白河藩主時代 1865年、発言権を強めていた朝廷から14代将軍徳川家茂の上洛と攘夷決行が要請されたため、京都の攘夷派公家・浪士らの牽制として、阿部と本庄宗秀は2月5日に兵4000を率いて上洛し、22日に参内し朝廷との交渉にあたる。この上洛は軍事力を背景に朝廷を牽制、一会桑政権の解体を目論んだとされるが、朝廷の反感を買い、逆に関白二条斉敬に家茂が上洛しないことを叱責され、交渉後の24日に朝廷側の要請を一旦江戸に戻って家茂に仕えた。4月に上洛反対派の老中稲葉正邦・諏訪忠誠・牧野忠恭を同僚の松前崇広・水野忠精や大老酒井忠績と結託して失脚させ、5月16日の家茂3度目の上洛に随行、派兵を命じた白河藩兵も約1200人が陸路・海路に分かれて大坂城に集結した。