平和運動 ポーリングは元々政治には殆ど無かったが、第二次世界大戦が起きると彼の生き方は大きく変わり、平和活動家になった。マンハッタン計画が始まって間もない間、ロバート・オッペンハイマーから計画の化学部門に招聘を受けたが、ポーリングは平和主義者であることを理由に辞退した。1946年、アルベルト・アインシュタインが議長を務める「原子力科学者による非常委員会」に出席した。この委員会の任務は、核兵器の開発に付随する危険性を一般社会に警告することだった。ポーリングの平和活動は、1950年にマッカーシズムの攻撃対象となり、上院議会の教育調査委員会に証人として召喚された。彼は事前の記者会見で共産主義者でないことを宣言したうえで委員会では証言を拒否した。しかし1952年には国務省が彼のパスポートを差し押さえた事件が起こった。同年、彼が招かれたロンドンの科学会議で講演をする予定だった。パスポートは1954年、ストックホルムで彼が初めてノーベル賞を受賞した授賞式の直前に返還された。1955年、アインシュタインやバートランド・ラッセルら第一級の科学者や知識人が参加する中、ポーリングはラッセル=アインシュタイン宣言に署名した。