ガルトネル開墾条約事件
1869年7月8日に明治新政府により蝦夷地及び樺太の開拓を掌る開拓使が設置された。9月には蝦夷地は「北海道」に、箱館は「函館」にそれぞれ改称され、旧箱館府は、「開拓使出張所」と改称され本格業務も開始された。その中で、開拓使は本件を問題視し、東京の中央政府にもこの開墾条約の存在が知らされた。この契約が定められた居留地外の案件であることや、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、外務省は11月に開拓使へガルトネル条約の契約を破棄するように伝えた。その後、開拓長官となった東久世通禧とガルトネルとの厳しい交渉がおこなわれた結果、1870年11月に62,500両の賠償金を支払うことで契約を解消した。取り戻した土地には同月に開拓使により七重開墾場が設けられたが、その本格的な活用1873年以降のこととなる。
1869年7月8日に明治新政府により蝦夷地及び樺太の開拓を掌る開拓使が設置された。9月には蝦夷地は「北海道」に、箱館は「函館」にそれぞれ改称され、旧箱館府は、「開拓使出張所」と改称され本格業務も開始された。その中で、開拓使は本件を問題視し、東京の中央政府にもこの開墾条約の存在が知らされた。この契約が定められた居留地外の案件であることや、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、外務省は11月に開拓使へガルトネル条約の契約を破棄するように伝えた。その後、開拓長官となった東久世通禧とガルトネルとの厳しい交渉がおこなわれた結果、1870年11月に62,500両の賠償金を支払うことで契約を解消した。取り戻した土地には同月に開拓使により七重開墾場が設けられたが、その本格的な活用1873年以降のこととなる。
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