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藤原隆家(979~1044)

刀伊の入寇~高麗沿岸への襲撃~ 藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという。しかし賊は高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された。

ギュルヌシュ・スルタン(1642~1715)

母后として 1695年に息子のムスタファがムスタファ2世として即位するとギュルヌシュはヴァリデとなった。ムスタファ2世がエディルネで多くの時間を過ごしたのと同様にギュルヌシュもエディルネで過ごした。アフメト3世の即位後はイスタンブールに戻った。ムスタファ2世、アフメト3世と続けて母后になったにも関わらず政治的な影響力はほとんど無かったが、1711年にアフメト3世がロシアとの戦争を始めた時、ギュルヌシュはカール12世を気にかけたとされ息子にロシアと開戦するよう促したという。

萬屋錦之介(1932~1997)

ドラマに進出、舞台復帰 昭和30年代後半からテレビに人気を奪われ始めた映画産業の斜陽化に合わせて、錦之助はテレビドラマへの進出を図る。1965年に東映京都撮影所に東映俳優労働組合が結成されると、後輩たちから打診されて委員長に就任した。しかし、翌1966年に東映内部の労働争議を収拾できなかったこともあり東映を退社。1968年に「中村プロダクション」を設立して独立し、本格的にテレビ時代劇の世界に進出した。この頃の出演ドラマとして、『子連れ狼』や『破れ傘刀舟悪人狩り』、『破れ奉行』、『長崎犯科帳』、『破れ新九郎』等がある。

ジェニー・リンド(1820~1887)

アメリカツアー 1849年、アメリカ人の興行主フィニアス・テイラー・バーナムがリンドに対し、アメリカ中を一年以上にわたって巡る演奏旅行の提案を持ちかけた。リンドはこのツアーを行うことで彼女が力を入れている慈善事業、特に祖国スウェーデンのフリースクールへの大規模な寄付が可能であることに気付き、提案を受け入れた。彼女の財政的な要求は厳密なものであったが、バーナムはこれに応えたため1850年に両者は合意に達した。

相沢三郎(1889~1936)

相沢事件 1935年7月15日に真崎甚三郎が教育総監を更迭された。これに不満を持った真崎は自身の鋼鉄の経緯を文書にして皇道派青年将校に配布した。これを読んだ相沢は憤激し、永田鉄山軍務局長が陰謀の首魁であると考え、上京し永田に面会を求め辞任を勧告したが、逆に諭され満足して福山へ戻った。この頃、相沢は常軌を逸した振る舞いが目立ったため、定期異動において同年8月1日、台湾歩兵第1連隊付で台北高等商業学校配属将校となった。同年8月12日に千駄ヶ谷の西田税宅に一泊した後、陸軍省の山岡重厚整備局長に異動の挨拶をおこなったその足で永田鉄山軍務局長を訪れ、斬撃と刺突を加えて殺害した。

リチャード・ネヴィル(1400~1460)

スコットランド国境防衛 ヘンリー4世の即位を支援していたパーシー家は、1399年のヘンリー4世の即位に伴って、西部国境はノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーに、東部国境はその息子のヘンリー・パーシーがそれぞれ警備責任者になった。しかし後にホットスパーは反乱を起こして1403年に戦死、父も反逆罪の共謀として捕らえられた。その逮捕を国王に命じられたのがリチャードの父ラルフ・ネヴィルであり、その褒美としてパーシー家の後任として東西両方の国境警備責任者の職を与えられた。

岡田茂(1924~2011)

課長昇進 - 撮影所長へ 当時のNHKのラジオドラマで人気だった『新諸国物語』の冒険活劇を題材に中村錦之助、大友柳太郎主演の『笛吹童子』シリーズ、東千代之介主演の『里見八犬伝』シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、山口組の田岡一雄組長がマネージメントをし、松竹映画に出演していた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した。1956年には年間配給収入でトップとなった。

スコット・オデール(1898~1989)

黄金の七つの都市~太陽の子エステバン~ 16世紀、マゼラン隊の世界一周から10年後。スペインのバルセロナで育った少年エステバンは、10年前に彼を難破船から救った航海士メンドーサの誘いで、その時行方不明になった父の手掛かりでもある黄金都市を探しに新大陸へ旅立つ。自分と同じペンダントを持つインカの少女シアやムー大陸文明の英知を受け継ぐ少年タオと出会い、共に旅を続けるが、彼らは黄金を狙って先住民を蹂躙するスペイン人や、黄金都市の真の宝であるムーの「大いなる遺産」を狙うオルメカ人の陰謀と闘うことになる。

桑原隲蔵(1871~1931)

業績 東洋史教育の創成に尽力、東西交渉史等の分野で優れた業績を残した。清国留学中に一次資料を写真に記録、帰国後、京都帝国大学に赴任すると内藤湖南・狩野直喜とともに京都派東洋史学を確立。清朝考証学の伝統と西洋の文献学的方法を総合し、中国史・東西交渉史に優れた業績を残した。なかでも「大苑国の貴山城に就いて」では西域の歴史・地理について、白鳥庫吉や藤田豊八らと論争を展開した。主な弟子に宮崎市定らがいる。

ルートヴィヒ・エアハルト(1897~1977)

1945年以降の政治的活躍~首相~ アデナウアーが1963年10月15日に辞任した後の10月16日、エアハルトは首相に選出される。彼は1957年以降副首相を務めており、さらに選挙時における強さから、常に所属してはいなかったものの、CDU会派の人気議員であった。しかしアデナウアーを始めとする多くは、エアハルトの首相としての資質を疑っており、したがって彼の首相就任は、1965年の下院選挙を勝つための暫定的解決策として多数派の支持を得たのだった。

上島鬼貫(1661~1738)

鬼貫の俳句 山里や井戸のはたなる梅の花 鳥はまだ口もほどけず初ざくら あふみにもたつや湖水の春霞 雨だれや暁がたに帰る雁 谷水や石も歌詠む山桜 春と夏と手さへ行きかふ更衣 なでしこよ河原に石のやけるまで 夏の星影なつかしもくれかかる 雲の峰なんぼ嵐の崩しても さはさはと蓮うごかす池の亀 行水の捨てどころなし虫の声 にょっぽりと秋の空なる不二の山 古城や茨くろなるきりぎりす そよりともせいで秋たつことかいの 夢返せ烏の覚ます霧の月 つくづくともののはじまる火燵哉 おとなしき時雨をきくや高野山 重ね着に寒さもしらぬ姿かな 灯の花に春まつ庵かな 我宿の春は来にけり具足餅

ウド・ユルゲンス(1934~2014)

夕映えの二人 1971年10月に発表され翌1972年に大ヒットした、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」は、ユルゲンスの「夕映えの二人」がオリジナルである。「夕映えの二人」のシングルは文化放送「オール・ジャパン・ポップ20」で1972年3月13日に最高位15位を記録した。原題の意味は「僕が君に伝えたいこと」であり、「それはピアノが伝えてくれる」という内容の詞。

芝不器男(1903~1930)

不器男の俳句 一片のパセリ掃かるる暖炉かな 風鈴の空は荒星ばかりかな 凩や倒れざまにも三つ星座 下萌のいたくふまれて御開帳 川淀や夕づきがたき楓の芽 沈む日のたまゆら青し落穂狩 巣鴨や春日に出ては翔ちもどり 浸りゐりて水馴れぬ葛やけさの秋 筆始歌仙ひそめくけしきかな 船室に捩ぢたる鋲や秋灯 夜長屋窓うつりしてきらびやか まのあたり天降りし蝶や桜草 山川の砂焦がしたるどんどかな 枯木宿はたして犬に吠えられし 冬ごもり未だにわれぬ松の瘤 蘖に杣が薪棚荒れにけり 前山の吹きどよみ霞かな 草市や夜雨となりし地の匂ひ 枝つづきて青空に入る枯木かな 月雲をいづれば燃ゆる蚊遣かな にごり江を鎖す水泡や雲の峰 白藤や揺りやみしかば薄みどり 永き日のにはとり柵を越えにけり 麦車馬におくれて動き出づ 向日葵の蘂を見るとき海消えし あなたなる夜雨の葛のあなたかな 卒業の兄と来てゐる堤かな

フィリップ・シドニー(1554~1586)

詩の弁護 この詩論の中でシドニーは、多くの古典詩・イタリア語詩のフィクションの指針を集大成した。シドニーの弁明の主旨は、歴史の生々しさと哲学の倫理学的関心を結合させることによって、詩は歴史・哲学のどちらか以上に、読者に徳を目覚めさせるうえで効果的だというものだった。さらにこの本はエドマンド・スペンサーとエリザベス朝演劇についても重要なコメントを提供している。

逸見政孝(1945~1993)

フリー転身後 1987年に勤続20年を迎えた逸見は、管理職に昇格したことにより、『スーパータイム』以外の番組への出演機会が徐々に減少。「生涯、―アナウンサーでありたい」との思いが強くなり、同年11月に退職願を提出。翌1988年3月末を以って、アナウンス部副部長待遇を最後にフジテレビを円満退職。三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」を設立し、フリーへ転身。

ハインリヒ・リュプケ(1894~1972)

不幸な連邦大統領 1959年7月1日、第2代連邦大統領に選出され、9月13日に就任した。本当はアデナウアーは自分の政権延命のためにライバルのルートヴィヒ・エアハルトを実権のない連邦大統領に祭り上げたかったが、拒絶されてリュプケに御鉢が回ってきたのだという。リュプケは1964年に再選され、合計2期10年を務めることになる。彼の在任中、とりわけ2期目には、演説などでの言い間違いや支離滅裂になることがしばしばあった。当時は原稿を見ないで喋ったためだと説明されていたが、のちに分ったことであるがこの頃すでに彼は脳梗塞の症状に侵されていた。当時この不幸に気付く者はおらず、彼の「言い間違い」を報じるためだけに多くのジャーナリストが外遊に同行した。

和島誠一(1909~1971)

和島誠一賞 文化財保存全国協議会が2000年に制定した和島誠一賞は、文化財の保護や活用・普及に貢献した個人および団体を表彰している。第1回受賞者・受賞団体は直木孝次郎と大分県文化財保存協議会。

エリザベッタ・ファルネーゼ(1692~1766)

四国同盟戦争 王には既に先妻マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイアとの間の王子たち、ルイスとフェルナンドがいたため、自分がこれから生む子供たちにスペイン王位と同等のイタリア君主の称号と領地を与えるのがエリザベッタの目標となった。彼女は精力旺盛に政治に介入、フランス軍がピレネー山脈を越えてきた際、彼女は自身でスペイン陸軍の一師団を指揮した。

小田仁二郎(1910~1979)

魔剣 1966年10月、芸文社から刊行された小田仁二郎の長編時代小説。装画・装幀は中込漢。

ジャン=マルタン・シャルコー(1825~1893)

シャルコーを題材とした作品 1885年のサルペトリエール病院を舞台に、シャルコーと患者の若い女性との恋愛関係を描いたフランス映画『博士と私の危険な関係』が2012年に公開された。日本では劇場公開されずにテレビ放送された。

高井鴻山(1806~1883)

  象と唐人図

ジェームズ・パーキンソン(1755~1824)

医学~パーキンソン病~ パーキンソンは、6症例の振戦麻痺に関して初めて系統的に記述した人物だ。彼が書いた『振戦麻痺に関するエッセイ』は、彼が診た患者3人と通りで見かけた3人の症状を報告したものだ。そして、彼が言及した振戦麻痺について、のちに彼の名前がその病名として名付けられたのだ。また、彼は安静時の振戦と、動作時の振戦とを見分けることを可能にした。それから60年の歳月を経て、フランスの医師であるジャン=マルタン・シャルコーが『パーキンソン病』を再発見した。パーキンソンは間違っていて、これらの患者の震えは、頸椎の病変によるものであることが分かった。

黒川紀章(1934~2007)

下田プリンスホテル  

カール・アドルフ・フォン・バセドウ(1799~1854)

バセドウ病 ロバート・ジェームス・グレーブスとカール・アドルフ・フォン・バセドウによって発見、報告された。かつては発見者のカール・フォン・バセドウにちなみ、バセドウ氏病とも呼ばれた。英語圏ではグレーブス病と呼ばれる。

高橋義孝(1913~1995)

ファウスト~第一部~ ファウストが悪魔メフィストと出会い、死後の魂の服従を交換条件に、現世で人生のあらゆる快楽や悲哀を体験させるという契約を交わす。ファウストは素朴な街娘グレートヒェンと恋をし、とうとう子供を身籠らせる。そして逢引の邪魔となる彼女の母親を毒殺し、彼女の兄をも決闘の末に殺す。そうして魔女の祭典「ワルプルギスの夜」に参加して帰ってくると、赤子殺しの罪で逮捕された彼女との悲しい別れが待っていた。

フリードリヒ・リュッケルト(1788~1866)

音楽への影響 リュッケルトの詩の数々は多くの作曲家を魅了し、リート史上最も作曲家から愛された詩人の一人である。最初に作曲した有名な作曲家はフランツ・シューベルトで、『君は憩い』、『僕の挨拶を』、『愛と美がここにあったことを』など5曲を作曲した。シューベルトがあと数年生きていたらリュッケルト歌曲の世界はもっと広がっていただろうと惜しまれている。

瀬戸内寂聴(1922~2021)

夏の終り 作家の瀬戸内寂聴が出家前の「瀬戸内晴美」時代に発表した小説で、自身の経験をもとに年上の男と年下の男との三角関係に苦悩する女性の姿を描いた作品。この作品に登場する年上の男の実在のモデルは作家の小田仁二郎であり、年下の男のモデルは、寂聴が女子大時代に見合いで結婚した結婚生活を破綻させることになった相手であり、そのときの夫の教え子であった。

ベルタ・ディ・サヴォイア(1051~1087)

離婚計画 夫のために不名誉を被り続けても、ベルタはハインリヒ4世に対して貞節を尽くし続けていた。しかし1069年、ハインリヒ4世はベルタを離縁しようと試みた。ヴォルムスで開かれた帝国議会で、彼は「妻との関係がよろしくないことを『公の場で』説明した。彼は長いこと他者を欺き続けてきたが、もうこれ以上そうしたくない、というのである。彼は離婚を正当化できるような何の告発も彼女に対して行えなかったが、彼女との婚姻を維持し続けることに耐えられなかった。彼は彼らに、神のために彼から婚姻関係を取り除くよう求めた。より幸福な結婚を望んで。異論を唱える者はなく、彼の妻が第二の結婚式の妨げになるというので、彼は『彼女に手を付けておらず、それゆえ彼女の処女は保たれている』ということを誓ったのである。」。

田村俊子(1884~1945)

木乃伊の口紅 淋しい風が吹いて來て、一本圖拔けて背の高い冠のやうな檜葉の突先がひよろひよろと風に搖られた。一月初めの夕暮れの空は薄黄色を含んだ濁つた色に曇つて、ペンで描いたやうな裸の梢の間から青磁色をした五重の塔の屋根が現はれてゐた。

アボルハサン・バニーサドル(1933~2021)

大統領 しかし、国会では保守的なウラマーが多数を占め、大統領側と対立するラジャーイーを首相に選出。ウラマーではなかったバニーサドルを追い詰め始める。さらに暫定外相時代にイランアメリカ大使館人質事件でアメリカ政府との仲介役を行ったことが保守派の反発を買い、「我が息子」と呼ぶほど親密だったホメイニーすらもバニーサドルを糾弾するようになってしまう。

村上信夫(1921~2005)

ニッポン人の西洋料理 「ごはんの食卓に合う西洋料理」をテーマに、コロッケ、ハンバーグ、ピラフなどお馴染みのメニューで西洋料理の基本を指南。帝国ホテル村上流の美味しさの秘密が見えてくる。シェフ直伝の「ワザ」を学べば、我が家の自慢料理に早変わり。ちょっとした心遣いで、簡単メニューがおもてなし料理に変身。

ロベルト・ムジール(1880~1942)

特性のない男~第1部~ オーストリア=ハンガリー帝国崩壊前夜、1913年のウィーン。ウルリヒは1年間の休暇を取るため、外国から戻ってきた。ウルリヒは軍人、数学者などを経て、現在は無職、独身の32歳である。著名な法律学者の父からの手紙で、「平行運動」に参加するよう勧められる。

源義重(1114~1202)

頼朝挙兵後 1180年の源頼朝挙兵の際には、甥足利義兼・子山名義範・孫里見義成らが早期にその麾下に帰参したのに対し、義重は一時日和見的態度を取る。この背景には、北関東での主導的地位にあり頼朝を格下に見ていたことや、新田荘や平家方の荘園であったこと、また木曾義仲とは親子2代に渡る宿敵関係でありこれを牽制する必要があった、といった要因が挙げられる。

ジェシー・ジェイムズ(1847~1882)

影響~ジェシー兄弟の伝説~ また、ジェシー兄弟は南軍の兵士やその未亡人に親切であったことから、未亡人にまつわる伝説も残されている。兄弟がとある農家で未亡人から食事をご馳走になったおり、女性から「この農場でもてなせるのも今日までで、明日からは1,400ドルの借金のために人手に渡る」と打ち明けられた。するとジェシー兄弟は1,400ドルを贈り物として未亡人に残し、驚く未亡人をおいて農家を後にする。しばらくすると農家に借金取りが訪れ、1,400ドルを取り立てて帰っていくが、帰り道にはジェシー兄弟が待ち伏せており、まんまと1,400ドルを取り返すという内容である。

尾崎三良(1842~1918)

憲政の神様 ロンドンでの英語学習中の1871年、岩倉使節団のアメリカ到着を知って渡米し、木戸孝允や岩倉と会見して条約改正の時期尚早を献策し、寺島宗則などとともにロンドンに戻った。ロンドン留学中、三良は英語教師のウィリアム・モリソンの家に同居し、その一人娘のバサイア・茶サリン・モリソンと1869年に結婚し、三女をもうけた。

陸游(1125~1210)

釵頭鳳 紅酥手黄縢の酒滿城の春色宮墻の柳東風は惡しく歡情は薄し一懐の愁緒幾年が離索せし錯錯錯!春は舊の如く人空しく痩せ涙痕紅く浥し、鮫綃透る桃花落ち池閣閑かなり山盟は在りと雖も、錦書託し難し莫莫莫!

西村京太郎(1930~2022)

終着駅殺人事件 一方、警視庁捜査一課の亀井刑事は、青森から上京した旧友・森下から「自分の教え子である松本紀子という女性が最近2年間消息不明なので一緒に彼女を探してほしい」と頼まれる。その帰り道、亀井刑事は上野駅のトイレの中で刺殺体が発見される事件に遭遇、その死体の主は待ち合わせの場所に来なかった安田章だった。

シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ(不明~1236)

中央アジア諸国の拡大に対して 12世紀末より中央アジア、イランで勢力を拡大していたホラズム・シャー朝が西北のユルドゥズ、カバーチャを脅かすと、イルトゥトゥミシュはホラズム・シャー朝の北インドへの侵入を阻止するためにシンドに兵を進める。ユルドゥズがホラズム・シャー朝にガズナを奪われてカバーチャの元に逃れると、1216年にイルトゥトゥミシュはタラーインで弱体化したユルドゥズを攻撃し、彼を捕殺した。しかし、ユルドゥズの死後はカバーチャからの圧力が増し、依然デリーは不安定な状態に置かれていた。

ポール・ラッシュ(1897~1979)

日本でのアメリカンフットボール 日本のアメリカンフットボールの歴史は、1934年春頃から、ポール・ラッシュの声掛けにより、ジョージ・マーシャル、松本瀧藏、小川徳治、アレキサンダー・ジョージ、メレット・ブース、加納克亮らが立教大学に集まり、我が国でのフットボール競技活動開始を協議したことに始まった。

オスカー・ハマースタイン2世(1895~1960)

王様と私~第1幕~ 1862年、頑固な未亡人で教師のアンナがシャムのバンコクに、王の多くの子の家庭教師として招かれる。アンナの息子ルイスは強面のクララホム首相を怖がるが、アンナは恐れない。アンナたちはクララホム首相に連れられ、住むつもりであった宮殿に行くが、契約と違い別の家に住むことになる。アンナは乗ってきた船でそのままシンガポールに戻ることを検討するが、そのままクララホム首相について行くことにする。

金大中(1925~2009)

大統領となる アジア通貨危機に見舞われた大韓民国の経済再建を課題とする大統領選挙で国民会議から立候補、1997年12月18日、ハンナラ党の李会昌をわずか39万票の差で破って、4度目の挑戦で大統領に当選した。

ガーセム・ソレイマーニー(1957~2020)

ケルマーン司令官 ソレイマーニーは1990年代、イラン南東部ケルマーンのイスラーム革命防衛隊司令官を務めた。アフガニスタンと国境を接するこの地域を通じてトルコと欧州に向けて麻薬の密輸が横行した。1999年のテヘランの学生蜂起鎮圧後、ソレイマーニーら24人のイスラーム革命防衛隊将校は、当時のモハンマド・ハータミー大統領に言論の自由の抑圧が軍に影響を与えたと懸念を表明する書簡を送った。

宮尾登美子(1926~2014)

天璋院篤姫 篤姫=島津敬子は元は島津分家筋の姫であったが、その器量を見込まれ斉彬の養女となる。斉彬の秘命を受け、近衛篤子として江戸幕府13代将軍徳川家定の御台所となった篤姫だが、病身の夫とは一度も本当の夫婦になれぬまま、幕府内での様々な困難に直面しながらも己の使命を果たそうとする。が、やがてその「使命」に秘められた陰謀の真実に気付いてしまう…

ジャラールッディーン・メングベルディー(1199~1231)

インド滞在、中央アジアへの帰還 生き延びた少数の部下とともにインド北部のパンジャーブ地方に逃げ込んだジャラールッディーンが最初に行ったのは、物資を調達するための略奪だった。バラ・チェルビ、ドルヘイ率いるモンゴルの追撃隊が接近していることを知ると、彼はさらにデリーに南下した。彼を見失ったバラ・チェルビ、ドルヘイはシンド地方の王侯ナースィルッディーン・カバーチャの統治するムルターンを攻撃するが攻めあぐね、酷暑に耐えかねて中央アジアに戻っていった。

文覚(生没年不詳)

三左衛門事件 頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。通親の死後、1202年に許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、翌1203年に、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。

リチャード・ロジャース(1902~1979)

エーデルワイス 「エーデルワイス」は、リチャード・ロジャース作曲、オスカー・ハマースタイン2世作詞の楽曲。この曲は1959年のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』に最後に付け加えられた曲であるとともに、彼にとってもこのコンビにとっても最後の作品である。オーストリアを象徴する花であるエーデルワイスを愛でる歌詞のこの曲は、劇中ではドイツに併合された祖国を離れるゲオルク・フォン・トラップ大佐によって歌われ、祖国愛を表現するものとなっている。

源義高(1173~1184)

清水冠者 義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。同年7月、義仲は平氏を破って入京する。しかし義仲は京を治めることに失敗し、後白河法皇とも対立する。頼朝は都に源範頼と源義経を代官とした義仲追討軍を派遣し、1184年1月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。

テオドルス・ファン・ゴッホ(1857~1891)

ゴッホの弟 画商グーピル商会に勤め、パリのモンマルトル大通り店の経営を任された。親兄弟と確執関係にあったフィンセントの唯一の理解者で、兄に生活費を援助するなどして支えた人物であった。1880年以降、テオが経済的に援助し続けたので、フィンセントは絵画に専念することが可能になった。