イベリア進出の挫折
輝かしい戦勝の後、1339年にナスル朝のユースフ1世から、カスティーリャ王国撃退の援軍を要請される。モロッコから押し寄せた多数のマリーン朝軍は、カスティーリャ王アルフォンソ11世に敵対していたポルトガル王アフォンソ4世との和解を決断させるほどの脅威だった。1339年にアルカンタラ騎士団、サンティアゴ騎士団とナスル朝、マリーン朝双方の間で小規模の小競り合いが起きるにとどまるかが、翌年に事態が進展する。1340年4月、提督アロンソ・ジョフレ・テノーリオ指揮下のカスティーリャ艦隊がマリーン朝の艦隊を撃破するべくセウタから出撃した。ムハンマド・イブン・アリー・アル=アザフィー指揮下のマリーン朝艦隊はカスティーリャの船団を迎撃、4月5日のジブラルタル近海で海戦が行われた。結果はマリーン朝の勝利に終わり、テノーリオは戦死、無事に退却できたカスティリャの艦船は5隻だけだった。同年8月14日、海上からの脅威が消えた後に海峡の向こうのアルヘシラスに軍隊と輜重を送り、自らも大軍を率いてイベリア半島に上陸した。翌月にユースフ1世が率いるグラナダの軍と合流し、タリファの包囲に取り掛かった。
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