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村松殿(1565~1630)

加沢記 なお、『加沢記』の記述によると、昌幸が織田信長に臣従した際の人質として安土城に送られ、本能寺の変直後に行方不明となるが2年後に伊勢国桑名で保護されたという。村松殿が人質として安土へ送られたとする伝承について、丸島和洋は遠隔地での国衆の人質は現地で預かることが基本であり、極めて疑わしいとしている。

ラダマ1世(1793~1828)

治世 ラダマと直接接したヨーロッパ人たちは彼のことを、過去4世紀間にわたりメリナ王権を正統たらしめていた多くの宗教儀礼と宗教伝統に対して、あけすけに懐疑的であった様を伝えている。とりわけラダマは、メリナの宮廷祭祀におけて異彩を放つ12個の神器である「サンピ」に重きを置くことに対してきわどい批判をしていたと伝えられている。ラダマの治世下に彼によって導入された文化的技術的革新の多くは、先祖の遺産や伝統の否定であるとして、かなり多くの人々に拒否された。

尼子義久(1540~1610)

家督相続 1561年12月、父・晴久の急死により家督を継ぐ。未だ毛利氏との石見大森銀山を巡る争いが終結していなかった中での晴久の急死であったため、尼子家臣団の動揺もあって月山富田城内に密葬することとなる。また、新宮党粛清による有力な親族衆が殆どいない状態で当主を継承するといった状態であり、更には尼子氏から追放・粛清処分を受けるなど抑圧されてきた国人衆の不満が一挙に噴出し始めていた。

アンドレアス・ヴェサリウス(1514~1564)

『ファブリカ』 その仕事はまず解剖ありきという事と、後に体の「解剖学的な」視点と呼ばれるようになったものを強調した。すなわち、立体的に器官を配置して、本質的に物質的構造としての人間の内部構造を見せた。これは、以前に用いられた、占星術の原理と同様、強いガレノス、アリストテレス的原理に基づく解剖学のモデルと著しく対照的だった。現代的な解剖学教科書もモンディーノとベレンガーによって出版されたが、彼らの仕事はずっとガレノスとアラビア学説に寄ったものだった。

真田幸昌(1600~1615)

大坂の陣 1614年、父とともに九度山を脱出して大坂城へ入った。翌年の大坂夏の陣で道明寺の戦いに出陣して、敵の武将の首を取ったが、手傷を負い、主君の豊臣秀頼が和議を検討しているという噂があるからそれを阻止するようにと父に言い含められて、秀頼を見届けるように命じられた。この時、幸昌は父とともに最後まで付き従うつもりだったが、父の命令には逆らえず、やむなく大坂城に引き返したとされる。

サローテ・トゥポウ3世(1900~1965)

治世 トゥイ・カノクポル朝の第21代当主サローテは、旧都ムアのトゥイ・トンガ朝の末裔らからは不承不承ながら女王に認められた。そのため、治世の初期は自身に対する不信の払拭に腐心した。トゥイ・ハアタカラウア朝の直系の子孫ヴィリアミ・トゥンギ・マイレフィヒとの婚約は、父の卓越した手腕によるものである。夫妻の子女にはトンガの3大王家の血が混淆している。

愛姫(1568~1653)

遺言 愛姫は政宗や忠宗に対して、実家の田村家の再興をたびたび願い出ていた。忠宗は母の遺言を容れて、母の死の年に息子の宗良を当主として田村家を再興させた。「陽徳院様御夢想之書付」によると、愛姫は自ら繊細な仮名文字で「いろよきはなのえたをこそみる」と記しているが、これは鮮やかな色をした花の枝振りを夕べ夢に見たというような意味で、包紙の上書きに孫の宗良をその母が身ごもった時に見た夢である旨が記されている。

王元姫(217~268)

三国志演義 ある時、司馬昭の元に鍾会が仕官してきた。元姫は「鍾会は己の利を見て義を忘れ、何かとの事を起こすのみを好みます。重用すれば必ず国が乱れるでしょう」と、いつも司馬昭に告げていた。その後ついに、鍾会は益州で反乱を起こした。

北条氏規(1545~1600)

帰還後 同年以後は北条為昌の菩提者としての地位を岳父北条綱成から引き継ぎ、1567年三浦郡の支配権を綱成から、三浦衆の軍事指揮権を氏康から引き継いで、三浦郡の支配拠点であった三崎城を本拠にし、房総方面への軍事行動を担うようになった。1569年に北条氏と武田信玄の抗争が開始されると、水軍を支配下とする氏規が伊豆防衛を担うようになり、徳川家など西方の政治勢力との外交交渉を担当するようになった。

トライデニス(1220~1282)

大公の地位 1270年にリトアニアの大公の地位についたトライデニスは、分離しようと試みたがナヴァフルダク、ガラドク、ポラツクの諸侯国と戦うことで積極的な内外政策を行った。ナリシアの公であったポリュスとスクシェがトライデニスのもとから逃れてドイツ騎士団のもとに亡命したことは知られている。対外政策の最初の段階は、国境線を広げると同時にドイツ騎士団やハールィチ・ヴォルィーニ大公国から公国を守ることを努めることに確定付けた。1273年にトライデニスはスドヴィア出身のヨトヴィングの公であるコマンタスによる、恐らくはノヴゴロド公国あるいはゴロデッツ公国が統治していたであろうヘウムノに対する遠征軍を援助した。ドイツ騎士団の抑圧下に置かれていたヨトヴィング人とプロイセン人の一部はリトアニアに逃亡した。トライデニスの時代にスロニムのプロイセン人の数が増えたことは知られている。

南條範夫(1908~2004)

燈台鬼 時は唐の代宗の御世である大暦14年3月、長安の蓬莱宮において一つの事件が起きていた。日本の遣唐使小野石根が「この宴席において日本の席次が新羅より下に置かれるとは承服がしたい」と脇目もふらず叫んでいたのだ。この言葉に新羅の使者は大いに反発した。面倒と見た唐側は日本の使節の謁見を早め、すぐに都から去るようにしてしまう。

スチュワート・メンジーズ(1890~1968)

MI6長官 1939年にシンクレアが死去するとメンジーズがSISの長官に任命された。彼は諜報、防諜活動の部署を拡充するとともに、ブレッチリー・パークを本拠としていた暗号解読作戦を重視した。当時SISは大恐慌によって予算が削減されたこともあり、小規模で影響力の小さな部署にすぎなかった。

松本奎堂(1832~1863)

天誅組 8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立。17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木正信の首を刎ねて兵を挙げた。挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。

ヨーゼフ・マルティン・クラウス(1756~1792)

作風 「スウェーデンのモーツァルト」の異名に相応しく、各ジャンルに独自の「響き」を生かした優れた作品が多い。長調偏重の時代にもかかわらず短調を主調とした曲を多く書くところにもそれが現れている。

成瀬正義(1535~1573)

湯水の行水 1572年1月22日、三方ヶ原の戦いでは旗奉行として家康本陣を守り武田信玄軍と戦い奮戦したが、武田氏の武将馬場信春隊の突入を防ぐために、後事を弟の成瀬正一に託し、家康の身代わりとして討ち死にした。成瀬氏の家督は正一が継いだ。三方ヶ原の戦いの前夜、物見に出た鳥居忠広が武田勢の多さに篭城を主張したことに対して、腰抜けと言ったために喧嘩となるがのち仲直りした。この話は講談「湯水の行水」として知られている。正義が戦死した地は、今でも成瀬谷と呼ばれている。墓所は宗源院。

マリア・モンテッソーリ(1870~1952)

モンテッソーリ教育 イタリアのローマで医師として精神病院で働いていたモンテッソーリは知的障害児へ感覚教育法を施し知的水準を上げるという効果を見せ、1907年に設立した貧困層の健常児を対象とした保育施設「子どもの家」において、その独特な教育法を完成させた。以後、モンテッソーリ教育を実施する施設は「子どもの家」と呼ばれるようになる。

藤本鉄石(1816~1863)

天誅組 同年8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると、藤本は吉村虎次郎、松本奎堂とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行した。14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。浪士たちは後に天誅組と称されるようになる。

パーパク(不明~210)

ローマとアルメニアの文献 ローマとアルメニアの情報源では異なる説明が見られる。ローマの歴史家アガティアスとゲオルギオス・シンケロスによれば、サーサーンはアルダシールの実の父親であり、パーパクは継父であった。アルメニアの著述家モブセス・ホレナツィとアガサンゲロスも同様にサーサーンをアルダシールの父と呼んでいる。但し、パーパクについては何も言及していない。アガサンゲロスの作品のギリシャ語版では、アルダシールは「ササヌスの息子であり、ササヌスは彼の子孫であるペルシアの王たちの王朝であるサーサーン朝の名の由来である」と記されている。

素性(不明~910)

小倉百人一首 今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな

ハリー・スタック・サリヴァン(1892~1949)

統合失調症治療における実践 サリヴァンはまた、看護師やソーシャルワーカーの育成にも尽力した。その際、看護師集団の中で劣等生だった者を意図的に集め、育成した。そのような環境で育った人間こそ精神障害の治療に適していると考えたためである。統合失調症の看護においては、前青春期的な、相互の劣等感や不全感をともにする過程が必要であるとサリヴァンは考えたため、病棟は劣等生であった男性看護師のみを集めた場所となった。

瑞渓周鳳(1392~1473)

善隣国宝記 善隣国宝記は京都相国寺の僧侶瑞渓周鳳によって著された漢文による外交資料集。日本最初の外国史の書として知られている。序文に1466年、後書に1470年の年号が記載されている。ただし、一部の文書の下限は1486年であり、1473年の瑞渓周鳳の没後に加筆が行われたと考えられている。全3巻。

ラルフ・エリソン(1914~1994)

見えない人間 1930年代のニューヨークを舞台に、冷静・標識・理路整然・自己認識が出来ている一人の黒人少年が、当時のアメリカにおける過酷な人種差別の中で、主人公が自身のアイデンティティと社会での居場所を探す姿だけでなく、近親相姦といったタブーにも踏み込むこととなった。同作品は世界中で喝采を浴び、出版の翌年の1953年に全米図書賞を受賞することとなった。エリスンが執筆に7年間を費やして書き、1953年にランダムハウス社から出版された。

神屋宗湛(1551~1638)

筑紫の坊主 1587年、信長死後に天下人となった豊臣秀吉に謁見した時には居並ぶ堺や大和の豪商らの中で最上席に座り、「筑紫の坊主」と呼ばれ、秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後は、博多商人の第一人者として栄華を極めた。「太閤町割」と呼ばれる博多復興事業では、大きな役割を果たし、また秀吉の九州平定においても資金面で援助している。1592年から始まった朝鮮出兵においても後方兵站の補給役を務め、晩年の秀吉の側近として活躍し、莫大な富を蓄積した。

ジョゼフ・フーリエ(1768~1830)

業績~フーリエ解析~ フーリエ解析とは、これらフーリエ展開やフーリエ変換を用いて関数を解析すること、特に関数を周波数成分に分解して調べることである。これは線形微分方程式を解くための極めて強力な武器であるばかりでなく、物理学や工学において光や音、振動、コンピュータグラフィックスなど幅広い分野で用いられている。

殷富門院大輔(1130~1200)

小倉百人一首 見せはやなおしまのあまの袖たにもぬれにそぬれし色はかはらす

テオドール・シュワン(1810~1882)

細胞説~細胞説の成立へ~ シュライデンによると、細胞は植物の体の構成要素であるが、それだけではなく、核小体を含む核をそなえ、成長し、それ自体が小さな生命体である。シュワンも、シュライデンの細胞観をほぼ踏襲している。ただし、細胞の起源については、二人とも現在とは異なる説明をしている。シュライデンは元の細胞の中で、核を中心として小体ができ、これが新しい細胞の元、細胞芽となるとしている。シュワンは、むしろ細胞間物質から細胞が作られるのだと述べている。いずれにせよ、この細胞の起源の説明は、彼らの細胞説の大きな部分であり、この点ではどちらも変ではある。

伊達保子(1827~1904)

養蚕の奨励 保子は、養蚕業への取り組みを始めた。自らカイコの世話や、カイコの餌となるクワの畑の手入れをした。1873年に伊達館ができると、2階に蚕棚を設け、邦成、豊子と共に蚕を育てて糸を紡いだ。家臣の妻たちも、保子の一家総出の行動に触発され、養蚕に尽力した。自ら働き、一粒の米も大切にする開拓民の心の支えとなる。

ケーストゥティス(1297~1382)

ケーストゥティス家 ケーストゥティス家では1381年から1382年までのリトアニア大公ケーストゥティスの兄弟姉妹、息子、孫について解説する。ケーストゥティスは兄弟のアルギルダスとともに1345年から1377年まで共同統治した。

永井陽子(1951~2000)

陽子の短歌 幼子の手より離れし星くずは野原に散りてタンポポとなる べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊

ヴィータウタス(1352~1430)

ホロドウォ合同 第1の条文は、ポーランド王ヨガイラとリトアニア大公ヴィータウタスによって書かれ、第2、第3の条文はリトアニアとポーランドのシュラフタによって書かれた。この合同により、クレヴォの合同とヴィリニュス・ラドム合同が改められた。

和田業繁(不明~1575)

武田氏配下時の動向 1568年末から武田氏と後北条氏の抗争が発生すると上杉方に離反の動きをみせ、1570年頃に謙信宛に差し出した書状も存在する。しかし結局武田氏の元に残留した。信玄が死去すると引き続き武田勝頼幕下の先方衆となり、1574年7月には駿河・遠江方面への出陣の功賞として遠江国山口にて500貫文を与えられている。翌1575年の長篠の戦いでは、籠城する長篠城を俯瞰できる対岸の君が臥床砦に布陣していたが、5月21日、徳川方の酒井忠次の奇襲に遭遇して戦死した。跡を婿養子・信業が継いだ。

ヴィルヘルム・フリック(1877~1946)

テューリンゲン州内務大臣・教育大臣 1929年12月8日のテューリンゲン州議会選挙でナチ党は11パーセントの得票を得て州議会に6名の議員を出した。その結果テューリンゲン州首相エルヴィン・バウムはナチ党との連立を決意した。1930年1月23日にフリックがテューリンゲン州内務大臣兼教育大臣に就任した。地方政府とはいえナチ党員が閣僚職を手にしたのはこの時が初めてだった。テューリンゲン州内務大臣・教育大臣としてフリックが行った政策は後のナチ党政権の政策の先駆けだった。

お犬の方(不明~1582)

松泉寺について 東京都渋谷区恵比寿南2丁目18番にある松泉寺は、開基を「細川某の妻・織田氏」と伝えている。1604年にに一ツ木村大澤に創建され、僧・時英を開山とし、初め霊光院と号した。臨済宗妙心寺派の末寺。1695年に赤坂一ツ木町に移り、後に龍徳山松泉寺と改めた。この織田氏とはお犬の方をさしていると思われる。

フランツ・フォン・エップ(1868~1947)

ナチ党 1927年、バイエルン人民党に入党したが、1928年5月1日には国家社会主義ドイツ労働者党に入党した。エップはナチ党の集会に参加し、ヴェルサイユ条約破棄やドイツ再軍備、反ユダヤ主義に共感を示し、入党したことに誇りを感じるようになった。エップは元将軍として、国軍やブルジョワ階層との繋ぎ役としての役割を期待されていた。

高木兼寛(1849~1920)

兵食改革と脚気論争 日本軍で流行していた脚気について、大日本帝国海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決に取り組み、海軍では兵食改革の結果、脚気新患者数、発生率、および死亡数が1883年から1885年にかけて激減した。高木は、1884年の軍艦「筑波」による航海実験も行って、この兵食改革の必要性を説いた。この航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる。その後、いわゆる海軍カレーが脚気撲滅に一役買ったともいわれている。

エルンスト・レーム(1887~1934)

第7軍管区司令部で義勇軍の編成と維持の任務 1919年6月28日にヴェルサイユ条約が締結され、ドイツの陸軍兵力は10万人に限定され、重火器、戦車、航空機、潜水艦の所持は禁止された。この兵力不足を補うためにベルリンの国防省もバイエルンの第7軍管区司令部も民間の準軍事組織の育成・強化に本腰を入れるようになったのでレームの任務も重要性を増した。レームは与えられた任務以上の活動を精力的にこなした。

宮本伊織(1612~1678)

伊織の伝承~二天記~ 『二天記』の記事から、出羽の正法寺村の孤児、父は奥州最上家の浪人とされていた。武蔵が正法寺原を通りかかった折り泥鰌を取っていた少年伊織を養子にした話は「泥鰌伊織」として有名である。

ハインリヒ・ヒムラー(1900~1945)

ナチ党の権力掌握後~政治警察を掌握~ ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命されて政権を掌握した1933年1月30日、多くの党幹部が中央政府や各州の要職に就任したが、ヒムラーには当初何のポストも与えられなかった。ヒムラーが自分をあまり強く推さなかったのが原因であるという。

三淵藤英(不明~1574)

槇島城の戦い 降伏後、藤英は居城の伏見城に戻ったが、その目の前にある槇島城が織田軍の総攻撃により陥落し、降伏した義昭は信長によって三好義継の河内国若江城に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。これにより、藤英も信長に仕えることとなり、早速、いまだに淀城に立て籠もっている義昭派の岩成友通を攻めるように信長に言われ、藤孝と共にこれを陥落させ、8月2日友通を討ち取った。

関平(178~220)

史実の関平 各地を転戦する傭兵団は家族を持つ事が頭領以外は極めて困難であり、その傭兵団たる劉備軍が初めて一所に長く収まったのが荊州時代である。関平の記述が殆ど無いのは、樊城攻略が彼の初陣だった為であろう。

金田正一(1933~2019)

現役時代~巨人時代~ セ・リーグ会長の鈴木龍二は金田に対して、同年の順位の下位球団である、中日・広島と入団交渉するように指示。中日は地元名古屋出身の金田を強く勧誘し、契約金1億円を提示したとも言われるが、金田は拒否。次に、同年3位の巨人と交渉してまとまり、12月24日に巨人への移籍が正式に発表された。契約金7000万円、年俸2000万円とされる。

マーティン・フロビッシャー(1535~1594)

2度目の北西航路航海 翌1577年、1回目の航海より大きな船団が組織された。女王は海軍艦船エイド号を新設された「キャセイ会社」に売り、さらに1000ポンドを探検費用として支出した。キャセイ会社は女王からの勅許をうけた勅許会社で、東方以外の全方位への航海の独占権を与えられた。フロビッシャーは、この航海で発見するすべての土地と水面の司令官となることが認められていた。

畑田国男(1944~1996)

兄弟姉妹の日~妹の日~ 1991年に『「妹の力」社会学』などの著書を持つ、「兄弟型・姉妹型」の研究者である畑田国男が9月6日を妹の日であると制定した。彼はスポーツや芸能界で功績を上げる多くの女性は妹であると考えていた。9月6日である理由は、誰からも愛される可憐さの象徴である妹は、乙女座を表しており、乙女座の期間にあたる8月23日から9月22日の中間日の前日が9月6日であるからだとされている。1992年までには、「妹の日」推進委員会が設置された。

ティソク(不明~1486)

ティソクの石 「ティソクの石」と呼ばれる円柱状の石碑はティソクが自らの軍事的な功績を誇るために造られた。この石碑にはティソクが征服した多数の都市を描いている。アステカの石碑は数が非常に少なく、また現存するアステカの文書はスペインによる植民地化以降に書かれたものであるため、現存する15世紀のアステカの記録として貴重である。

星新一(1926~1997)

白い服の男 世界大戦後の世界。白い制服を着用する主人公の男は特殊警察機構89605分署の署長で、今日も職務に励んでいた。特殊警察機構とは超法規的存在で、無差別盗聴や密告を駆使し、市民を監視していた。しかし、凶悪犯罪の証拠をつかんでも無視し、一般警察が担当する仕事には一切口出ししなかった。彼らが取り締まる対象はただひとつ、「セ」だけだった。特殊警察に捕えられた者は拷問により取り調べられた後、広場で「人類の敵」として公開処刑される。この時代でも当然許されざる行いだが、「セ」に関しては別だった。

ジョゼフ・フーシェ(1759~1820)

秘密警察 フーシェは総裁政府時代から密偵を雇い、秘密警察を使って国家のあらゆるものを監視させたと言われる。ナポレオンの妻ジョゼフィーヌから買収し、ナポレオンの私生活まで監視していた。ナポレオンはフーシェの情報収集力を高く評価し、用事があるときは秘書官に呼びに行かせた。ナポレオンは、大臣たちを自分の秘書官程度に考え、時には口述書記させることすらあったといい、直接呼びつけるのではなく、秘書官に呼びに行かせるのはナポレオンにとっては格別の配慮であった。なお、フーシェと共にナポレオンが配慮を示したのは、タレーランである。

名古屋山三郎(1572~1603)

森家臣時代 その後、妹の岩が側室として嫁いでいる森忠政の家臣として仕える。忠政は山三郎を気に入り、見目麗しい事や茶の湯や和歌に関しても見識が深い事から扈従役として取り立てられ、5000石の所領を与えた。また、山三郎の妹2人が森家重臣の小沢彦八郎、各務正休と婚姻を結んだため、山三郎は森家中で大きな発言力を持ったが、それを快く思わない森家譜代の重臣井戸宇右衛門とは仲が悪く、度々、口論など諍いを起こしたとされている。

ラバヌス・マウルス・マグネンティウス(780~856)

来たり給え、創造主なる聖霊よ イムヌス:来たり給え、創造主なる聖霊よ来たれ、創造主なる聖霊よ人間たちのに訪れなんじのつくられし魂を高き恵みをもってみたしたまえ慈悲深き主と呼ばれし御身至高なる神の賜物それは生の泉・火・愛そして霊的な聖なる油われらが肉体の弱さを絶えざる勇気を持ち力づけ、光をもって五官を高め愛を心の中に注ぎたまえ光をもって五官をたかめ愛を心の中に注ぎたまえ敵を遠ざけてただちに安らぎを与えたまえ先導主なるあなたにならってわれらをすべての邪悪から逃れさせよ。御身は7つの贈り物により御尊父の右手の指にいらっしゃる御尊父より約束された尊い者なる御身人の喉に御言葉を豊かに与え給う御身によってわれら尊父を知り、御子をも知らせ給え。両位より出現した聖霊なる御身をいつの時にも信ぜさせ給え。光をもって五官を高め愛を心の中に注ぎたまえ。来たれ!創造主なる聖霊よ慈悲深き主と呼ばれた御身至高なる神の賜物天の喜びを贈り給え大きな報いを与え給え争いの結び目を解き、平和の誓いを堅くし給え。ただちにやすらぎを与えたまえ先導主である御身にならってわれらをすべての悪より逃れさせよ。主なる父に栄光あれ死よりよみがえった聖なる子、そして聖霊に千代に渡って栄光あれ。

山内豊昌(1641~1700)

天和の改革 しかし1688年、支藩中村藩の改易、藩政改革における交通路改築の失敗、さらには自らの能楽・食道楽による藩財政悪化、山林荒廃を招くなどの失政もあった。これら一連の改革を天和の改革という。

ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(1779~1821)

別離 1814年、シュタッケルベルクは「彼の」子どもたちを連れ出すために再び姿を現した。ヨゼフィーネが拒否したため、彼は警察を呼び3人の幼児を腕ずくで奪い去った。しかし、シュタッケルベルクが子どもたちを故郷のエストニアに連れて行かなかったことが分かっている。彼はボヘミアの助祭の元に子どもを預けると、再び各国を巡る旅に出たのであった。