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徳川茂徳(1831~1884)

幕政への参与と一橋家相続 1865年4月、長州再征に際して幕府より征長総督就任の内命を受ける。慶勝側近らの猛反発を受け総督は紀州藩主・徳川茂承に変更されたものの、茂徳にも上京が命ぜられ、大坂城に滞在する家茂の側にあって幕政に参与する。同年閏5月、諱を茂栄に改める。同年6月、幕府より旗本御後備を命じられる。同年9月の兵庫開港要求事件とそれに続く条約勅許の過程においては、一橋家当主・徳川慶喜らとともに対応に奔走し、家茂の信頼を得る。同年10月、将軍不在の江戸にあって江戸留守居を命じられ、東上する。

ルクレティア・ガーフィールド(1832~1918)

夫の死後 ルクレティアはその後も政治に関わり、進歩的運動に参加した。亡き夫は共和党に属していたが、彼女は亡くなるまでに民主党に切り替えていた。米西戦争や第一次世界大戦へのアメリカの関与を強く支持した。また、夫の政治活動の記録の保存にも積極的に関わった。

河内源一郎(1883~1948)

近代焼酎の父~河内菌~ こののち1924年、顕微鏡で黒麹菌を覗いていると、中に白みがかったカビを発見。取り出して培養すると「泡盛黒麹菌」より性能が安定し、これを使うと焼酎の品質も一段と向上することが分かった。これを「河内白麹菌」と名づけ、「泡盛黒麹菌」の突然変異によって生じたもの、として学界に発表したが、当時の学者からは無視された。認知されたのは1948年、京都大学北原覚雄教授によって立証され学名をアスペルギウス・カワチ・キタハラと名付けられた時で、23年後の事だった。こうしてさらに飛躍的な品質向上をもたらす「河内白麹菌」の培養に成功したものの、地元鹿児島では「泡盛黒麹菌」に切り換えたことで焼酎製造が既に安定操業しており、河内白麹菌は採用されなかった。

ウォルター・クライスラー(1875~1940)

クライスラー クライスラーの歴史は、1925年にウォルター・クライスラーが設立したクライスラーコーポレーションは、永年、自動車産業のビッグスリーと賞賛されたが、アメリカの金融危機を発端とした世界的な不況の影響から2009年4月30日に連邦倒産法第11章の適用申請を行うに至る。同年6月10日法的手続きが完了。約1か月というスピードで再建し、その後フィアットの傘下に入った。

今井兼平(1152~1184)

木曽殿最期 『平家物語』の「木曽殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。また、この場面の兼平の矛盾した言い方や、「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕にして候なり。」の武士たる心構えを伝える言に、その情況に応じての、兼平の義仲への苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。

ポール・アレン(1953~2018)

慈善活動 マイクロソフト退社後は慈善事業に参入し、1986年に慈善団体のポール・ガードナー・アレン一族財団を創設した。以来毎年3000万米ドルを太平洋岸北西地域の民間非営利組織に分配している。2003年9月には私財1億米ドルを投じてアレン脳科学研究所を設立し、マウス脳遺伝子発現マップ作成プロジェクト Allen Brain Atlas を開始した。2004年に Ansari X Prize を受賞した有人宇宙船 Space Ship One にも出資した。ハナアブの一種であるポールアレンハナアブは、双翅目学に対する貢献から彼に献名されたものである。

勝新太郎(1931~1997)

勝プロ時代 1967年に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す。この時期、大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、三船敏郎の三船プロ、石原裕次郎の石原プロ、中村錦之助の中村プロなど映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた。

アッシャー・ブラウン・デュランド(1796~1886)

気の合う者

仲條正義(1933~2021)

かるた絵

ル・コルビュジェ(1887~1965)

輝く都市 ル・コルビュジェは、人口過密で環境の悪化する近代都市を批判し、300万人の現代都市、パリのヴォアザン計画、輝く都市などの計画案を発表した。1933年にCIAMで採択された「アテネ憲章」は、輝く都市の理念に沿ったものであった。

四家文子(1906~1981)

銀座の柳 植えてうれしい銀座の柳江戸の名残りのうすみどり吹けよ春風紅傘日傘今日もくるくる人通り巴里のマロニエ銀座の柳西と東の恋の宿誰を待つやらあの子の肩を撫でてやさしい糸柳恋はくれない柳は緑染める緑の春模様銀座うれしや柳が招くまねく昭和の人通り

ウィリアム・ヘイス(1837~1907)

冬の星座 木枯らしとだえてさゆる空より地上に降りしく奇しき光よものみないこえるしじまの中にきらめき揺れつつ星座はめぐるほのぼの明かりて流るる銀河オリオン舞い立ちスバルはざわめく無窮をゆびさす北斗の針ときらめき揺れつつ星座はめぐる無窮をゆびさす北斗の針ときらめき揺れつつ星座はめぐる

堀内敬三(1897~1983)

若き血 若き血に燃ゆる者光輝満てる我等希望の明星仰ぎて此処に勝利に進む我が力常に新し見よ精鋭の集う処烈日の意気高らかに遮る雲なきを慶應慶應陸の王者慶應

ビング・クロスビー(1903~1977)

「クリスマスソングの王様」 なお、歌手として1940年以降、13曲の全米No.1ヒットを持つ。「ホワイト・クリスマス」や「星にスイング」、「サイレント・ナイト」などの数々のヒット曲を世に出したこともあり、生涯のレコード売上は4億枚を超えるという。第二次世界大戦中の1942年に発売され、リメイク版を含めて全世界で4千500万枚を超える大ヒットとなった「ホワイト・クリスマス」が有名。なお、この曲は発売以降ビルボードで14週間1位を記録した。クロスビーは他にも多くのクリスマスソングを歌っており、「クリスマスソングの王様」とも呼ばれている。

岩橋英遠(1903~1999)

庭石  

ベルナール・ギー(1261~1331)

異端審問官時代 1307年に異端審問官に任命される。1308年3月に自身初の異端審問を行う。1323年6月に最後の判決を出し、異端審問官の任を終えた。1692年にフィリップ・リンボルクが公刊した『トゥールーズ判決集』によれば、ギーは生涯で907人に対し判決を下した。その内で刑罰は、巡礼が17、十字架着用136、火刑41、生きていれば終身刑17、生きていれば火刑3、死骸の焼き棄て52、死骸の焼き棄て及び家屋の破壊14、掘り出されたまま3、不在において有罪宣告40、十字軍への参加1その他1である。刑罰の減刑は十字架を外す許可135、牢獄からの釈放及び十字架着用139である。投獄に関しては、「狭き壁」と「緩やかな壁」の2種類があり、狭き壁の判決が31、緩やかな壁の判決が268、緩やかな壁及び家屋の破壊の判決は8である。ギーは、自身の異端審問官としてのキャリアの終わりごろの1323年頃に、『異端審問の実務』という本を書いた。

奈良原三次(1877~1944)

奈良原式2号飛行機 1911年初頭、奈良原三次は地上滑走のみに終わった奈良原式1号飛行機に続いて、東京飛行機製作所で奈良原式2号飛行機の制作に着手した。完成した奈良原式2号機は同年5月5日に所沢飛行場で初飛行を行い、高度約4m、飛距離約60mを記録したが、着陸時に着陸脚とプロペラを破損した。その後も試験飛行や練習飛行を行い、奈良原のほかに白戸栄之助、今村梅次郎、後藤銀次郎、斉藤某訓練生が奈良原式2号による単独飛行を行った。

ステファン・ハーディング(1060~1134)

業績~聖書~ ステファン・ハーディングは当時利用されていた聖書についてその原点を厳格に追い求めた。ここで彼が目指した原点とはヒエロニムスのウルガータのことで、聖書の写本を各地から収集・比較し、その中に異同のあることを発見し、ヘブライ語やアラム語の原典も参照しつつ聖書の誤りを改めた。必要とあらばユダヤ人のラビにも意見を聞いたという。

田捨女(1634~1698)

田捨女の俳句 雪の朝二の字の二の字の下駄の跡 梅がえはおもふきさまのかほり哉 月や空にゐよげに見ゆる簾越

ウィリアム・ギブスン(1914~2008)

奇跡の人 『奇跡の人』アニー・サリバンを描いた、ウィリアム・ギブソンによる戯曲。アン・バンクロフトとパティ・デュークが演じて1959年に初演された。この『奇跡の人』はアン・サリヴァンの記録をもとに書かれたものであるが、有名な井戸水を手にかけて「ウォーター」という言葉を理解し発した、というエピソードはこの戯曲における創作である。

服部富子(1917~1981)

満州娘 私十六満州娘春よ三月雪解けに迎春花が咲いたならお嫁に行きます隣村王さん待ってて頂戴ネ銅鑼や太鼓に送られながら花の馬車に揺られてる恥かしいやら嬉しいやらお嫁に行く日の夢ばかり王さん待ってて頂戴ネ雪よ氷よ冷たい風は北のロシアで吹けば良い晴衣も母と縫うて待つ満州の春よ飛んで来い王さん待ってて頂戴ネ

ギヨーム・アポリネール(1880~1918)

若きドン・ジュリアンの冒険 田舎の別荘に母や2人の姉たちとともに夏の休暇を過ごしにやってきた13歳のロジェは、浴室でメイドたちに体を洗ってもらう結構なご身分であったが、ある日若くて美しい叔母にそうしてもらっている最中に、不意に初めての勃起を経験する。森の中で使用人の男女があけっぴろげに繰り広げる遊戯を垣間見、また屋敷の図書室で百科事典などの文献を読みふけった彼は、自分の体に生じ始めた変化の意味を理解する。

関種子(1907~1990)

雨に咲く花 およばぬこととあきらめましただけど恋しいあの人よままになるなら今一度ひと目だけでも逢いたいの別れた人を想えば悲し呼んでみたとて遠い空雨に打たれて咲いている花が私の恋かしらはかない夢にすぎないけれど忘れられないあの人よ窓に涙のセレナーデ一人泣くのよむせぶのよ

ヨハン・ネポムク・メルツェル(1772~1838)

生涯と作品 1813年、メルツェルとベートーヴェンはよく知った間柄となっていた。メルツェルは『ウェリントンの勝利』を着想して音楽の概形を描き、そこへベートーヴェンがメルツェルの「機械仕掛けのオーケストラ」であるパンハルモニコンによって演奏できるように曲を書いた。2人は何度かコンサートも開催し、そこではベートーヴェンの交響曲がメルツェルのオートマタ演奏に散りばめられた。1814年にベートーヴェンは調書を書き、メルツェルに騙し取られた、この音楽の所有権を主張され、不正確な編曲で不法に曲を演奏されたと主張した。ベートーヴェンはこの調書の中で、メルツェルについて「無礼で粗野な男、教育や教養というものを全く持ち合わせていない」と評している。

永山弥一郎(1838~1877)

西南戦争 1877年、中原尚雄の西郷刺殺計画を谷口登太から聞いた高城七之丞の会合に弥一郎も同席し、憤激したが、出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京については反対の態度をとる。弥一郎の言い分は「政府の陸海軍は整備に入ったばかりで、今兵を挙げれば再び国内に内乱を引き起こす危険性がある。それよりも将来起こるであろう外国との諍いの為に今は備えるべきであり、政府への非を問い質すのであれば西郷・桐野・篠原の三将が数名の供をつれて上京し政府に直に問罪すれば十分」というようなものであった。しかし、西郷の身を案ずる意見が強く、また弥一郎も西郷の上京における身の安全を保障するための策を持ち合わせていなかったため、この言い分は退けられた。結果として西郷の率兵上京が決定されたが、弥一郎は反対の意思を崩さず、出兵に応じなかった。これに対し最初、辺見十郎太が説得したが不調に終わり、仲が良かった桐野の熱心な説得で漸く同意した。結果、弥一郎は三番大隊指揮長となって、10箇小隊約2,000名を率いた。

ウィリアム・キャヴェンディッシュ(1720~1764)

アイルランド総督として 1754年にヘンリー・ペラムが死去するとその兄にある初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズを支持したため、1755年3月に初代ドーセット公爵ライオネル・サックヴィルの後任としてアイルランド総督を務めるようニューカッスル公爵から任じられた。この任命について、父にあたる第3代デヴォンシャー公爵がアイルランド総督として人気があったこと、ハーティントン侯爵が結婚によりアイルランドで広大な領地を持つようになったこと、アイルランドの有力者と姻戚関係にあったことにより、オックスフォード英国人名事典は適切な任命であると評価している。同年、父の死により第4代デヴォンシャー公爵となる。

鮫島尚信(1845~1880)

旧薩摩藩士 ハリスは王政復古後の日本政府で働くことを勧めたので鮫島は森有礼ともに帰国することとし、翌1868年、両名は日本に到着した。長沢鼎のみは、アメリカに残り、ブドウ栽培に携わった。同年10月、外国官兼判事、東京府判事などを経て、翌年7月に東京府権大参事となり、1870年8月に外務大丞、同年の欧州差遣、小弁務使を経て、1871年にロンドンに着任した。1872年、中弁務使に進んだのちパリに着任し、弁理公使、特命全権公使と昇進した。この間、お雇い外国人のフレデリック・マーシャルとともに若い日本の外交官向けに『Diplomatic Guide』を作成した。1874年4月、帰国。翌年に外務省の次官である外務大輔となった。

スペンサー・キャヴェンディッシュ(1833~1908)

自由党党首として 1874年2月に行われた解散総選挙に敗れたグラッドストン自由党政権は、総辞職した。政界引退を決意していたグラッドストンは1875年1月にも自由党党首・自由党庶民院院内総務職をハーティントン侯に譲った。しかしその後もグラッドストンは党に大きな影響力を及ぼし続け、バルカン半島でキリスト教徒虐殺を行うトルコへの反対運動を主導した。ハーティントン侯は反トルコ運動に消極的であったものの、グラッドストンには忠実に行動し、全自由党議員にグラッドストンが提出したトルコ批判決議に賛成票を投じさせた。

佐藤千夜子(1897~1968)

東京行進曲 昔恋しい銀座の柳仇な年増を誰が知ろジャズで踊ってリキュルで更けて明けりゃダンサーの涙雨恋の丸ビルあの窓あたり泣いて文書く人もあるラッシュアワーに拾った薔薇をせめてあの娘の思い出にひろい東京恋ゆえ狭い粋な浅草忍び逢いあなた地下鉄わたしはバスよ恋のストップままならぬシネマ見ましょかお茶のみましょかいっそ小田急で逃げましょかかわる新宿あの武蔵野の月もデパートの屋根に出る

アンドレ・モーロワ(1885~1967)

デブの国ノッポの国 デブ人とノッポ人にわかれ、変な名前の人たちが住む地下の国にまよいこんだ二人の兄弟は、戦争にまきこまれながら、さあ大変!

渡辺光子(1906~2003)

幌馬車の唄 夕に遠く木の葉散る並木の道をほろぼろと君が幌馬車見送りし去年の別離がとこしえよ想い出多き丘の上で遥けき国の空眺め夢と煙れる一と年の心無き日に涙湧く轍の音もなつかしく並木の道をほろぼろと馬の嘶き木魂にして遥か彼方に消えて行く

リン・マーギュリス(1938~2011)

共生進化論 マーギュリスは、ネオダーウィニズムに代表される適者生存、すなわち強い種が生き残っていくという進化の原則に真っ向から反対する立場をとる。競争ではなく、共生こそ進化の原動力であり、重要なプロセスであると主張した。

林伊佐緒(1912~1995)

恋の幌馬車 走れ幌馬車急げ幌馬車ヤッホーホーイ望む地平のちらちら灯りかわいいあの娘が住んでる町さ燃える唇輝く瞳咲いた南のシャボテン娘恋は一筋パンパス越えて通う俺らは夢心地ヤッホーホーイ夢心地赤い月さえほのぼのかすむかわいいあの娘に逢いたい宵さ甘いメロディーとろける歌で開く小窓のシャボテン娘恋は一筋ギターを抱いて通う俺らは夢心地ヤッホーホーイ夢心地はずむわだちに飛ぶ飛ぶ思いかわいあの娘もさぞ待つだろさとげがあるなら刺されてみたい男殺しのシャボテン娘恋は一筋きのうもきょうも通う俺らは夢心地ヤッホーホーイ夢心地

ジェームズ・ラブロック(1919~2022)

論争~ガイア~ ガイア理論は環境主義からは広く受け入れられたが、科学界全体には完全に受け入れられたわけではない。批評者の中でもリチャード・ドーキンスとフォード・ドゥーリトルが有名である。批評者が指摘するのは自然選択説が個体に関するものであって、惑星規模の恒常性にそれを適用できるかどうか不明であるという点である。それに対してラブロックは、デイジーワールドのようなモデルで個体レベルの効果が惑星規模の生態系に変換される様子を描いた。しかし、地球システム科学は揺籃期にあり、デイジーワールドのモデルが地球の生物圏と気候の複雑さにどう当てはまるかはまだ不明確である。