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劉裕(363~422)

土断法の実施 劉裕は東晋の実権を握ると、413年に土断法を実施した。これは、華北から江南に移住して、戸籍に登録されず、課税も課せられないでいた人々を戸籍に登録して、課税の平等化と同時に収入増を図ったものである。

ジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789~1851)

モヒカン族の最後 「皮脚絆物語」はの共通の主人公であるナティー・バンポーは、ここでは「ホークアイ」の名で登場する。フレンチ・インディアン戦争の時代のニューヨーク州の舞台として、イングランド軍の隊長マンロウと、その黒人との混血の娘コーラ、白人との娘アリスに、ダンカン・ヘイワード少尉が登場する。またモヒカン族のチンガチグックとその息子アンカスが、彼らの味方である。敵方はヒューロン族のマグアを中心として、敵味方に別れての戦いが描かれている。のちの西部劇に近いものがあり、インディアンの部族については混乱が見られて明確ではなく、デラウェア族などというのも現れる。原題は「モヒカン族の最後の人」という意味で、アンカスのことだが、日本では一貫して「モヒカン族の最後」と訳されてきた。

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(1471~1529)

ビジャープル王国との戦い ガジャパティ朝との戦いが終結したのち、同1516年にはゴールコンダ王国との戦争が行われたが、1519年から1520年までビジャープル王国との直接対決に突入した。当時西海岸にはポルトガル勢力が進出してきていたが、これに対してマラバール海岸への進出を黙認するかわりに、ビジャープル王国からライチュール地方を取り戻すための協力と、アラビアからの馬の補給を確保していた。

キャサリン・オブ・アラゴン(1487~1536)

ヘンリー8世との再婚~王妃として~ 1509年4月27日、ヘンリー7世が崩御した。王位を継承した18歳の若き国王ヘンリー8世は、キャサリンとの結婚しか念頭になく、枢密院での議論を無視し、父王の喪が明けぬ6月11日に立会人1人だけの結婚式を強引に挙げる。こうしてキャサリンはイングランド王妃となり、6月30日に戴冠式が執り行われた。ヨーロッパ政治の中心は、神聖ローマ帝国とフランス王国であり、ヘンリーはハプスブルク家側に付いて国際社会における地歩固めをする意義があった。

フリードリヒ・シュライアマハー(1768~1834)

思想~解釈学~ 解釈とは、異質な言説の「理解」であるが、文献学における解釈の対象はギリシャ・ローマの古典に限られ、アルトによれば、古代ギリシャ・ローマ時代の作家の思想を、後の時代に生きている者が理解できるのは、二つの時代をつなぐ共通の「精神」があるからあり、文献学的教養を積むことによって二つの時代の異質な言説の差異は解消されるとされていた。

アルフレッド・アドラー(1870~1937)

アドラー心理学 アドラーが自分の心理学について個人心理学と呼んだように、アドラー心理学では、個人をそれ以上分割できない存在であると考えることから、人間の生を、個人という全体が個人の必要な機能等を使って目的に向かって行動している、というふうに考えている。より具体的には、人間は相対的にマイナスの状態から、相対的にプラスの状態を目指して行動している、と考えている。

賈詡(147~223)

曹操の参謀 200年、官渡の戦いで袁紹軍の許攸が降伏し、烏巣に宿営している袁紹軍の兵糧輸送隊の守備が手薄なことを暴露して、そこに奇襲をかけるよう進言してきた。曹操の側近たちの多くが許攸の発言を疑ったが、賈詡は荀攸と共にこの意見を支持した。曹操は彼らの意見に従い、自ら歩騎5千人を率いて奇襲を成功させ、烏巣の袁紹軍を大破した。後に、曹操が冀州を平定し牧となると、賈詡は太中大夫に転任した。

于禁(不明~221)

晩節を汚す 219年、曹操が長安にいるときに、劉備軍の関羽が北上し曹仁の守備する樊城を包囲した。于禁は援軍の将として七軍を率いて出陣した。この時、漢水を遡るつもりで船を用意していた関羽に対し、陸路を伝わってきた于禁らは船を持っていなかった。そこに漢水の氾濫が発生したため、于禁ら七軍が水没し、于禁は率いていた3万の兵と共に関羽に降伏して捕虜となった。同じ頃、樊城の北に駐屯していた龐徳も水没して関羽に捕らえられたが、降伏せずに曹操への忠義を貫いて打ち首となった。

諸葛誕(不明~258)

諸葛誕の乱 正史には、征東大将軍に転任後、夏侯玄などと親密な間柄であったこと、同じ立場であった王淩や毌丘倹が滅ぼされたことから、司馬一族から誅殺されることを恐れ不安になっていたとある。任地で施しを行い民の信頼を集め、屈強な者を選び私兵にしたのも、また256年に呉の侵攻に備えるため10万の兵の増強を要請したのも、正史では諸葛誕が自分の立場を確保するための行為だったと断じている。

アリウス(250~336)

アリウス派 キリスト教がローマ領内で広がっていく過程で生まれた教義の一つで、アリウスはアレクサンドリア教会の長老であった。彼は、神の本性はいかなる分割もありえないものであるから、キリストは神から放射されたもの、したがって神に従属するものでなければならない。キリストの本性は、神聖ではあっても、神性ではありえない、その本性は神の本性とは異質のものである、と主張した。つまり、平たく言うと、イエスはやっぱり人だった、ということ。前325年のニケーア公会議で異端とされたためローマ領から追放され、主として北方のゲルマン人に布教されていった。そのわかりやすい教義は、ゲルマン人の土俗的な信仰と合体して独特なキリスト教となっていく。

マクセンティウス(278~312)

皇帝在位中 307年の夏、マクセンティウスと父マクシミアヌスとの共同統治はさらに大きな試練を迎えた。ガレリウス帝がより大きな軍団を連れてローマに進軍したのである。マクセンティウスは、ガレリウス帝と交渉を重ねながらも、一方ではセウェルス帝にしたのと同様に大金の約束とマクシミアヌス帝の威光によって敵兵の寝返りを謀った。そして実際に多くの兵が寝返ったために、ガレリウス帝は退却を余儀なくされ、マクセンティウスのイタリア・アフリカ支配が確立した。この戦いの途中でセウェルス帝はマクセンティウスに殺害された。

タルクィニウス・スペルブス(不明~前495)

王として 対外的にはラティウム同盟との盟約を新たにし、ローマとラティウムの混成部隊を編成すると、ウォルスキ族や近隣都市ガビイとの戦争を始め、ガビイの守りが堅いと見るや、息子セクストゥス・タルクィニウスを使った計略でもって手に入れた。そうして国外が安定した所で、今度はユピテル神殿や下水道の建設事業に市民を酷使し始めた。

ムカンナア(不明~783)

ムカンナアの乱 アル=ムカンナアはクラミーヤの形成に尽力し、現地の農民とトルコ人部族民が信奉者として多数集まった。776年にアブー・ムスリムをマフディーであると主張していたアル=ムカンナアと彼の信奉者は反アッバース朝を掲げ周辺の他のイスラーム教徒の街やモスクを襲撃し略奪をはじめたので、アッバース朝は反乱を鎮圧するために軍隊を派遣しそれを鎮圧した。

アル・ラーズィー(854~925)

四体液説~アラビア・ヨーロッパへの伝播~ 東ローマ帝国で異教徒・キリスト教異端が迫害され、学者たちがサーサーン朝ペルシャに亡命したことから、四体液説をベースとしたギリシャ・ローマ医学はアラビアに伝わり、ヨーロッパではその多くが失われた。また、同じく体液病理説に基づくインド医学も、多くの文献がアラビア語に翻訳され影響を与えた。ギリシャ・ローマ医学に各地の医学を集大成した「ギリシャ・アラビア医学」は、アル・ラーズィー、イブン・スィーナーなど、多様な民族・宗教の学者たちによって発展した。

イスマーイール・サーマーニー(849~907)

サーマーン朝の全盛期 893年、カルクーク・テュルクの拠点であったタラズを落とすと同時に、ウストゥルシャナ朝を滅ぼすことに成功した。この時期に、イスマーイールとサーマーン朝の統治者たちは30,000のテュルクの帷幕をイスラームに改宗させている。イスマーイールは周辺の部族の協力を得ることで中央アジア一帯へ勢力を拡大することに成功した。北への勢力拡大に貢献したのはホラズムであった。

フナイン・イブン・イスハーク(808~873)

独自の研究 フナインは、哲学、宗教、医学を含むさまざまな主題の本を執筆した。アラビア語の文法や辞書の編集方法についての本もある。『いかにして宗教を把握するか』と題した本においては、フナインは、奇跡などの宗教の真実が、おそらく人間によって作られるのではなく、人間がいくつかの現象に関する事実を説明出来ないことによって作られるものであると述べ、宗教に対して後ろ向きの気持ちになって増長するのは誤りであると述べた。

ミェシュコ1世プロントノギ(1130~1211)

モズガヴォンの戦い 1195年、ミェシュコ1世と甥ヤロスワフは、ミェシュコ3世のクラクフ公国及び長子権を回復しようとする試みを支援し始めた。カジミェシュ2世が未成年の息子達を残して死ぬと、マウォポルスカを奪取する機会も生じた。しかし、宮中伯ミコワイに率いられた都市クラクフとサンドミェシュの貴族達は、カジミェシュ2世の長男レシェク1世を新しい大公として迎えようと考えていた。

ボレスワフ1世ヴィソキ(1127~1201)

シロンスクの遺産の回復 ボレスワフの忠実な働きがやっと1163年に報われ、フリードリヒ1世はドイツのニュルンベルクで合意文書に署名して外交ルートを通じ、シロンスクの遺産をヴワディスワフ2世の直系に返還させるよう取り計らった。ボレスワフ4世がこの時亡命した王子の帰還を認めることに同意した理由は、ヴワディスワフ2世の死後、彼の息子と彼の支配に直接影響を及ぼしていたポーランドの支持者は帝国の支持を重要視していたので、フリードリヒ1世をポーランドから遠ざけるためであった。

ヴワディスワフ・オポルチク(1332~1401)

ヨガイラとの衝突 1382年9月10日、ヴワディスワフの庇護者であったハンガリー王兼ポーランド王ラヨシュ1世が崩御した。ヴワディスワフは最初は亡き王の娘達を推していたものの、やがて自らポーランド王位の後継候補に名乗りを挙げた。しかしポーランド貴族達は彼を支持せず、ラヨシュ1世の末娘ヤドヴィガを即位させた上で、彼女にドイツ人の許婚との婚約を破棄させた。ヤドヴィガの夫という形で、プウォツク公シェモヴィト4世をポーランド王にしようと考えたのである。その後、シェモヴィト4世に代わってリトアニア大公ヨガイラが王に選ばれた。

クンワル・シング(1777~1858)

インド大反乱において 1857年5月、インド大反乱が勃発すると、クンワル・シングは80歳の老齢にもかかわらず、イギリス打倒に立ち上がった。彼はビハール地方の反乱軍を指揮し、シヴァージーのようにゲリラ戦を展開し、イギリス軍を大いに苦しめた。クンワル・シングはビハール各地を転戦していたが、1857年12月にはラクナウに到着し、1858年3月まで反乱軍とともに戦った。ラクナウ陥落後、同月にはアーザムガルを占領した。だが、イギリスによってアーザムガルは奪還され、クンワル・シングは本拠地ジャグディーシュプルへと帰還した。

フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743~1819)

無神論論争 汎神論論争のうち、14年後の1799年にはヨハン・ゴットリープ・フィヒテのイェナ追放を巡り、無神論論争が起こった。このときヤコービはフィヒテと思想を͡異にしつつも、不当な追放を非難し、フィヒテを弁護した。なお、このやり取りの中でフィヒテの考えがニヒリズムであるということを指摘した。ドイツ語でのこれが、ニヒリズムという用語の哲学的な使用としての起源である、というのが通説である。因みに、1733年にFriedrich Lebrecht Goetzがこの語をラテン語で原子論批判の文脈で既に用いている。

イヴァン・クルィロフ(1769~1844)

寓話 全203編のクルィロフ寓話は、「烏と狐」「二羽の鳩」「ライオンと狐」のようにイソップやラ・フォンテーヌから、また、「隠者と熊」「潜水夫」のようにインド寓話から題材をかりたものの他は、大半が創作である。1788年にクルィロフが訳したラ・フォンテーヌ3編を読んだ、当時高名な寓話作家ドミートリエフのすすめが、寓話執筆のきっかけとなったらしい。ラ・フォンテーヌ以降の芸術作品としの寓話を発展させ、冬の詳しい描写を加えたクルィロフの物語はロシアの風土に密着し、登場する動物たちさえロシア人の風貌を備えているといわれる。

ヴァルデマー4世(1320~1375)

ハンザ同盟~対デンマーク戦争~ 14世紀、デンマーク王国のヴァルデマー4世再興王は王権の強大化とデンマーク領の拡大に邁進していた。1360年にはスウェーデン南部、1361年にはハンザ同盟都市のヴィスビューを占領した。ヴィスビューはハンザ同盟にとって重要な拠点であり、そこが奪われるということは死活問題だった。そのためハンザ同盟都市はデンマークに対して開戦する。デンマークの積極的な膨張策に脅威を抱いていたノルウェー王国、スウェーデン王国、シュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン伯国、ドイツ騎士団などもハンザ同盟に味方した。

アナクサゴラス(前500~前428)

宇宙論 ヌースが原因となって、原始の混合体は回転を初めた。回転はある一点から始まり、遠心分離のような作用によって徐々に広がった。やがて認識可能な実体を形取るようになり、現在のような宇宙となった。だがこの出来事が完全に行われた後にも、原始の混合体は完全に圧倒されたわけではなかった。この世の何一つ、他の物からぶっつりと分かれてしまうようなことはない。

アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(1611~1675)

オランダ侵略戦争 ルイ14世がオランダへの報復から引き起こした1672年のオランダ侵略戦争でもテュレンヌはルイ14世と共に進軍、北上してライン川を越えてオランダ諸州を荒らして大半を制圧した。しかし、オランダは洪水線を活用して堤防を決壊、国内を水浸しにしてフランス軍の進行を遅らせ、民衆が政変を起こして指導者コルネリス・デ・ウィットとヨハン・デ・ウィットを殺害してオラニエ公ウィレム3世を擁立した。ウィレム3世もフランスの後方を脅かしたり神聖ローマ帝国諸侯やスペインと同盟を結び徹底抗戦、ルイ14世は戦線停滞を見て指揮を放棄して現場を離れた。

ベルナール・フォントネル(1657~1757)

世界の複数性についての対話~第一夜~ 夕食後、庭園を散歩中の侯爵夫人は、「私は星が好きで、太陽が星を消し去ってしまうのを、とかく恨みたくなるのですよ」と話す。フォントネルは、「私もこのすべての世界を見えなくしてしまう太陽を許しませんね」と答える。「すべての世界」という言葉に興味を持った侯爵夫人は、フォントネルに、もっと詳しい話を聞かせてほしいとせがむ。

サミュエル・ジョンソン(1709~1784)

英語辞典 この時代の辞典に不満があったロンドンの本屋業界が1746年6月18日の朝 1,500ギニーでジョンソンと執筆依頼契約した。こうして生まれたのが『英語辞典』である。編纂にあたりパトロンとしてチェスターフィールド卿を頼ったが断られ、独力で完成させた。

バージー・ラーオ(1700~1740)

ムガル帝国領への遠征と領土拡大 ニザーム王国との戦闘のうち、バージー・ラーオはムガル帝国の北インドの領土に対し、長期的な遠征に開始した。その目的は帝国の北インドの広大な領域を獲得し、チャウタを徴収する権利を帝国の官吏に認めさせ、その領域を同盟に割譲させることだった。

チャールズ・モンロー・シュルツ(1922~2000)

ピーナッツ~日本におけるピーナッツ~ 日本ではアメリカンコミックスの刊行を行っていた出版社・鶴書房が、1967年に谷川俊太郎による翻訳で単行本を刊行したのが始まりである。鶴書房が倒産した後は角川書店が版権を引き継ぎ、谷川以外にさくらももこ、鷺沢萠、関根麻里らによる翻訳がある。また、ジャーナリストの廣淵升彦は、『ピーナッツ』に関する優れた論考を著している。

隠者ピエール(1050~1115)

第1回十字軍 諸侯の部隊がコンスタンティノープルに到着するとピエール一行も合流し、1097年エルサレムに向けて出発し小アジアを横断し始めた。ピエールの軍勢はクルチ・アルスラーン1世らの伏兵でほとんど失われていたものの、ピエールの権威は十字軍内の武装していない庶民、けが人、破産した騎士らのあいだでは高く人気も絶大だった。ピエールは何度か説教を行い十字軍を鼓舞するものの、パレスチナに向けて小アジアとシリアを横断する過程での役割は補助的なものにすぎなかった。

コンスタンティノス4世(650~685)

第3コンスタンティノポリス公会議 キリストには神の意志と人間の意志の二つの意志が共存していたという両意説を否定した単意説はキリストには神の意志のみあるとした。これはもともと単性論主義者との和解をはかるために提示された思想であったが、カルケドン公会議の思想こそ基準と考える人々を納得させることができなかった。東ローマ皇帝コンスタンティノス4世はカルケドン公会議の打ち出した線に立ち返ることで事態を収拾しようとした。既にイスラーム軍の侵攻によって、東ローマ帝国は単性論が支配的だったシリア・エジプトといった領土を失っており、単性論に配慮する必要もなくなっていたのである。

平城天皇(774~824)

平城天皇の来歴 上位にも反対していた仲成・薬子兄妹の強い要請を容れ、810年9月6日、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。しかし嵯峨天皇側に機先を制され、10日には嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪。平城上皇側はこれに応じて翌11日に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髪して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。高岳親王は皇太子を廃され、大伴親王が立てられた。これを薬子の変と呼ぶ。

隆達(1527~1611)

隆達節 12世紀の末に中国から筑前国博多に渡来した劉清徳の子孫と伝えられる。その後和泉国堺に移り薬種問屋を営み高三を姓とした。堺の日蓮宗顕本寺に庵室を造立して隠居所とした高三隆喜を父とする。隆達は幼くして顕本寺で出家し、父の庵室を引き継いで高三坊・自在庵と号した。連歌・声曲・書画などに秀で、当時流行していた小歌を集め、自ら作詞・作曲を行い独特な声調の隆達節を大成した。1590年兄の隆徳が没し、嗣子の道徳が幼かったことから、還俗して道徳の後見人となり家業の薬種業を後見した。書でも一家を成して堺流と称され、豊臣秀吉に召しだされたと伝えられている。

ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)

日蘭関係におけるドゥーフの貢献 ドゥーフの祖国オランダは、フランスによって倒されたことにより、日本と直接の貿易が出来なくなった。そのため、ドゥーフ達長崎のオランダ人の立場は微妙な物となった。鎖国政策を採っている日本の立場に立てば、利益を生み出さない外国人を国内に留めておく理由がないからである。

ウィレム2世(1792~1849)

鎖国~「開国」までの動きと「鎖国」の終焉~ 1844年8月14日、オランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王ウィレム2世の将軍宛の親書を携えていた長崎に入港。この親書はシーボルトの起草によるもので、開国を求めたが幕府はこれを拒否した。

伊達成実(1568~1646)

出奔 ところがその後、伏見に居た成実は突如として伊達家を出奔し、角田城は政宗の命を受けた岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収され、この際に抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、成実の家臣団は解体された。なお、成実の妻子が角田城接収にあたり、景頼によって殺害されたというのは全くの誤りである。上記の通り、成実の正室・亘理御前は既に他界しており、この時点で他に妻子が存在したことを示す史料も存在しない。

足利義栄(1538~1568)

畿内入りと将軍宣下 1565年11月から三人衆と松永久秀が権力抗争を開始すると、久秀討伐令を出した。1566年6月、三人衆方の篠原長房・三好康長らに擁されて淡路国に渡海、9月23日には摂津国越水城に入城した。そして冬の12月5日には摂津国富田の総持寺に、12月7日には普門寺城に入った。

駒井哲郎(1920~1976)

束の間の幻影

前田利長(1562~1614)

利家死後 父の利家は豊臣政権において五大老の一人として徳川家康に対抗する位置にあった。1599年閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。

エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)

日本 その頃、ちょうどバンダレ・アッバースにオランダの艦隊が入港していた。ケンペルは、その機会を捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務した。その後、東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院が開業しようとしたがうまくいかず、行き詰りを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうしてケンペルはシャムを経由して日本に渡る。1690年、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在した。1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し将軍・徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳・今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した。

藤原百川(732~779)

藤原百川の経歴 白壁王立太子後右大弁に任官、光仁天皇の即位に伴い正四位下に叙せられ、翌771年には大宰帥次いで参議に任ぜられる等、要務を勤めることとなった。この頃百川と改名する。光仁天皇の百川に対する信頼は非常に篤く、その腹心として事を委ねられ、内外の政務に関する重要な事項について関知しないものはなかったという。

尊円法親王(1298~1356)

青蓮院流 和歌をはじめ世尊寺行房に学び、行房が南朝方として北国の金沢で戦死すると、その弟行尹に学んだ。小野道風・藤原行成などの上代様の書法を研究、それに南宋の張即之の書風を加味し、尊円流または青蓮院流と称される書法を作り出した。

ルドルフ・フォン・グナイスト(1816~1895)

グナイストの人物 主著は1872年に初版発行の『法治国家』。保守的で穏健な自由主義者であったが、当時の社会情勢から「国家」と「社会」の本質的対立を見出し、両者を止揚するため、行政の非党派性・専門性を重視した彼の理論は法治主義を形式的で法技術的な原理に転化するきっかけを作った。弟子はアルバート・モッセ。伊藤博文、伊東巳代治ら日本の憲法調査団にドイツ国法学を講義し、明治憲法にも影響を及ぼした。他の有名な数え子にはマックス・ヴェーバーがいる。

有栖川宮熾仁親王(1835~1895)

政府総裁 1867年1月に明治天皇が践祚すると、幟仁親王・熾仁親王父子は許されて謹慎を解かれた。当主である父・幟仁親王は謹慎解除後は政争を嫌い政治活動からの距離をおいたが、明治天皇の信任や長州等からの人望が篤い熾仁親王は、王政復古のクーデター計画も西郷隆盛や品川弥二郎から事前に知らせる。このクーデターの成功により新政府が樹立され総裁・議定・参与の三職が新たに設けられると、熾仁親王はその最高職である総裁に就任する。

岡田寒泉(1740~1816)

寛政の三博士 西丸書院番で1200石を給されていた岡田善富の次男として江戸に生まれる。兵学を村士淡斎に、闇斎学を淡斎の子である村士玉水に学ぶ。1789年に柴野栗山に続いて老中・松平定信の登用を請け、小普請から幕府儒官となる。1790年に寛政異学の禁が出ると、栗山とともに大学頭・林信敬を助けて、聖堂学問の取り締まり、朱子学の振興に努めた。栗山・寒泉に尾藤二洲を加え「寛政の三博士」と称された。

中井竹山(1730~1804)

官学化への夢 懐徳堂は父甃庵の時代に官許学問所となっていたが、竹山はさらに昌平坂学問所が官学化されたように懐徳堂を大坂にむける官立学問所とすることを夢見た。竹山の様々な努力によって懐徳堂は西日本における学問の中心地としての一角を占めるようになっており、諸大名や旗本、学者らとのネットワークの広がりによってその評判は確実なものとなっていた。

西川如見(1648~1724)

華夷通商考 西川如見は江戸時代中期の天文学者、地理学者。長崎出身で名は忠英、求林斎と号した。洋学者林吉左衛門の流れをくむ天文・暦学などを修め、1719年には将軍吉宗に天文暦学関係の著書を献じている。本書2点はいずれも彼の実用的世界地理書で、『華夷通商考』の上巻には中国地誌、下巻には朝鮮・琉球・台湾より東南アジア・南アジア・西洋諸国などに関して記し、『増補華夷通商考』の巻一と巻二は中国地誌と十五省の略図、巻三には朝鮮・琉球・台湾よりインドシナ半島や東インド諸島の記述および”地球万国一覧之図”などを収めている。巻四には南アジア諸国よりオランダ・イギリスなどに及び、巻五の”外夷増附録”は西洋諸国の他、アフリカ・アメリカ・オセアニア諸地域の地誌にあてている。

野中兼山(1615~1664)

土木事業 山田堰は、湾曲斜め堰として有名であったが1973年に上流に新たな堰ができ用済みとなり1982年に一部を除き撤去された。工事は1639年に着手し25年後の1664年に完成している。堰は、全長180間、幅6間、高さ5尺とあり築造には松材42800本、大石1100坪を用いたと言われている。

武田泰淳(1912~1976)

司馬遷~史記の世界~ この世には2種類の読者がいる。一方は頭から文言を信じてしまう妄信的な読者であり、もう一方は微細にわたって疑う読者である。武田泰淳の場合後者であり、私は前者である。司馬遷を通して彼は「天皇」であり「日本」を批判しているのではないかと、疑ってしまった。司馬遷がそうしたように彼もまた間接的に批判して憚らないのだとしたら、その企ては成功している。しかし文章が読みにくい。彼自身が逡巡してるからだと思う。基本的には賛同しかねる部分が多いのも理由。