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6月, 2019の投稿を表示しています

皆川広照(1548~1628)

小田原征伐 1590年、秀吉の小田原征伐の時、広照は北条氏照に属して小田原城竹浦口を守備していたが、同年4月8日の夜に密かに城を出て、以前より繋がりを持っていた徳川家康に投降して所領を安堵させた。広照不在の皆川城は上杉景勝らに攻められ、家臣の抵抗むなしく落城したと伝えられているが、実際にはその後の発掘調査や史実との兼ね合いから落城ではなく戦はせずに開城したと見られている。このとき正室や子息は皆川家臣・関口但馬の側近・晃石太郎と共に元皆川家臣である西山田の白石正義の屋敷に匿われていた。晃石はその後、敵に見つかり大中寺で果てた。また皆川城内にあった金の鹿が太平山に埋められたという伝説も残る。

アベベ・ビキラ(1932~1973)

東京オリンピックでマラソン初の2連覇 1964年春、アベベは軍曹に昇進した。5月にアディスアベバで1年ぶりにマラソンを走って優勝。8月の東京オリンピックの国内予選では自己2位となるの2時間16分18秒8で優勝し、代表に選ばれる。しかし、競技の6週間前に盲腸の手術を受け、ニスカネンの立てた練習のスケジュールは大きく狂った。このため、日本の代表選手のコーチたちも「アベベはマークの対象にしていなかった」とのちに語っている。アベベはエチオピア選手団の一員として9月29日に来日し、選手村や隣接した織田フィールドで毎日走った。10月10日の開会式ではエチオピア選手団の旗手を務めている。

ヴァルター・ネルンスト(1864~1941)

熱力学第三法則~ネルンストの定理~ 有限回の操作では決して、絶対零度には到達することができない、という定理。物体を冷却するにはその温度以下の別の物体と接触させる方法が一般的であるが、この場合は絶対零度以下の物体と接触させなけらばならない。しかし絶対零度より低い温度を持つ物体はないのでこれは不可能である。断熱膨張によって内部エネルギーを放出させて温度を下げる方法もあるが、限りなく絶対零度に近づけることはできても無限に膨張させることができなければ厳密な意味での絶対零度には到達できない。

カール・ボッシュ(1874~1940)

アンモニア大量生産の成功 オストヴァルト一件以降も、固定窒素の問題はボッシュの頭を離れずにいた。当時、固定窒素を作り出す方法として、電気炉を使った方法が知られていた。この方法は1902年にノルウェーのクリスチャン・ビルケランドとサム・アイデによって実行された。BASFでもこの方法を試していて、ボッシュもガラスの装置を自作するなどして関わっていたが、この方法は費用の面で問題を抱えていた。そのためBASFでは他の方法を模索するようになった。そして、1902年にフタル酸工場の増設が終わって手の空いていたボッシュが中心となって、この問題に本格的に取り組むようになった。

フリッツ・ハーバー(1868~1934)

ハーバー・ボッシュ法~開発の経緯~ フリッツが取り組んだのは、空気中の窒素分子N₂からアンモニアを生成しようという試みだった。そのためにはいったん窒素分子を2個の窒素原子に分離しなければならないが、この窒素原子同士の結びつきは三重結合のため非常に強い。そのため分離させるには1000℃もの高温にしなければならないが、温度を高くすると生成したアンモニアが壊れてしまうことになる。フリッツは熱を加えてアンモニアを生成してから素早く冷やすという方法で少量のアンモニアを生成したが、それは商業的な生産を見込めるほどの量ではなかった。1905年、フリッツはこれまでの研究結果を論文として発表した。

マックス・ボルン(1882~1970)

ボルン近似 ボルン近似とは、量子力学の散乱理論における散乱振幅や遷移確率振幅を、相互作用を表すパラメータについてべき級数展開して、最初の少数項のみをとる近似方法である。マックス・ボルンにちなんで命名された。この近似は通常高エネルギー散乱に対して用いられるが、低エネルギー散乱でも散乱ポテンシャルが小さいときには有効である。

ベルトルト・ブレヒト(1898~1956)

ガリレイの生涯 全体は15景からなり、ガリレイの後半生30年が描かれる。1609年、ガリレイは学問の都ヴェネツィアで教職に就いているが、待遇が悪く研究に満足に打ち込むことができない。待遇改善のために新型の望遠鏡を大学に売り込むなどしたあと、その望遠鏡で土星の衛星を発見し、これで天動説を覆すことができると意気込む。そしてヴェネツィアを捨てて待遇のよいフィレンツェの宮廷に移るが、宮廷学者たちは望遠鏡をのぞくことすらしない。地動説を唱え続けたガリレイは、1616年になってようやく教皇庁の研究者からもその説を認められるが、まもなく研究の自由の代わりに地動説の研究の破棄を求められる。

ウサーマ・ビン・ラーディン(1957~2011)

アルカーイダを組織 その後、サウジに戻るが、湾岸戦争でアメリカ軍がサウジアラビアに駐屯したことに反発、サウジアラビアとアメリカ政府を激しく非難した。湾岸戦争終結後の1991年ひそかにスーダンに入り、建設業はじめいくつかの事業を興して資金を獲得、同時に国際的原理主義組織「アルカーイダ」の名前で、、エジプトやアルジェリアなど原理主義勢力の反米闘争を積極支援した。

ゴンドファルネス(不明~10)

ゴンドファルネスの統治 ゴンドファルネスの統治政策についてはほとんど知られていない。その勢力範囲は主に彼が発行したコインの出土状況から推測されている。またアゼス2世時代の領主がゴンドファルネスの治世にもそのまま地位にあったことが知られるなど、彼の統治体制は、土着の王に対し彼の覇権を認めさせることによって成立していたと考えられ、ゴンドファルネス死後、その領土はただちに分解を始めた。

ハッケボルンのメヒティルト(1240~1299)

イエス・キリストの聖心に対する傾倒 メヒティルトによって語られる幻視の一つによると、イエス・キリストがメヒティルトの前に現われて、情熱的に彼を愛し、そして出来る限り、聖体の中にある彼の聖心を賛美するようにと言いつけた。イエス・キリストはメヒティルトに自分の聖心を与えた。それは、自分の愛の誓約として、彼女の人生の避難所として、彼女が死を迎える時の慰めとしての意味合いを持つ。この時からメヒティルトは、並外れた情愛を聖心に持つようになった。そしてメヒティルトはこの聖心から大きな恩寵を受けたので、もし自分が、この聖心へ傾倒したことで受けた全ての好意と全ての天恵を、書き下ろさなければならないとしたならば、それは大きな本ですら収録しきることができない、とよく言うようになった。

ジェセル(生没年不詳)

ジェセル王のピラミッド~複合体~ 階段ピラミッドは単体ではなく、周辺の付属建造物とあわせてピラミッド複合体を形成していった。北側に葬祭殿、東側に王宮、及びセド祭用の神殿、南側に「南墓」、西側に巨大な倉庫があり、この複合体全体を高さ10.4メートル、東西277メートル、南北545メートルの外壁が取り囲んでいた。全体を石造で建設する建造物としてはエジプト史上初ともいえるものであり、このピラミッドの建造によってイムホテプは建築家としても名声を博した。

大久保長安(1545~1613)

徳川家臣時代 1600年、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。1603年2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。

ウダイ・シング2世(1522~1572)

チットールガル包囲戦 1567年10月、ムガル帝国の皇帝アクバルにより、首都チットールガルが包囲された。ウダイ・シング2世は帝国に服属を拒み続けており、アクバルもまたこの地を落とさなければ、ほかのラージプート諸王国に宗主権を認めさせることはできないと理解していた。

イブラーヒーム・ローディー(不明~1526)

第一次パーニーパットの戦い 第一次パーニーパットの戦いは、1526年4月21日にパーニーパットにおいて、ムガル帝国の創始者であるバーブルとローディー朝の王イブラーヒーム・ローディーとの間で行なわれた戦い。なお、戦闘は4月21日以前の小競り合いも含めている。この戦いでは、少数兵力ながら鉄砲や大砲という火器を有効に用いたバーブル軍が勝利をおさめ、バーブルによるムガル帝国が建国されるきっかけとなった。

フルク5世(1092~1143)

十字軍及びエルサレム王国時代 1120年頃、十字軍に参加したフルク5世はテンプル騎士団と共に聖地の守備に当たった。1129年にアンジュー伯をジョフロワに譲り、エルサレム国王ボードゥアン2世の娘メリザンドと結婚した。1131年にボードゥアン2世が亡くなった後、夫婦両王として共同統治したが、当初はフルクが実権を握り、フランス貴族を側近として登用した。このため現地の他の諸侯と不仲になり、1136年頃からメリザンドの影響力が強くなった。

綾御前(1524~1609)

仙桃院 上田長尾氏の長尾政景へ正室として嫁ぎ、婚約が成立したのは1551年といわれる。2男2女を生み、長男の義景は10歳で早世したが、次男の景勝は実子のなかった謙信の養子となってその跡を継いだ。また、江戸時代の軍記物の影響により、長女が畠山義春に次女が上杉景虎にそれぞれ嫁いだとされていたが、現在では長女が上杉景虎室、次女が畠山義春室というのが定説である。

馬場信春(1515~1575)

信玄時代 信玄が武田氏の当主となり、その直後から諏訪・伊那攻めが始まると、これに参加して武功を挙げた。このため信玄から、1546年に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許された。このとき、同時に50騎持の侍大将となり、名も景政から信房と改めた。

ジェームズ・ブキャナン(1791~1868)

政治経歴 1857年9月に始まった1857年恐慌は、クリミア戦争終結に伴う欧州市場での穀物価格の急落に端を発する初の世界恐慌となり、1859年の終結宣言が出された。しかし、その後も経済回復の無い状態は南北戦争まで続いた。この事も世論が彼に批判的となった理由の一つである。なお、1859年には日本の江戸幕府における神奈川奉行兼外国奉行で、日米修好通商条約批准書交換使節として渡米した新見正興と謁見した。大統領として特に実績のない彼にとっては、日本史の舞台に登場する数少ない出来事である。孝明天皇にはウォルサムの懐中時計を贈呈している。

ジョゼフ・ド・メーストル(1753~1821)

思想 メーストルは世襲君主政や教会、あるいは偏見や迷信といったものの権威を、それが合理的であるがゆえに擁護するのではなく、逆にそれが非合理的であるがゆえに擁護する。彼は徹底した反合理主義、反啓蒙主義者であり、ヴォルテールとルソーに対してあらん限りの表現で罵倒を行っている。

クリスチャン9世(1818~1906)

第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 同年にフレデリク7世が死去すると、オレンボー家は断絶し、その後継者として同家の支流グリュックスブルク家からクリスチャン9世が登極した。しかしシュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡る争いは決着しておらず、ロンドン議定書で結ばれた内容は現状維持であった。フレデリク7世が生前に布告した「継承令」には、当時の王家による両公国の継承も含まれていた。これを「11月憲法」と言うが、その条目はロンドン議定書には含まれていなかった。この盲点を突いて、プロイセン王国首相ビスマルクは、条約違反を主張し、「継承令」及び「11月憲法」の撤回を要求した。しかもビスマルクは、オーストリア帝国も誘ってデンマークに圧力をかけた。ビスマルクには、多数の住民がドイツ人であることから、同地を併合してキール港を入手し、北海とバルチック海を結ぶ運河を構築する狙いがあった。

アミール・キャビール(1807~1852)

ペルシャの近代化 その第1はオスマン帝国に滞在していた経験を生かし、軍事力の部族依存から脱し、近代化・西欧化をはかった軍制改革である。称号アミール・ネザームはイラン全土の軍に対する指揮権を示す官職でもある・軍制改革は技術の移入が不可欠であり、ダーロル・フォヌーンと呼ばれる教育機関を1851年に創設した。この教育機関ではペルシャでは初めてのヨーロッパ型高等教育が施された。

ミール・ジャアファル(1691~1765)

プラッシーの戦いとミール・ジャアファルの裏切り その後、ベンガル軍の敗色が濃厚となると、シラージュ・ウッダウラは気落ちして、ミール・ジャアファルに助言を求めた。ミール・ジャアファルは手にコーランをのせてシラージュ・ウッダウラに忠誠を誓い、「明日自分がイギリス軍への総攻撃をかけるので、今日はもう日も暮れているから戦闘をやめましょう」と言った。だが、モーハン・ラールは「今の状況で先頭を停止すれば味方の軍は今日の戦闘に敗れたと誤解し、夜半に乗じて四散してしまいます」と反対した。にもかかわらず、シラージュ・ウッダウラはミール・ジャアファルを完全に信頼しきっており、全軍に戦闘停止を命じた。

クリストファー・マーロウ(1564~1593)

フォースタス博士~プロット~ まずローマ教皇庁に潜り込み、枢機卿に化けて一騒動を起こし、次に姿を消して教皇の食べ物や飲み物を奪い取り、はては教皇を殴打する。次に神聖ローマ皇帝にアレクサンドロス3世とその妃の姿を見せて、寵を得る。それを妬むものから不意打ちをかけられるが難なきを得、かえって彼らの頭に角を生えさせて復讐する。最後にトロイ戦争のきっかけとなったヘレンを愛人にする。

ジョン・アダムズ・ディクス(1798~1890)

南北戦争時代 やがて南北戦争が勃発すると、ルイジアナ州ニューオーリンズに滞在していたディクスは、財務省の職員に対して「星条旗を引きずり降ろす者は、たとえそれが誰であろうとも、その場で撃ち殺してしまえ」という電報を送った。その電報は南部の支持者によって妨害されたために実際には財務省の職員へと配達されなかったが、その文章は報道により周知のものとなった。そしてディクスは、南北戦争初期の合衆国の英雄として知られるようになった。

ロイド・アリグザンダー(1924~2007)

プリデイン物語~タランと黒い魔法の釜~ 死の国の主、アローンが生み出す不死身をこれ以上増やさないために、アローンの本拠地アヌーブンに潜入して魔法の釜を盗み出す作戦をたてるギディオンと同盟者たち。ドーリの活躍などによって、見事にアヌーブンへの潜入に成功したタランたち。しかし、魔法の釜は盗まれていた。魔法の釜を求める旅を続けるタランたち。そこには裏切り、嫉妬、様々な大人になるためには避けて通れないものと出会うこととなった。そして、何かを得るためには何かを犠牲にしなくてはいけないということを学ばせてくれる物語でもある。

ジャアファル(766~803)

バルマク家の粛清 803年初頭のある日、ハールーンとジャアファルは共に狩に出かけ夕方に帰還した。ふだんならばジャアファルと楽しく会食をするはずだったが、その日に限りハールーンは一人にして欲しいと言って、ジャアファルと侍医たちを宿舎に帰らせた。それからしばらくした後、首斬り役を務めるマスルールを呼び、ジャアファルを連行してこいと命令した。そして引き立てられてきジャアファルを斬首させた。

伊達輝宗(1544~1585)

関柴合戦 翌1585年春に、政宗は岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令した。田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服としては従わず、大内氏に加勢した石川昭光・岩城常隆・伊達成実らの攻撃を受けており、輝宗の裁許に従ったまでであるとして定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年4月に大内氏に対する討伐命令を下した。定綱は蘆名盛隆未亡人にとりなしを求めたものの、政宗は5月に突如として蘆名領に侵攻し、これに失敗すると定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった。

ロバート・アンスン・ハインライン(1907~1988)

栄光のスペース・アカデミー 西暦2075年、太陽系連邦北アメリカ連合出身のマシュウ・ダッドソンは、厳しい選抜試験を経て、惑星間パトロール隊士官候補生として採用される。そして、練習船ランドルフ号で厳しい教育を受ける。苦手科目もあり、マットは自分が向いていないのではないかと悩むが、久々に帰郷すると、マットは一般人との埋め難い差を痛感し、パトロール隊士官としての決意を新たにする。やがてマットは、親友のテックス、オズとともにアイス・トリプレックス号に実習生として乗り組み、そこでパスファインダー号の捜索を命じられる。パスファインダー号は発見され、曳航のため士官がパスファインダー号に移ると、いつしかマットら候補生達も隊員と同様に扱われるようになる。金星付近まで到達した際、金星赤道地帯における金星原住民との紛争を調査する命令が下される。そこでサーロウ中尉以下、候補生3名がジープ・ロケットで金星に降り立つのだが…。

アーサー・チャールズ・クラーク(1917~2008)

2001年宇宙の旅~人類の夜明け~ 遠い昔、猿人が他の獣と変わらない生活を送っていた頃。ある日猿人たちの前に、黒い石板のような謎の物体「モノリス」が出現する。やがて1匹の猿人が謎の物体の影響を受け、動物の骨を道具・武器として使うことを覚えた。獣を倒し多くの食物を手に入れられるようになった猿人は、反目する別の猿人の群れに対しても武器を使用して攻撃する。一匹の猿人を殺害し、水場争いに勝利した猿人が、歓びのあまり、骨を空に放り上げると、これが最新の軍事衛星に変る。

ウィレム5世(1748~1806)

フェートン号事件 18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国が成立し、オランダ東インド会社は1798年に解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、フランス皇帝ナポレオンは1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランス帝国の影響下に置かれることとなった。

藤原清河(生没年不詳)

藤原清河の経歴 759年清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。しかし当時の唐は安史の乱で争乱状態だったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を許さなかった。清河の帰国が許されなかった事情については、唐の高官として仕官していたため、あるいは唐側がこの遣唐使節を通じて日本側に対して安史の乱で消費した兵器の補充を要請しており、この要請を実現させるための抑留であったとする見方もある。763年日本では清河を在唐大使のまま常陸守に任じ、764年には従三位に昇叙している。

安達盛宗(不明~1285)

霜月騒動 安達時景は相模国飯山に逃亡したが殺害された。安達一族500名余りが自害し、騒動は全国に波及して各地で泰盛派が追撃を受け、自害に及んだ。安達氏の基盤である上野国・武蔵国の御家人の被害は多く、武蔵では武藤少卿左衛門、遠江国では安達宗顕、常陸国では安達重景、信濃国では伴野彦二郎盛時らが自害した。九州では泰盛の子安達盛宗が岩門合戦で敗死した。これだけの人数が一気に討ち死に、自害に追い込まれたのは用意周到な計画の元で時間を定めて一斉に襲撃したためと見られる。

デイヴィッド2世(1324~1371)

百年戦争~ネヴィルズ・クロスの戦い~ 開戦直後、イングランドはフランスに対して反乱を起こしたフランドル都市連合と結び、1340年にはスロイスの海戦でフランス艦隊を破った。1341年に勃発したブルターニュ継承戦争にも英仏両国が介入し戦線は拡大。1346年に、イングランド軍がノルマンディーに再上陸した。フィリップ6世は敵兵力を分散させるため、すでに1341年に帰国させていたデイヴィッド2世に北からイングランドに攻め込むよう求めた。フィリップ6世からの必死の嘆願にも関わらず、デイヴィッド2世は1346年10月まで待ち、冬が迫るころになってようやく侵攻を始めた。

コンラート1世(1146~1192)

第3回十字軍 1189年、第3回十字軍が開始されると彼も合流し、ティルスの港を大軍の上陸拠点として提供した。この頃、第3回十字軍はリチャード1世とフィリップ2世が対立していたためにサラディン率いるイスラーム軍の前に連戦連敗し、シリアにおいてもティルスを除いた都市全てがサラディンに奪われるなど、不利な状況にあった。ところがコンラドは、かつてわずかな兵と共にティルスに入って全軍の指揮を執りサラディンの大軍を撃退したことが知られており一目置かれていた。彼はリチャード1世とともにアッコン攻撃を強め、1191年7月には陥落させて城にエルサレム王国の旗を立てた。

アムル・イブン・アル=アース(583~664)

エジプトの征服 アムルはエルサレムでカリフのウマルにエジプト遠征計画を進言した。ウマルは決断をためらって「汝にエジプトから引き返すように命令する書簡が、エジプトのどこかに侵入する前にとどいたときは引き返せ。しかし汝が余の書簡を受け取る前にその地に踏み込んでいたときは、前進してアッラーの援けを乞え」と語ったが、結局遠征を許す。しかしマディーナに帰って他の有力者たちと協議したウマルは、エジプトが本国からあまりにも隔たっていることに不安を覚えて遠征許可を取り消す。その報せが届いたときアムルはエジプト国境を目前にしていたが、先のウマルの言葉を思い出してしばらく書簡を開封せず、そのまま国境を越えた。エジプトに入った時点で開いた書簡には遠征許可を取り消す旨が記されていたが、アムルはすでに国境を越えたことを理由としてそのまま前進を続けた。

アブー・バクル(573~634)

正統カリフまでの経緯 預言者であるムハンマドの親友で、ムハンマドの近親を除く最初の入信者であったとされる。ムハンマドによるイスラーム教の勢力拡大に貢献した。娘のアーイシャを9歳の時に、当時の56歳だったムハンマドに嫁がせたため、ムハンマドの義父にもあたる。632年、ムハンマドが死去した後、選挙によって初代正統カリフに選出された。選出に先立って最初期からの最有力の教友で同僚でもあったウマル・ブン・アル=ハッターブとアブー・ウバイダ・アル=ジャッラーブのふたりが、アブー・バクルを預言者ムハンマドの後継者である代理人として強力に推して人々に支持を求めて働きかけたため、初代カリフとなった。

アルヌルフ(850~899)

東フランク王国 東フランクではカールマンの庶子であるケルンテンのアルヌルフが王に選出された。アルヌルフは肥満王とは対照的に交渉を行わずひたすら闘い続けた戦士であり、積極的な対外遠征を行った。まず王位を巡って混乱が続く西フランク王国へと介入して自らの宗主権を認めさせ、ロタリンギアを手に入れて庶長子のツヴェンティボルトをその王とした。ロタリンギア南端に成立していたブルグント王国はロタリンギア統一を試みたがよせつけなかった。さらにアルヌルフは肥満王の養子ルイ3世がプロヴァンス王に即位するための支援もした。891年9月のルーヴァンの戦いではノルマン人を撃退した。治世を通して大モラヴィア王国とも戦い続け、ボヘミアを割譲させた。894年には教皇の要請でイタリアにも侵攻して西ローマ皇帝グイード・ランベルトの親子を破りイタリア王に戴冠した。896年にはグイード亡き後の西ローマ皇帝としても戴冠した。しかし同年にアルヌルフは病気となり、対立皇帝ランベルトへの攻撃は中止された。

アナクシマンドロス(前610~前546)

万物の根源が”無限なるもの”である ミレトスに住んでいたようで、タレス、アナクシメネスと共にミレトス学派の代表とされる。自然哲学について考察し、タレスとともに最初の哲学者とされることが多い。万物の根源が”無限なるもの”であることを論じた。彼が残した断片によれば「事物の起源は、限りのないものである。事物がそこから生まれたものへと、その死も必然的に帰っていく。なぜなら、事物はその不正の償いとして、時の秩序にしたがって、互いに正しい返報をするからである」と記されている。つまり、有限なものはこれより生じ、寒熱をもち、罪によって滅び無限なものに再び帰するとする。この発想の画期性とはタレスが「水」という自然界に存在する要素を用いて世界の起源を説明しようとしたのに対し、「火」や「水」といったあらゆる対象物の根源を抽出するために「無限なもの」を概念化したことである。

ヘンリー・ステュアート(1545~1567)

エリザベス1世の殺害 エリザベス1世は王位継承権について弱みを持っていた。ヘンリー8世はキャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、エリザベスの母アン・ブーリンと結婚したが、しかし依然として前王妃との離婚はローマ教皇に認められておらず、ローマ教皇やカトリックの国々の王から見れば、エリザベスは非嫡出子であり、メアリーこそが正当なイングランド王位継承権の持ち主であった。ヘンリー8世も、遺言状には「エリザベスにイングランド王位を嫁がせる」と書いていたが、その前に自ら「エリザベスは嫡出ではない」と宣言していた。

ジェームズ・ステュアート(1531~1570)

メアリーとの対立、反乱 しかし、メアリーがダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚しようとすると、マリ伯は自分の権力の低下を恐れ、イングランド大使ランドルフ卿を通じてエリザベス1世の結婚の阻止を要請した。エリザベスも、強力なイングランド王位継承権を持つダーンリー卿がメアリーと結婚することへの懸念から、ダーンリー卿にすぐさまロンドンへの帰還を命じ、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラスをロンドン塔に幽閉した。またマリ伯も、ダーンリーが父のレノックス伯マシュー・ステュアートと共謀して自分の殺害を企てていると主張し、メアリーとたびたび争いになった。しかし、メアリーとダーンリー卿は1565年7月29日に結婚した。マリ伯は、ダーンリー卿がなおも自分の命を狙っているとして、領地にひきこもった。

ジェイムズ・グラハム(1612~1650)

スコットランド平定に邁進 アーガイル侯が奪還に向かうと一旦ネス湖へ北上、そこから南下し1645年2月2日のインヴァロッヒーの戦いでアーガイル侯の軍を撃破した。それからウィリアム・ベイリーの追跡を振り切って北や東へ転戦した後に南下、8月15日のキルシスの戦いで大勝を飾り、アーガイル侯ら盟約派がイングランドへ逃亡した後はグラスゴーへ入りチャールズ1世の名で議会召集を図るまでになり、連戦連勝を重ねたモントローズ侯の軍事的名声は絶頂に達した。しかしここに至るまで犠牲も大きく、モントローズ侯の息子の1人が行軍中に死亡、ハントリー侯に代わり王党派に合流した長男のジョージ・ゴードン卿が7月2日のアルフォードの戦いで戦死するなど王党派の被害は少なくなった。チャールズ1世はモントローズ侯に期待して合流すべく北上したが、先立つ6月14日のネイズビーの戦いで議会派に大敗、再起が難しい状況になっていた。

リチャード・クロムウェル(1626~1712)

清教徒革命~イングランド王政復古~ 後を継いだ3男のリチャード・クロムウェルは無能ではなかったといわれるが、またも財政問題から議会を開かざるを得ない状況に追い込まれていた。また、オリバー・クロムウェルという核を失って、1659年1月27日に開かれた第三議会と軍の対立はもはや覆いがたくなった。選挙資格や選挙区の区割りを元に戻して行われた選挙から選ばれた議会には長老派と党派抗争をも復活させた。そしてクーデターによる4月22日の議会の解散、5月7日のランプ議会の復活という変遷をへて、限界を悟ったリチャードは引退を決意し5月25日に護国卿を辞任した。彼を失ったことは軍隊をも四分五裂させたが、そこにジョージ・マンクが率いるスコットランド軍の侵攻が重なった。

リュシアン・ボナパルト(1775~1840)

ブリュメール18日のクーデター ナポレオンがエジプト遠征から1799年10月9日に帰国すると、協力してクーデターの準備を進めた。同年11月10日、計画通りに軍隊を引き連れたナポレオンが五百人会の議場に現れ、議員たちを説得しようとしたが、予想外の抵抗を受け、退出する羽目になった。この時、議場の外に出たリュシアンが、待機していた軍隊の前で「共和国の軍隊を破壊しつつあるピットの手先を議場から一掃せよ」と巧みな演説をして兵士たちを議場に突入させた。議員たちは抵抗したものの、たちまち追い出されて、ブリュメール18日のクーデターは成功した。

ウィリアム・ウェッブ・エリス(1806~1872)

伝説~伝説の真実~ エリスをラグビー校でフットボールの試合中にボールを持ったまま相手ゴールへ走りだした最初の人物だと特定し、エリスの存在を世に紹介した人物はラグビー校の卒業生である弁護士マシュー・ブロクサムただ一人である。ブロクサムはラグビー校に1813年に入学しており、エリスとはラグビー校で5年間重なっている。しかし、肝心の1823年には卒業していたのでブロクサム自身がラグビーの起源とされる事件を直接目撃したわけでなく、身内の誰かから聞いた証言を1880年に「ラグビーの起源」として文章に記したもの。しかしそれを裏付ける他の証言は見つかっていない。

平塚為広(不明~1600)

朝鮮出兵 為広は後に秀吉の家臣として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を挙げた。1592年から朝鮮出兵にも参加し、肥前名護屋城に駐屯した。1595年7月、長年の忠義を認められて8000石を与えられた。1598年、醍醐の花見にも秀吉の護衛として参加している。また、同年5月には筑前に下向した石田三成に代わって真田信幸の取次も務めている。

曾我蕭白(1730~1781)

唐獅子図

木喰(1718~1810)

東北・北海道における初期の造像 木喰の最初期の造仏として青森県上北郡六戸町の海傳寺に伝来する「釈迦如来像」がある。この像は台座を含む総高29.8センチメートルで、彩色は施されない。頭部には螺髪が刻まれず、胸前で両手を衣の内へ納め、印相を明らかにしない。同像は2008年刊行の青森県史叢書『南部の仏像-上北三八地方寺社所蔵文化財調査報告書』に掲載されている。2014年5月14日には全国木喰研究会評議委員の小島梯次のもとへ同像が木喰仏ではないかとする情報が寄せられ、同年7月25日には山梨県立博物館の近藤暁子により小島に『南部の仏像』に同像が掲載されていることが伝えられた。

吉田富三(1903~1973)

吉田富三記念館 浅川町で「ふるさと創生事業」として、浅川町出身で癌研究の先駆者として世界的に有名な医学者吉田富三博士の偉業を後世に伝えるために吉田富三記念館を建設した。癌という病気は、不治の病として多くの人から恐れられているが、その癌の研究に生涯を捧げた吉田富三博士の偉業である人工肝癌の生成や吉田肉腫といわれるガン細胞の発見は現代の癌研究の基礎を築いたといわれている。吉田富三記念館では、これらの博士の偉業と生涯の資料を展示し、地域住民の健康意識の向上と青少年の教育に資することを願っている。

鶴田吾郎(1890~1969)

神兵パレンバンに降下す