西南戦争
1877年、中原尚雄の西郷刺殺計画を谷口登太から聞いた高城七之丞の会合に弥一郎も同席し、憤激したが、出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京については反対の態度をとる。弥一郎の言い分は「政府の陸海軍は整備に入ったばかりで、今兵を挙げれば再び国内に内乱を引き起こす危険性がある。それよりも将来起こるであろう外国との諍いの為に今は備えるべきであり、政府への非を問い質すのであれば西郷・桐野・篠原の三将が数名の供をつれて上京し政府に直に問罪すれば十分」というようなものであった。しかし、西郷の身を案ずる意見が強く、また弥一郎も西郷の上京における身の安全を保障するための策を持ち合わせていなかったため、この言い分は退けられた。結果として西郷の率兵上京が決定されたが、弥一郎は反対の意思を崩さず、出兵に応じなかった。これに対し最初、辺見十郎太が説得したが不調に終わり、仲が良かった桐野の熱心な説得で漸く同意した。結果、弥一郎は三番大隊指揮長となって、10箇小隊約2,000名を率いた。
コメント
コメントを投稿