エベレスト登頂 中国によるチベット支配の影響からエベレストのチベット側ルートの使用ができず、ネパール政府は年1組限定の入山許可の発行を決定した。1952年に結成されたスイス・エベレスト探検隊は山頂から240mの地点に到達するも天候不良により下山。スイス隊の登頂は時間の問題とされ、1954年の入山許可をフランス隊が取得、1955年の入山許可をスイス隊が取得していたことから、英国山岳会と王立地理学会が組織するヒマラヤ協議会は最後の挑戦と捉え1953年に英国・エベレスト探検隊を結成。英国の威信を掛け英国人登山家11名、ニュージーランド人登山家2名、ネパール人登山家2名、ポーター362名、シェルパ20名の総勢400名による大登山隊を結成した。隊長にはイギリス陸軍大佐のジョン・ハントが任命され、ニュージーランドからはヒラリーと長年の登山パートナーであるジョージ・ロウが選出された。ネパールからノルゲイとアンヌルが選出された。ヒラリーはエベレスト挑戦までに20,000フィート以上の高峰を11座制した。