遺伝情報を指す。分子生物学の立場からは、すべての生物を一元的に扱いたいという考えに基づき、ゲノムはある生物のもつ全ての核酸上の遺伝情報としている。ただし、真核生物の場合は細胞小器官が持つゲノムは独立に扱われる。

カルル・ダヴィドフ(1838~1889)

チェロ界の帝王 5歳からピアノを始めるが、10歳でチェロに転向し、モスクワ劇場の首席チェリストのハインリヒ・シュミットに師事する。18歳でサンクトペテルブルク大学で数学を専攻した後、作曲家としての道を究めるべくライプツィヒ音楽院でモーリツ・ハウプトマンに入門するが、22歳の時にはドレスデンで、ボッケリーニ作品の改訂で有名なグリュッツマッハーにも指導を受けた。その後はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で正規のチェロ奏者として活躍するかたわら、余暇に作曲を続けた。帰国後にサンクトペテルブルク音楽院チェロ科の主任教授に就任。1870年に後援者より贈られたストラディヴァリウスのチェロは、ジャクリーヌ・デュ・プレの手を経て、現在はヨーヨー・マの手に渡っている。

ウラジミール・ペーター・ケッペン(1846~1940)

低気圧の熱構造に関する研究 1882年にドイツ海洋気象台にったケッペンとドイツの数学者メラーは、スウェーデンの気象学者ヒルデブランドソンが集めた高層雲の観測結果を利用して、「低気圧が持つ熱的に非対称的な温度構造が、イギリスの気象観測者レイが指摘した地上と高層での低気圧中心のずれによって、低気圧前面での暖気の上昇と後面での寒気の下降を引き起こしている」と考えた。彼は層厚的な考えから、低気圧内での温度分布と気圧分布を初めて推定して、低気圧の熱的構造を明らかにした。

モーリス・ユトリロ(1883~1955)

パリ郊外

サディウス・ケイヒル(1867~1934)

テルハーモニウム ケイヒルは3つの型を作製した。重さはマークIは7トン、マークIIは200トンであり、マークIIIもIIと同じ重さであった。それぞれ前の型から非常に進歩したものになっていた。生で見る聴衆の前で電話伝送に加えて演奏が行われたのはわずかであった。ニューヨーク市での演奏会は1906年に大衆に歓迎され、演奏者は楽器を制御するために座っていた。実際の楽器自体の装置は非常に大きく、部屋全体を占めていた。制御する演奏者台から出ている電線は、聴衆席の床の穴を通してコンサートホールの下にある地下に収容された楽器室自体に、慎重に供給された。

アドルフ・サックス(1814~1894)

サクソフォーン 1840年代にベルギーの管楽器製作者アドルフ・サックスがバスクラリネットの改良中に円錐管の魅力に注目したのを基に考案された楽器。1846年に特許を取得している。Saxophoneの名は彼にちなむ。元々吹奏楽団における木管楽器と金管楽器の橋渡しを目的に開発された。構造上、木管楽器に分類されるが、真鍮を主とした金属で作られており、木管楽器の運動性能の高さ、金管楽器のダイナミックレンジの広さを兼ね備えている。新しい楽器の恩恵として、洗練された運指、発音の容易さは他の吹奏楽器に類がない。

ジョン・コルトレーン(1926~1967)

フリー・ジャズ期 1965年6月、コルトレーンはアルバム『アセンション』を発表し、初めてフリー・ジャズに取り組む。コルトレーンはこの時期、マイルスと並んでジャズの指導者的立場にいたが、そのような人物がフリー・ジャズを支持したことは、それまでフリー・ジャズの音楽的意義を理解せず、価値を認めようとしなかった保守的ジャズ・ファンに大きな衝撃を与えた。同時期にコルトレーンはバンドにテナー・サックス奏者のファラオ・サンダースを加入させ、静のコルトレーンに対して動のサンダースという構図を作り出した。なお、コルトレーンのフリー・ジャズは、激烈さの中に静謐さが同居するもので、瞑想的と表現されることが多い。

ニコラウス5世(1397~1455)

ルネサンス教皇 1449年、バーゼルに残留する公会議主義者らを解散させ、対立教皇フェリクス5世を廃位させた。1450年の聖年には余りに多くの巡礼者が押し寄せたため、宿に泊まれず凍死するものや、疫病の蔓延、サンタンジェロ橋で多数の圧死者が出るなど悲惨な光景もみられた。今後の事故を防止するため、橋周辺の密集した家屋は撤去され、サンタンジェロ広場が造られた。在位中の1453年、オスマン帝国の攻撃によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。

ゲオルギイ・グルジエフ(1866~1949)

グルジエフの思想~「センター」~ 頭、心、体という三区分に対応した頭のセンター、心のセンター、体のセンターの三者を「三つのセンター」という。このうち体のセンターだけを三つに分けて見た場合、「五つのセンター」という見方となる。さらに「高次思考センター」と「高次感情センター」を加えると「七つのセンター」という見方になる。これらの見方の間に矛盾はないが、言葉の用法上の問題もあり、ウスペンスキーによる初期の叙述の時点で大きな混乱が生じている。

シュリ・プリュドム(1839~1907)

壊れた花瓶 枯れかけたクマツヅラの花瓶に扇が触れてひびが入った。あまりにかすかに触れたので音ひとつ聞こえなかった。けれどもそのかすかな傷が日ごとにガラスを蝕み目には見えない確かな歩みでゆっくりと花瓶を一周した。きれいな水が一滴ずつこぼれ花がからからになってもまだ誰もそれに気づかない。触れないで割れた花瓶に!同じように愛する人の手もしばしば心に触れて傷つける。ほどなく心はおのずから崩れ愛の花は枯れてしまう。周りからは無傷に見えても低い泣き声を上げながら繊細で深い傷は広がっていく。割れた心に触れないで!

鶴見俊輔(1922~2015)

海軍軍属 1942年8月、米国から帰国の翌日、自主的に麻布区役所に出頭し、4日後の徴兵検査で第2乙種合格。陸軍に召集されるのを避けるため、海軍軍属にドイツ語通訳として志願し、1943年2月にドイツの封鎖突破船でジャワ島に赴任、ジャカルタの在勤海軍武官府に2年間勤務し、主に連合国のラジオ放送を聴いて情報をまとめ、部外秘の新聞を作成する業務に従事した。カリエスが悪化し、ジャワ島・チキニの海軍病院で2度手術を受けた後、シンガポールの輸送船団、通信隊での勤務を経て、1944年12月初に練習巡洋艦「香椎」で日本に帰還。帰国後、体調が回復したため、1945年4月から慶応義塾大学日吉校舎に置かれていた海軍軍令部に勤務し、翻訳業務に従事。同年7月に結核性腹膜炎のため辞職し、熱海で療養中に敗戦を迎えた。

フェルナンド1世(1345~1383)

美男王 1381年、再びジョン・オブ・ゴーントと同盟を結び、カスティーリャへ侵攻したが、再びカスティーリャ軍に侵入された上、同年にサルテスの海戦でも敗北した。この時の講和で、最初の王妃を亡くしていたカスティーリャ王フアン1世の後添えとして、レオノール王妃との間の王女ベアトリスが嫁ぐことに同意した。王にはベアトリス王女の他に嫡子がいなかったため、契約が両国間で取り交わされた。

ロナルド・ウィリアム・ミラー(1933~2019)

タッチストーン・ピクチャーズ タッチストーン・ピクチャーズは、ウォルト・ディズニー・カンパニーの映画部門の1つである。1984年に当時のディズニー社のCEOであったロナルド・ウィリアム・ミラーが設立した。ディズニーの中では主に大人向けの実写映画を製作している。1979年にディズニーが製作した『ブラックホール』は、ディズニー映画としては初めてPG指定を受けた。1984年、ロナルド・ウィリアム・ミラーはPG指定を受けるような大人向けのディズニー映画を作るための部門としてタッチストーン・ピクチャーズの前身であるタッチストーン・フィルム社を設立する。

ハリー・ワーナー(1881~1958)

ワーナー・ブラザース~創業期~ ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟はポーランドからの東欧系ユダヤ人移民労働者であった。19世紀末に両親とともにドイツ・ハンブルクを経て、アメリカ大陸に渡りカナダのオンタリオ州ロンドンに移住し、全部で8人の兄弟姉妹が貧困の中で父の経営する靴修理屋を手伝いながら生活していた。

ルーダキー(850~940)

カリーラとディムナ インドのある地に、シャトラバという牛がいた。彼は人間の主人に飼われていて、農作業や牛車引きをするのが仕事だった。ある日、牛車を引いて主人を運んでいたシャトラバは泥道に足を取られ動けなくなった。主人はシャトラバの事を召使に託して先に行ってしまい、召使はシャトラバを助けようと試みるも力及ばず、シャトラバを見捨てて帰り、主人にはシャトラバが死んだと嘘をついたのだった。シャトラバは自力で泥から抜け出ると、彼の生まれ故郷でった豊穣たる草原に行って暮らし始めたが、同胞のいない草原には話し相手がおらず、あまりの寂しさに大きく鳴声を上げるのだった。その声は、草原のライオンキングの宮殿まで届いた。ライオンキングは初めて聞く牛の鳴声に大いに動揺した。

レオポルド・ストコフスキー(1882~1977)

演奏スタイル ストコフスキーは、16世紀ルネサンス音楽から前述の20世紀音楽に到る極めて幅広いレパートリーを手中に収めており、どんな曲でも常に新鮮で刺激のある演奏をした。ストコフスキーはオーケストラを操る達人であり、指揮棒を使わずに指揮を行い、表情豊かな音楽を引き出した。楽曲をより分かり易く、効果的に響かせるために楽曲の改変をも辞さず、批評家をしばしば敵に回したが、その生命力あふれる独創的な解釈と、「ストコフスキー・サウンド」と呼ばれた華麗な音色で、聴衆の圧倒的な人気を得た。「音の魔術師」の異名はこの独特の演奏手法に由来する。

大川栄二(1924~2008)

大川美術館 大川栄二が40年をかけて収集した作品約6500点を収蔵。既存の美術史にとらわれず、松本竣介、野田英夫の作品を中心に、二人と交友のあった画家、もしくは影響を受けた、あるいは影響を受けたと考えられる画家たちの作品を収集・展示。大川独自の企画による企画展も多数開催した。

ユウェナリス(60~128)

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」 そもそも『風刺詩集』第10編は、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒めている詩である。ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」と語っており、これが大本の出典である。

メディアのハルパゴス(生没年不詳)

メディア王への復讐 ハルパゴスはその後もアステュアゲスに忠実に仕えたが、その裏で成人してメディアに従属するアンシャンの王になっていたキュロスに近づいたり、メディアの重臣たちにキュロスを擁立するよう根回しをするなどの工作を行い、準備が整うとキュロスにアステュアゲスに反乱を起こすよう勧めた。そして、キュロスは紀元前552年にメディアに反乱を起こした。この時、アステュアゲスはハルパゴスをキュロス討伐軍の総司令官に任命したが、キュロス率いるペルシア軍と交戦するや否や、ハルパゴスはメディアを裏切ってキュロスを勝たせ、最終的にキュロスはメディアを滅ぼした。敗れて捕えられたアステュアゲスの元にやって来たハルパゴスは、アステュアゲスを散々罵り、宴会でのことに触れ、王から奴隷になり下がるのはどんな気分かと尋ねた。アステュアゲスはその問いかけには答えずにハルパゴスの行いを非難した。