サーサーン朝ペルシアとの戦争
当初イベリア王国はサーサーン朝に従属していたが、度重なる侵略に憤慨したヴァフタング1世はペルシア王女のバレンドゥフトと離婚した。その後王権強化を試みたヴァフタング1世は東ローマ帝国皇帝のゼノンの娘とされるヘレーナと再婚し、見事コンスタンティノープルからイベリア王国教会長に任命され、ムツヘタで監督を担った。親ローマ政策を進めていくヴァフタング1世であったが、482年ついにイランとの亀裂が深まった決定的な事件が起きた。ヴァフタング1世は側近の家臣であるヴァルスケンとビダクシュを、ゾロアスター教に改宗し彼らのキリスト教徒の妻のシュシャニクを殺害したとして極刑にしたのである。このヴァフタング1世の行いがサーサーン朝の逆鱗に触れてしまい彼はサーサーン朝と対立することとなった。そこでヴァフタング1世はアルメニアの王子とフン人に同盟を要請し、反ペルシャ反乱を指揮した。483年と484年にサーサーン朝がイベリア王国へ略奪をしに遠征に行くも、サーサーン朝のペーローズは484年に戦死し、コーカサスに平和が訪れた。イベリア王国の勝利へと終わるとヴァフタング1世は王を改めて宣言した。サーサーン朝に勝利したヴァフタング1世は、すでにイラン人の建てた集落に新たにティフリスという街を創設した。これが現在のトビリシであり、ティフリスはヴァフタング1世の遺言に従った息子のダチによって、後にムツヘタから遷都されイベリア王国の首都となる。
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