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アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871~1942)

人魚姫 王妃を失って久しい男やもめの人魚の王は母君に6人の娘の教育をして貰っていた。人魚姫の姉妹は1歳ずつ年齢が異なり、毎年1人ずつ海の上に行った。末の姫は15歳の誕生日に昇った海の上で船の上にいる美しい人間の王子を目にして恋心を抱くが、その夜の嵐で彼の船は難破し王子は意識を失って海に放り出される。人魚姫は文字通りすぐそばに来た彼が水中にいる死んでしまうことに気が付き、一晩中海面に持ち上げ続けたが日が出ても彼が意識を取り戻さないので温かい浜辺の方がよいだろうと考え岸辺において自分は離れて様子を見ていたところ、近くの修道院から出てきた女性が王子に気が付き連れて行ったのでそのまま人魚姫は海の底に戻っていった。

アルフレッド・ド・ミュッセ(1810~1857)

戯れに恋はすまじ 貴族階級の男女の話。幼馴染で互いに惹かれあう若い男女が同じ日に同じ場所にそれぞれの留学先から帰郷する。女の方は修道女たちと付き合っているために、恋愛に対して懐疑的な考えを吹き込まれ、男に対して素直になれない。そこから恋の駆け引きが始まる。男はあてつけに、美人だが純朴すぎる田舎娘と付き合う。この作戦が功を奏して、嫉妬を感じた女は男になびき始める。

マーサ・ワシントン(1731~1802)

マーサと奴隷制度 上流階級の南部白人の家庭であった故、奴隷制度を目前に育ったが、「南部の機構」の倫理的また道徳的な基本について問題にすることはなかった。イギリスの通常法においてカスティスの遺産の3分の1を相続し、そこからの収入で生活していたが、その資産は多くのプランテーションや農園とそこで働く、多くの奴隷男女と子供達のためであった。

フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン(1730~1794)

求職活動 シュトイベンは1777年の夏のパリに行った。幸運にも、シュトイベンはフランス陸軍長官のクロード・ルイの紹介状を得た。ルイはプロイセンの参謀本部員として訓練に関わったシュトイベンの潜在的な能力を十分認識していた。フランクリンからワシントンに宛てた手紙の中では「プロイセン王に仕えた中将」とシュトイベンの軍歴にしては大げさな言い方で紹介された。シュトイベンは旅行費用を集めてマルセイユから出港した。1777年9月26日、ニューハンプシャーのポーツマスに到着し、12月1日にはボストンで法外に歓待された。大陸会議は当時フィラデルフィアを追い出され、その年の冬と翌1778年2月5日にはペンシルベニアのヨークで開かれていたが、シュトイベンもこれに同行した。大陸会議は当面無給でシュトイベンの志願を認め、2月23日、バレーフォージにいたワシントンに付くように指示した。シュトイベンは英語を話さなかったが、フランス語で何人かの将校と話ができた。アレクサンダー・ハミルトンとナサニエル・グリーンはこの面で大きな助けになった。この二人はシュトイベンが兵士の訓練計画を作るのを助け、3月には総司令官の許可を取り付けた。

カール13世(1748~1818)

フレデリクスハムンの和約 スウェーデンは窮していた。ナポレオン戦争に巻き込まれ、ロシア帝国に敗れて長年支配していたフィンランドを失った。そしてヨーロッパ本土はイギリスとロシアを除きナポレオンに席巻されていた。しかもカール13世には世継がいなかった。数限りない問題と憂鬱に取り囲まれていたのである。そこにナポレオンがスウェーデンに新たに難題を押し付けるのである。大陸封鎖令である。窮しきったスウェーデンは参加を余儀なくされるが、1810年のパリ条約により取り敢えずスウェーデンは一国を安堵された。また同年、カールは軍事力回復のため、医学研究の重要性を痛感し、カロリンスカ研究所を設立した。

ハインリヒ・オルバース(1758~1840)

オルバースのパラドックス このパラドックスの帰結は、星は距離の2乗に反比例して見かけの面積が小さくなるが、距離が遠い星の数は距離の2乗で増えるので、これらはちょうど打ち消しあい、どの方向を見てもいずれかの星のまばゆい表面がみえるはずだという推論に基づく。現在では、そのために必要な距離や時間あるいは星の密度は、実際の宇宙の大きさ・年齢・密度よりおよそ10兆倍も大きなものとなることが明らかとなったため、パラドックスの前提は成立しないことがわかっている。

朱楽菅江(1740~1799)

狂歌大体 他方、安永年間は赤良に続いて洒落本を書き《売花新駅》《大抵御覧》《雑文穿袋》などの作があるし、若い時に前句付に親しんだので1780年からの川柳の牛込蓬莱連グループに属して《川傍柳》編撰に参加した。寛政改革後は狂歌の作風を変えて《狂歌大体》を著し、和歌に近い立場をとった。なお、菅江の死後は妻の狂名節松嫁々が朱楽連をひきいた。

堀田正盛(1609~1651)

佐倉藩主 1638年3月8日、6万5000石を加増されて10万石となり信濃松本藩に転封、老中の実務を免ぜられて家光の縁側に回り、中根正盛と共に老中のまま大政参与となり家光を補佐した。幕政に参画していたため松本藩の藩政にはほとんど関与せず、入国したのも入封した年の1回のみである。

河田景与(1828~1897)

戊辰戦争での活躍 1867年、王政復古の大号令により朝敵であった長州藩が宥免され、倒幕のために長州藩兵が上京したのに伴い、河田らも鳥取に帰藩。翌1868年の戊辰戦争勃発後は、東山道先鋒軍に加わり、鳥取藩兵参謀となり、そして志願農兵山国隊の隊長も兼ねた。3月の江戸開城後は北関東に転戦し、4月下旬には宇都宮城の戦いで活躍。自ら抜刀して敵陣へ向かい、大声で配下の将兵を鼓舞したという。閏4月には政府軍下参謀に就任、会津戦争に従軍する。これらの活躍が認められ、賞典禄450石を与えられた。

バースのアデラード(1080~1152)

主な業績 バースのアデラードの独自の著作の中には三部作の対話篇があり、プラトンの文体をまねて、彼の甥が登場人物として書かれている。その三部作のうち最初に描かれたのは「同と異について」である。この本はプロトレプティック、つまり哲学を学ぶことを勧める文体で書かれている。本書がボエティウスの『哲学の慰め』を範型としていることはアデラードの語彙や言い回しから明らかである。この『同と異について』はアデラードが旅行から帰還してからトゥール近郊で書いたと考えられているが、南イタリアやシチリアを旅行した後であることを示す証拠があるわけではない。本書は、世俗的な快楽を支持するフィロコスミアと学問を擁護して自由学芸に導くフィロソフィアとの芝居がかった対話という形をとっている。本書を通じて強調されるのはフィロコスミアの「可感的実在」とフィロソフィアの「心的な概念」との対比である。自由学芸の各分野は二つに分けられる。その一方は各分野を表す寓話的な人物に関する記述で、その記述の中で当該分野の重要性が間接的に説明される。それに続いて各分野の根本となる教説の概要が説明されるが、その説明は当該分野の創立者あるいは主な唱道者としてあらわされた寓話的な人物の口から語られる。

サミュエル・ヒューストン(1793~1863)

テネシー州政界 1822年、ヒューストンはテネシー州で連邦下院議員に選出される。彼は仲間のテネシー人と共に民主党員アンドリュー・ジャクソンの忠実な支持者であった。インディアンに対する施策に関する考えには大きな隔たりがあったものの、彼はジャクソンからの政治的保護を受けていると広く考えられた。ヒューストンは、1823年から1827年まで下院議員を務め、1824年に改選されている。

アブー・イナーン・ファーリス(1329~1358)

文化事業 アブー・イナーンはアブー・アルハサンの文化事業を継承し、芸術家と職人を厚く保護した。父の時代に建築が開始されたモスク、マドラサを全て完成させ、その中の代表的なものとしてフェズとメクネスに建設された彼の名を冠するマドラサが挙げられる。フェズのブー・イナーニーヤ・マドラサはマリーン朝期のマドラサとしては最大のものであり、建築様式の美しさも評価されている。

ヘテプヘレス1世(不明~前2551)

墓の発見 レイズナーはヘテプヘレスの元々の墓はダハシュールにある彼女の夫のピラミッドの傍にあったが、その墓は彼女の埋葬直後に壊れてしまったと推定した。そして盗掘者達が石棺を開けてミイラと黄金の飾り全てを盗んだが、残りの宝は取る前に逃走したと考えた。更にレイズナーは、この墓に対して責任を負っていた役人達が、クフの怒りを避けるために、ミイラはまだ石棺の中にいると伝えたとする説を提案した。そしてクフはその自身のピラミッドのあるギーザでその石棺と葬儀に必要な全ての品を再埋葬したであろうとする。

ターリク・ミハイル・アズィーズ(1936~2015)

イラク戦争~政権崩壊 2003年2月、アズィーズはバチカンを訪れローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談。会談後の記者会見で米英がイラクを攻撃すれば、世界のムスリムが「十字軍の再来」と受け取るだろうと警告した。開戦前夜の3月19日にアズィーズがクルディスタン地域に逃亡を図るも、失敗して射殺されたという報道が流れたが、すぐにバグダードで記者会見し、報道を否定した。開戦中も時折、報道陣に姿を見せたがバグダード陥落後は姿を消した。アズィーズの邸宅は政権崩壊後、暴徒に荒らされ、家財道具等が略奪された。

ペロ・ダ・コヴィリャン(1460~1526)

ラリベラ この街に最初に訪れたヨーロッパ人は、ポルトガルの探検家ペロ・ダ・コヴィリャンであった。また、近い時期にはポルトガルの大使に随行した司祭フランシスコ・アルヴァレスがおり、彼はラリベラについて驚嘆とともに著書の中に書き記しているが、同時にその威容の描写が当時のヨーロッパ人たちに信じてもらえる可能性には悲観的だった。アルヴァレスの著書には、ラムゾが1550年に石窟教会の図面を付録しているが、図面の出所は不明である。

シャー・ルフ(1734~1796)

即位と復位 だが1748年にアーディル・シャーとのその跡を継いだイブラーヒームが相次いで廃されたため、サファヴィー朝の血統である彼が有力者の支持を受けて即位した。しかし1750年にカージャール族の有力者らに背かれて廃された。このときに盲目にされている。だが、すぐに祖父の旧臣らの支持を受けて復位した。

ルドルフ(1858~1889)

謎の情死「マイヤーリンク事件」 1888年末頃、ルドルフは16歳のマリー・ヴェッツェラと出会った。この出会いを仲介したのは、母エリーザベトのお気に入りだった従姉ラリッシュ伯爵夫人マリー・ルイーゼだった。「つやのない麦わらのような金髪はぼさぼさで、眉毛は薄く、正規に耐えなかった」と口の悪いラリッシュ伯爵夫人が語った皇太子妃シュテファニーの姿と比べて、マリー・ヴェッツェラは小柄の美しい娘であった。やがてルドルフはマリー・ヴェッツェラに惹かれ、教皇レオ13世に宛ててシュテファニーとの離婚を求める書簡を送った。教皇は「不許可」と回答したが、これはルドルフにではなくローマ駐在の外交官を通じてフランツ・ヨーゼフ1世に返書が渡されたために一切が洩れてしまい、父帝の激しい怒りを呼び起こした。

ナルセ1世(生没年不詳)

対ローマ戦争とその失敗 ナルセは即位後、ペルシアの長年の悲願である、ローマに奪われたアルメニアとメソポタミアの奪還に取り掛かる。この時代のローマはディオクレティアヌスとその養子ガレリウスの治世下であり、8年間の長きにわたって交戦状態に陥った。296年、ティリダテスを王位から放逐した。297年、アルメニアのティリダテスを助けるため、ガレリウスが出陣した。3度の戦いが行われ、最後の戦いでガレリウスは退却せざるを得ない敗北を喫した。同年、名誉挽回を誓ったガレリウスは2万5千の兵を率いてアルメニアへ向かった。

マクリヌス(164~218)

治世 当初は元老院の人事に極力干渉しない考えを見せていたマクリヌス帝であったが、複数の属州総督に関しては入れ替えが必要であると認識した。またバッシアヌス家を始めとする旧セウェルス朝の関係者に関しても寛大な態度で接していたが、セウェルス朝の内政を事実上取り仕切っていたユリア・ドムナが謀反を計画しているとしてアンティオキアに幽閉する決定を下した。不治の病を患っていたユリア・ドムナは自ら絶食して死を選んだとされる。このあと、マクリヌス帝は残るバッシアヌス家の一族に対しても彼らの故地であるシリアのエメサに戻るよう命じた。

ピウス6世(1717~1799)

聖職者民事基本法 この法律の内容は、フランス国内のカトリック教会を国家の管理下に置くものであった。司教区の行政的再編成、宗教的秩序の廃止、戸籍抄本の民間委譲、聖職者の叙任・給与などについて定め、これにより聖職者は公務員の扱いとなり、教会ではなくて、人民によって選任される立場になった。また、憲法を全力で維持すること等の宣誓を義務としたため、聖職者の大多数が聖書以外に誓いを立てることを拒否し、革命と宗教との対立に発展した。敬虔なカトリック教徒であった国王は困惑したが、王党派聖職者の助言を受けて裁可に同意する。ところがローマ教皇ピウス6世は公にこれを強く批判し、宣誓者を批判して異端宣告することすら示唆したため、波紋が広がり、宣誓拒否聖職者と立憲派聖職者の対立は一般の信徒も巻き込んで深刻の度合いを増した。信仰の根強い地方では、宣誓拒否聖職者が王党派と協力して農民の反乱を扇動したため、ヴァンデの反乱の原因の一つとなり、反革命運動の根源ともなった。これは1794年に廃止されるが、ローマ・カトリック教会とのフランスとの敵対、およびフランス・カトリック教会内の分裂は、1801年7月16日のナポレオン体制におけるコンコルダートで和解がもたらされるまで続いた。

矢田堀鴻(1829~1887)

幕府海軍エリートの挫折 1862年は、幕府外交において多難な年だった。坂下門外の変、生麦事件が起こり、国内に攘夷感情が沸騰する中、イギリスをはじめとする諸外国との折衝は困難をきわめる。生まれたばかりの幕府海軍は、艦船とそれを運用する人員の不足に苦闘しつつ、目前の課題に対応する必用があった。前年から引き続いた小笠原諸島の開発、船舶安全運航のための沿岸測量などに従事する一方、この年、榎本武揚をはじめとする士官級から水夫までを、オランダ留学に送り出した。さらにこの年の暮れから翌年にかけては、将軍後見職となった一橋慶喜が上洛し、生麦事件賠償問題での緊急連絡や、イギリスとの対応に、数少ない幕府軍艦は度重なる出動を求められ、矢田堀は多忙をきわめた。

島井宗室(1539~1615)

文禄・慶長の役 信長の死後に台頭した豊臣秀吉の保護を得て、畿内から博多、さらには対馬にいたる交通路を築き上げ、これによって南蛮・朝鮮などの貿易品の取引を行ない栄華を極めた。また秀吉の九州征伐にも協力している。天下統一後、秀吉が朝鮮出兵を企むと、大切な通商国と戦争するという利害からこれに強硬に反対し、宗義智や小西行長と協力して渡朝し、朝鮮国王と戦争回避を図る折衝を行なった。しかしこれは空回りに終わったうえ、秀吉の派兵後も撤兵を強硬に主張したため、遂に秀吉の怒りを買って蟄居を命じられた。後に許された後は、五奉行の石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方で、明との和平の裏工作を行ない、その後はまた海外貿易により、豪商として莫大な富を蓄積し、諸大名に金を貸し付け、上方では貿易で手に入れた珍品や茶器などを売り利益を得た。しかし江戸時代に入ると宗湛と同じく家康からは冷遇された。

高野岩三郎(1871~1949)

憲法草案要綱 戦後、鈴木安蔵、森戸辰男、馬場恒吾らと憲法研究会を設立、「憲法草案要綱」発表。高野は最長老として最も過激な意見を述べたと言われる。この憲法草案要綱は、のちに連合国軍最高司令官総司令部で憲法草案をつくる際に参考とされ、日本国憲法との類似点が指摘される。高野はこれとは別に大統領制・土地国有化などを盛り込む日本共和国憲法私案要綱を発表。自身の所属する憲法研究会を含め、天皇制存続を容認する潮流を「囚われたる民衆」と称して批判、天皇制廃止を主張した。1946年日本放送協会第5代会長。1948年日本統計学会初代会長。日本社会党の顧問でもあった。

高碕達之助(1885~1964)

電源開発総裁就任 1952年、当時の内閣総理大臣・吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁に就任した。当時、最も工事が進んでいるといわれた木曽川の丸山ダムを視察し、大量の人員や重機があるのに半分ほどしか動いていなかった現場を目の当たりにした高碕は、技術者を引き連れてアメリカのダム建設の視察に向かった。カリフォルニア州のパインフラットダムの建設現場では舗装された道路に巨大な重機が無駄なく動き回っていた。高碕は佐久間ダムにアメリカ式の導入を決めた。当初は難工事が予想され10年の工期が見込まれた工事を大型重機を使い3年で完成させた。この工事はその後の土木事業に大きな影響を与えた。その他にも、只見川の田子倉ダムや庄川の御母衣ダムの事業計画などに携わり、1954年に総裁を辞した。また、総裁職を降りた後も御母衣ダムの建設反対派住民との対話を続けて住民の理解を促し、建設に際しては「荘川桜」の保全を提案するなど、御母衣ダム建設事業では大きな役割を果たした。

ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777~1836)

ワーテルローの戦い 1815年のワーテルローの戦いは、ナポレオンが勝てばイギリスのコンソル公債は暴落し、イギリスが勝てば逆に高騰するだろうと言われていた。ネイサンはロスチャイルド家の素早い情報伝達体制を駆使して、いち早くイギリス勝利の情報を掴んだ。ロスチャイルド家の優れた情報収集体制は金融界に知れ渡っていたから、みなネイサンの同行を注視していた。そこでネイサンはまず公債を売った。それを見た他の投資家たちはイギリスの敗戦を確信し、一斉に売りに入った。公債が暴落したところでネイサンは急遽莫大な量の買いに入った。イギリスの勝利の報告が入ると公債は急騰し、ネイサンは莫大な利益を上げることに成功した。これは「ネイサンの逆売り」として伝説化した。

シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ(1734~1802)

ロイヤル革命 1783年にネッケルの後任として財務総監に就任したが、財政を根本的に変革させなければ、国家は破産してしまうという状態まで追い詰められ、特権身分の免税を廃止して課税の平等を実現しようとした。現在、この骨太い改革の試みはルイ16世の「ロイヤル革命」とも呼ばれている。これらは特権階級の利益を著しく侵すものなので反対され、実現しなかった。そのため1787年、名士会を召集してその支持を得ようとしたが、強硬な反対を受けて失脚。ロメニー・ド・ブリエンヌに財務総監を譲り、イギリスに亡命した。

ミカエル2世(770~829)

トマスの反乱 即位直後、スラヴ人トマスが反乱を起こした。トマスの側には海のテマであるキビュライオタイが参加するなど鎮圧に手間取るものの、ミカエル2世は第一次ブルガリア帝国を味方につけることで824年にこれを鎮圧した。しかしトマスの反乱によって艦隊がダメージを受けたことなどもあって、地中海におけるイスラーム勢力の侵攻に迅速に対応することができなかった。827年頃にはシチリア島で起きた反乱に乗じて北アフリカのアグラブ朝がシチリア島の攻略を開始する。また同じ頃クレタ島もアレクサンドリアからやって来たイスラーム教徒の侵略を受けた。

チャールズ・リー(1732~1782)

アメリカ独立戦争 植民地での戦争が避けられそうになく思われた時、リーは植民地軍に志願した。大陸軍が結成されるとき、リーは最も軍歴が豊富なので当然自分が最高司令官に任命されるものと思っていた。しかし、リーはイギリス生まれであり、一風変わっていて、身なりもみずぼらしく、言葉遣いは粗く、何より悪いことに給与を求めていた。反乱軍に加わることでリーのイングランドにあった財産がすべて没収され、その代償を求めていた。対してワシントンは、まじめで、しっかりとしており、冷静で、そして何よりも良いことに大陸会議が経費さえ払ってくれれば給与なしで働くと言っていた。ワシントンは政治的な駆け引きもうまく、南部出身の指揮官は当初2人1組でニューイングランドの軍隊を指揮するようにした。ワシントンが総司令官に選ばれ、リーはそれに次ぐものとして少将になった。リーは大陸軍の中では2番目にあると思っていたが、実際には健康状態が良くなかったもののアートマス・ウォードが2番目の指揮官ということになった。

ウィリアム・クラーク(1770~1838)

インディアン問題 その後クラークには市民軍の准将に指名され、1807年にはルイジアナ準州において、強制移住を拒むインディアン部族に対する政策の最高責任者に就任した。クラークはミズーリ州セントルイスにインディアン問題を管理するため本部を設置した。1813年にミズーリ準州が新設されると、クラークは初代知事として指名を受けた。米英戦争ではいくつかの軍事作戦で指揮を執り、現在のウィスコンシン州地域に最初の基地を設置した。

バルダッサーレ・カスティリオーネ(1478~1529)

宮廷人 1506年5月のウルビーノ宮廷の4日間を描写するという設定になっている。ウルビーノ公グイドバルドは病弱のため早く寝てしまうが、公妃エリザベッタを中心に、養子のフランチェスコ、メディチ家のジュリアーノ、プラトン学者のピエトロ・ベンボ、詩人のアレティーノら20人あまりが登場し、宮廷人の要件は何か、宮廷人の備えるべき教養、宮廷の女性について、愛についてなどをテーマに様々な対話が繰り広げられる。

ヘンリー・スペンサー・アシュビー(1834~1900)

我が秘密の生涯 作者、すなわち一人称の主人公「ウォルター」は、イギリスの実業家でエロティカ蒐集家でもあったヘンリー・スペンサー・アシュビーであるとする説が最有力である。主人公の性癖とその性的体験の遍歴を幼児期から晩年に至るまで記述した内容で、当時のヨーロッパ、およびヴィクトリア朝時代のイギリス社会の性的側面の実相を社会学的、歴史的につぶさに知ることもできるものである。

ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルト(1784~1817)

発見から死まで シリア滞在中にブルクハルトはレバノンダマスカスパルミラを訪れ、この地域の一連の探検旅行を行った。今日のヨルダンにあたる地域でこうした旅行の一つから千年近く発見されていなかったペトラの大規模で珍しい遺跡の「発見」につながった。この発見の衝撃に満足できず、ニジェール川の水源を明らかにする当初の目的を遂行することにした。従って1812年にリビアのフェザーンに向かうキャラバンに加わる目的でカイロに行った。

早良親王(750~785)

親王禅師 種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師に後事を託したことをされること、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたことなどが伝えられている。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。

大津皇子(663~686)

万葉集 あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを 大船の津守の占に告らむとはまさしく知りて我が二人寝し

ラナルド・マクドナルド(1824~1894)

密入国 日本の英語教育は幕府が長崎通詞6名に命じた1809年により始まっていたが、その知識はオランダ経由のものであったことから多分にオランダ訛りが強いものであった。マクドナルドの指導法は最初に自身が単語を読み上げた後に生徒達に発音させ、それが正しい発音であるかどうかを伝え、修正させる、というシンプルなものだった。彼もまた覚えた500の日本語の単語をメモして残しており、周囲の日本人の殆どが長崎出身ということもあって、それらの単語の綴りは長崎弁が基本となっている。また、マクドナルドは日本人生徒がLとRの発音の区別に苦労していることにも言及している。

フォード・マドックス・ブラウン(1821~1893)

ロミオとジュリエット

ドディー・スミス(1896~1990)

ダルメシアン100と1ぴきの犬の物語~101匹わんちゃん~ ロンドンの外れにあるフラットに住む売れない作曲家ロジャー・ラドクリフの飼い犬のボンゴは、ある日退屈を持て余して自分と飼い主の伴侶探しを始める。すると、パーディタというメス犬とその主人のアニータに一目ぼれし、ロジャーを散歩に連れ出してパーディタたちを追いかける。その結果起きたトラブルがきっかけで、ロジャーとアニータ、ボンゴとパーディタは結婚することになり、ロンドン市内の新居へ移り込むと同時にメイドのナニーがやって来る。そこへアニータの旧友のクルエラ・ド・ヴィルが現れ、子犬が生まれたらすぐに知らせるよう告げて立ち去っていく。元々クルエラが大嫌いなパーディタの不安そうな表情に、ボンゴは大丈夫だと励ましながらも胸騒ぎを覚える。

ウスマーン・イブン・アッファーン(574~656)

『コーラン』の編纂事業 644年、カリフとなったウスマーンはムハンマドの教えとして伝えられたことがらを整理、統一する必要を感じ、『コーラン』としてまとめる編纂事業を開始した。現在見るコーランはこのとき原型が作られた。征服活動が一段落したこの時代は、前代のウマルの時に戦利品の分配方式から俸給に切り換えられたことや、ウスマーンがウマイヤ家の出身者を優遇したことなどから不満がおこり、戦士の反乱軍が首都メディナでカリフ・ウスマーンを殺害するという事件が起き、イスラーム国家は最初の試練を迎えた。

ロバート・シャーマン(1925~2012)

小さな世界 世界中どこだって笑いあり涙ありみんなそれぞれ助け合う小さな世界世界はせまい世界はおなじ世界はまるいただひとつ世界中誰だってほほえめば仲良しさみんな輪になり手をつなごう小さな世界世界はせまい世界はおなじ世界はまるいただひとつ世界はせまい世界はおなじ世界はまるいただひとつ

カナーン・バナナ(1936~2003)

大統領として 1960年代、党のメンバーの多くが逮捕されていく中、バナナは家族と共に先ずはボツワナ、それから日本に逃れ関西大学で学んでいる。アメリカに亡命し1975年まで帰国することができなかった。バナナは帰国した際に逮捕されたものの1年後に釈放され、自宅軟禁状態に置かれた。一方で、アベル・ムゾレワによる活動への参加は認められていた。しかし、バナナはそれらをやめて、スミス政権打倒を掲げたロバート・ムガベからのジンバブエ・アフリカ民族同盟に加わった。ローデシアに戻った1976年、バナナはZANUの活動を助けたとして再び逮捕される。1979年、最後のイギリス人統治者となったクリストファー・ソームズにより、釈放された。

マンラーイ(1238~1317)

ハリプンチャイの攻略 マンラーイは、チャオプラヤー川支流のピン川沿いにある都市国家・ハリプンチャイから来たモン族商人から「莫大な利益をもたらす中国との貿易は、内陸部よりはむしろ、大量に輸送が可能な商船が来やすいタイランド湾に通ずるチャオプラヤー川の支流を掌握した方が良い、つまり、上流から運べばチャオプラヤー下流に来ている中国船と商売ができる」という話を聞きだし、ハリプンチャイの領有を画策する。

クリスティーナ(1626~1689)

人柄と後世の評価 ヴォルテールがたびたびクリスティーナを自著で扱い、「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである。新教徒は彼女を苦しめた。ルターを信じないかぎりすべての徳は無意味であるとさえ考えられる有様である。一個の自由思想家にすぎない女性の改宗を促すことは教皇にとって易々たる仕事であったに違いない」と賞賛している。しかし、フォンテーヌブローで家臣のモナルジテを殺させたことについては、「王位を賭して自身の哲学を実践しながら、この残忍かつ破廉恥な行為で、せっかくの哲学を台無しにしてしまった」と非難をしている。

ケイシー・ジョーンズ(1863~1900)

イリノイ・セントラル鉄道事故報告書 A.S.サリバンによるイリノイセントラル鉄道の公式事故報告書は1900年7月13日に発表されたが、「ニューベリー旗手による信号を機関士が見落としたもので、責任は一にジョーンズになる」とされた。ジョーンズが衝突した南行第83貨物列車の旗手であるジョン・M・ニューベリーは、3,000フィート手前の線路上に信号雷管をセットし、さらに500ないし800フィート南に進み、そこでジョーンズの列車に対して旗を用いた信号を送ったという。しかしニューベリーによるこの証言には裏付けとなる証拠はなく、本当はそこにいなかったのではないかと考える者もいる。旗の振り方がまずかったのではないかと考える者もいたが、ニューベリーが旗手として充分な経験を持っており、直前には第25列車に信号を出して停車させている。

ギルフォード・ダドリー(1535~1554)

虜囚 ジェーンが即位宣言をした7月10日、エドワード6世の長姉メアリー王女からの、今や自分が女王となったので枢密院に臣従の誓いを要求する、と主張する手紙がロンドンに届いた。イースト・アングリアに滞在していたメアリー王女のもとには支持者が結集していた。何度かの議論の後、ジェーン女王は、父サフォーク公爵の反対にもかかわらず、メアリー王女の陣営に兵を送り込むことに同意した。ノーサンバーランド公爵は軍勢を引き連れてケンブリッジに進軍してから、7月20日にロンドンの枢密院がメアリーを正統な女王と宣言するまで、1週間のあいだ動かなかった。ノーサンバーランドは慌ててメアリー女王に忠誠を誓ったが、翌7月21日の朝に逮捕された。7月20日、ロンドンで枢密院がメアリー女王即位を宣言する数時間前に、ジェーンはある王室儀仗兵の息子の洗礼の代母を務め、その子に夫ギルフォードの洗礼名を授けた。ロンドン塔に長いあいだ幽閉されていたカトリック支持派のウィンチェスター司教スティーヴン・ガーディナーは、この話を聞きつけると、激しくこれを非難した。

ウィリアム2世(1060~1100)

ウルバヌス2世との対立 しかし、父程の器量を持ち合わせていなかったウィリアム2世は、即位2年後に後見役のランフランクが亡くなると放蕩・乱脈の限りを尽くすようになった。また、ランフランク死後13年たって任命したカンタベリー大司教のイタリア人アンセルムスの解任をめぐって、教会領を没収しローマ教皇ウルバヌス2世と対立した。

島倉千代子(1938~2013)

1980年代 1987年、『人生いろいろ』を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と”紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ。出場辞退表明の記者会見で若手記者から「結局、落選するのが怖かったということですか」と辛辣な質問をされ、「その通りです」と返答した。『紅白50回』のインタビューで本人は「辞退は前年の時点で決めており、前回身に纏った白色の着物はその表れだった」「ここ数年紅白に出られるか出られないかで不安だった。もし落選したらショックで歌えなくなると思った。そのため、余力のあるうち辞退しようと思った」と語った。島倉は出場辞退をこの年発売の『人生いろいろ』の作曲者で当時療養中の浜口庫之助に報告したところ、「紅白で『人生いろいろ』が聞けないのか」と返されたことを明かしている。

霧島昇(1914~1984)

誰か故郷を想わざる 花摘む野辺に日は落ちてみんなで肩を組ながら唄をうたった帰りみち幼馴染のあの友この友ああああ誰か故郷を想わざるひとりの姉が嫁ぐ夜に小川の岸でさみしさに泣いた涙のなつかしさ幼馴染のあの山この山ああああ誰か故郷を想わざる都に雨の降る夜は涙に胸もしめりがち遠く呼ぶのは誰の声幼馴染のあの夢この夢ああああ誰か故郷を想わざる

メアリー・ノートン(1903~1992)

小人の冒険シリーズ 小人のアリエッティとその両親の一家は、イギリスの田舎の民家の床下で、人間から借りたもので生活する借り暮らしをしていた。しかし好奇心旺盛なアリエッティが人間の少年と知り合ったことで、その住処が見つかり、煙で燻り出されてしまう。アリエッティたちは新しい住処を求めて冒険の旅に出る。

カール・ベーム(1894~1981)

ベームの演奏 演奏に対して非常に厳しい態度で臨むことから、ソリストやオーケストラ団員からは、愛されるというよりむしろ怖れられていた。弱冠20歳と4ヶ月でウィーン・フィルのコンサートマスターに就任したライナー・キュッヒルは「天皇様のように怖かったです」と回想している。オーケストラの調子のいかんに関わらず組まれた予定通りに稽古に打ち込み、抽象的、詩的な表現を用いずに基本的なリズム、ダイナミクス、音程などを鋭く指摘し、音楽の土台をがっちりと固めようとする練習は、練習嫌いで知られたウィーン・フィルから反感を買うことしきりであったと言われる。また、非常に率直に、そしてやや毒舌を交えながら楽員に注意を与えるのが常であり、楽団員には意地悪にさえも映ったこともある。