武芸者
伊予国大洲藩主の加藤泰興は、備中国足守藩主の木下利当に槍術を学び、自ら槍の流派を開いたほどの武芸の達人であった。この加藤が宗和に、茶会の開催を依頼した。加藤は茶道の心得は無く、さほどの興味もなかったが、名高い宗和の茶道とは一体どれほどのものであるかを体験したく、加えてこの席上に武芸者から観てなんらかの隙があれば、それを指摘をしてやろうとすら意気込んで参加した。当日の宗和の席は加藤にとって僅かの綻びもなく、一切の隙も感じられなかった。帰宅した加藤は、確かに宗和は「名人」であったと語った。これが慈胤法親王の耳に届き、法親王は「そうであろう」と大変喜んだ。後陽成天皇の皇子であった慈胤法親王は宗和から茶の指導を受けていた弟子筋にあたり、法親王らが後に続く公家の茶を確立させていった。
伊予国大洲藩主の加藤泰興は、備中国足守藩主の木下利当に槍術を学び、自ら槍の流派を開いたほどの武芸の達人であった。この加藤が宗和に、茶会の開催を依頼した。加藤は茶道の心得は無く、さほどの興味もなかったが、名高い宗和の茶道とは一体どれほどのものであるかを体験したく、加えてこの席上に武芸者から観てなんらかの隙があれば、それを指摘をしてやろうとすら意気込んで参加した。当日の宗和の席は加藤にとって僅かの綻びもなく、一切の隙も感じられなかった。帰宅した加藤は、確かに宗和は「名人」であったと語った。これが慈胤法親王の耳に届き、法親王は「そうであろう」と大変喜んだ。後陽成天皇の皇子であった慈胤法親王は宗和から茶の指導を受けていた弟子筋にあたり、法親王らが後に続く公家の茶を確立させていった。
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