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牧野伸顕(1861~1949)

芸術・文化への関心、趣味 牧野には自分も興味をもっていた芸術・文化への貢献がある。明治期の美術界の指導者でもあった岡倉天心の開成学校時代1年後輩であり、天心は文部次官であった牧野に美術学校の予算を要求するなどし、その後両者の関係は友情として続いた。1907年には牧野は文部省美術展覧会、文展を創設した。また牧野は帝国図書館の設置に尽力した。

竹越与三郎(1865~1950)

衆議院議員 その後、欧州視察を経て、1902年の第7回衆議院議員総選挙において新潟県郡部区より立憲政友会から立候補して初当選、以後5回連続で当選を果たした。その後、台湾総督府の総督・児玉源太郎や民政長官・後藤新平とも近くなり、欧米や南洋地域の視察を行って日仏協会設立に尽力したり、1906年には読売新聞主筆に就任するなど、評論活動を続けている。東亜同文会の評議員にも就任している。第3回列国議会同盟会議に日本代表団の一員として列席。

小金井良精(1859~1944)

エピソード~戊辰戦争~ 長岡城落城の日、当時9歳の良精は母兄弟と共に父儀兵衛の姿を発見したが、父は藩主護衛を理由に良精等を戦野に残し離ればなれとなった。その後良精等は東北の山中を流浪しながら会津から仙台へと避難。戊辰戦後、小金井家は全てを失い次男である良精は他家に養子に出されたが、養父死亡により実家に戻り、1870年上京し母の弟である小林雄七郎宅より大学南校に入学した。

山路愛山(1865~1917)

国家社会党 1905年8月には、斯波貞吉、中村太八郎らと「国家社会党」を創立した。その宣言書には、古代における我国の皇室が或る意味における社会主義の実行者であると説き、「我国民は宜しく皇室の力に依りて官費の専横を抑制すべし」と論じた。

田中館愛橘(1856~1952)

大学教授期の活動~地磁気測定と各観測所の設置~ 1894年3月、万国測地学協会の委員に任命された。国際観測事業として世界の北緯39度8分地点の6箇所に観測所が設置されることとなり、日本がそのうちの一つに選ばれる。愛橘は調査のうえ岩手県水沢の地を選定し、1899年9月に緯度観測所として設立された。所長には教え子の木村栄が就任した。

秦佐八郎(1873~1938)

ペスト研究の開始 この時から秦のペスト研究が始まり、ヨーロッパ留学に旅立つ1907年まで続いた。8年間にわたる研究の中、防疫の実務に携わると共に、ペストに関する十数篇の論文を著わし、柴山五郎作と共に「ペスト予防法」を策定している。後に、エールリッヒが難題の梅毒科学療法の共同研究者として秦を選んだのも、秦が長年に渡って危険極まりないペストの研究と防疫に当たってきた実績を買ったからだった。エールリッヒは「注意深き精緻正確なる君の輝かしい実験なくしては、この好結果を挙げ得なかったであろう。君の協力に対して私は深く感謝するものである」と深甚の謝意を表している。

村山知義(1901~1977)

コンストルクチオン

アントワーヌ=ジャン・グロ(1771~1835)

アブキールの戦い

フランソワ・ジェラール(1770~1837)

戴冠式の正装の皇帝ナポレオン

シェリダン・レ・ファニュ(1814~1873)

カーミラ それからしばらく経ったある夏の日から話は始まる。近所に住み親交のあるスピエルドルフ将軍からローラの父へ手紙が届くが、その内容はローラが友になるべく心待ちにしていた、将軍の姪が死亡したことを告げるものだった。将軍は姪をわが子のように溺愛しており、その死に関する経過と結果から取り乱している様子で、それに加えて怪物を探索し退治するという不得要領な決意が書かれていた。

ジョージ・ヴィリアーズ(1592~1628)

スペイン渡航 ジェームズ1世は、ヨーロッパ大陸で発生した三十年戦争への参戦に消極的だったが、スペインに占領されたプファルツの原状回復には前向きだった。しかし1621年に召集された議会はその費用を認めなかったので実施は不可能だった。そんな中皇太子チャールズは自分とスペイン王女マリアの婚約話を進めることで、持参金としてプファルツ回復をスペイン王フェリペ3世に認めさせることを考えた。バッキンガム候も次期国王への影響力を確保しようという意図からチャールズのこの構想を支持した。

カルロス2世(1332~1387)

イングランドの同盟と破棄 しかし、約束が履行されなかったためイングランドと同盟を結んだだけでなく、ジャン2世に断りなくシャルル5世と接触したことがジャン2世の逆鱗に触れ、1356年4月5日にカルロス2世はジャン2世に捕らえられアルル城へ幽閉された。だが9月19日のポワティエの戦いでジャン2世がイングランドの捕虜になった後、1357年11月9日にパリ商人頭で三部会の実権を握るエティエンヌ・マルセルら支持者達により釈放された。この百年戦争の間、カルロス2世はパリで叛乱を起こしたマルセルの誘いを受けたり、イングランドと同盟したりと不穏な動きが多かったが、ジャックリーの乱に対しては鎮圧に動いた貴族の1人でもある。1358年にマルセルの手引きでパリ城代となったが、麾下の軍が略奪を働いたためパリ市民の怒りを買い逃亡、マルセルも7月31日に不満を抱いた市民に殺害されパリは王太子が制圧、フランスの主導権を奪われたカルロス2世は1359年8月21日に王太子とポントワーズ条約を結び、イングランドと手を切るしかなかった。

ベーラ2世(1110~1141)

ボリスとの戦い ベーラが盲目であったことから、妃イロナが政治で重要な役割を担うことになった。即位から少し後に、アラドで行われた集会で、盲目の王を敬わなかったという理由から、彼女は集まった人々を虐殺するよう命じた。また彼女は兄ベロシュを辺境伯に取り立て、ハンガリー軍総司令官の地位を与え、宮廷の要職にも就かせた。

マーチャーシュ1世(1443~1490)

ルネサンス文化の奨励 マーチャーシュ1世は、イタリアから建築家や文化人を首都ブダの王宮に招き、ハンガリーの若者を外国留学させるなどして文化を奨励した。こうしてブダは、ルネサンス文化の一中心地として栄えた。また、ポジョニに大学を設立した。王立図書館にはコルヴィナ文庫として知られる写本が2,000巻集められた。

ジョン・ディキンソン(1732~1808)

アメリカ革命 ペンシルベニアおよびデラウェアの地域はそれぞれ別々の植民地であったが、創設者ウィリアム・ペンは一括統治することを望んでいた。これらの植民地は同じ行政府を共有していたが、1704年に議会が完全に分離し、フィラデルフィアとニューキャッスルに分かれた。

ダフィット・ヒルベルト(1862~1943)

ヒルベルト-アインシュタイン優先権論争 ヒルベルト-アインシュタイン優先権論争とは、1915年、アインシュタインが一般相対性理論の中で発表した場の方程式とりわけ共変方程式をめぐって、この共変方程式を先に創案したのは、アルベルト・アインシュタインがダフィット・ヒルベルトか、ということに関する先取権論争、優先権争い。1915年以降、一般相対性理論をめぐって起こってきた論争の一つであるが、1997年は既に、アインシュタイン側に優先権があるとして解決したとされる。

レオポルト・クロネッカー(1823~1891)

ヒルベルトの第12問題 クロネッカーの青春の夢またはヒルベルトの第12問題は、「代数体のアーベル拡大は、もとの体に適当な解析函数の特殊値を添加してできる拡大体に含まなければならない」という代数体のアーベル拡大を具体的に構成する方法を問う問題である。

カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ(1804~1851)

ヤコビ行列 ヤコビ行列の行列式は、ヤコビ行列式あるいは単にヤコビアンと呼ばれる。ヤコビ行列式は変数変換に伴う面積要素や体積要素の無限小変化の比率を符号つきで表すもので、しばしば重積分の変数変換に現れる。これらは多変数微分積分学、多様体論などで基本的な役割を果たすほか、最適化問題等の応用分野でも重要な概念である。

エヴァリスト・ガロア(1811~1832)

ガロア理論 ガロア理論は、代数方程式や体の構造を "ガロア群" と呼ばれる群を用いて記述する理論。1830年代のエヴァリスト・ガロアによる代数方程式の冪根による可解性などの研究が由来。ガロアは当時、まだ確立されていなかった群や体の考えを方程式の研究に用いていた。ガロア理論によれば、”ガロア拡大”と呼ばれる体の代数拡大について、拡大の自己同型群の閉部分群と、拡大の中間体との対応関係を記述することができる。

ガストン・ルルー(1868~1927)

オペラ座の怪人 クリスティーヌは怪人にさらわれ、彼が住むオペラ座の地下室に連れていかれ、怪人はエリックと名乗る。エリックは数日間過ごし、クリスティーヌが自分を愛するようになることを望む。しかしクリスティーヌがエリックの仮面を剥ぎ取り、鼻も唇もなく、落ち窪んだ目、生来の醜悪な人相に壊死した黄色い皮膚で覆われた、見るもおぞましいミイラのような顔を見られてしまったため、エリックは考えを改める。クリスティーヌが自分のもとを離れることを恐れたエリックは永遠に自分のものとする決心をするが、2週間後クリスティーヌがここを出たいと言うと、クリスティーヌがエリックの指輪をして信頼を裏切らないことを条件に解放する。

エリック・ナイト(1897~1943)

名犬ラッシー ナイトのオリジナルの話では、英国のヨークシャーに住む幼い少年が、類い希な美しさと気高さを持ったラフ・コリーを所有していたが、少年の一家が経済的な困窮に直面し、やむを得ずにラッシーを金持ちの貴族に売却した。少年と犬は別離を悲しみ、わけても新しい所有者がラッシーを何百マイルも先の自分の領地があるスコットランドへ連れていったため、悲しみはさらに募った。しかし、ラッシーはコリーの持つ本能と勇気で逃げだし、小説はラッシーが故郷へと、彼女の愛する少年のいる土地へと、家路を辿る苦難の旅を描いている。

エレナ・ホグマン・ポーター(1868~1920)

少女パレアナ~第一部~ 第一部では、父の突然の死により、ベルディングスビルに住む叔母のパレーに引き取られた主人公のパレアナが、徐々に周囲の人間たちを感化していくエピソードから、自動車事故により足が動かなくなったパレアナが、危険な手術に耐え、再び自分の足で立ち上がれるようになるまでの話を描いている。

トーベ・ヤンソン(1914~2001)

楽しいムーミン一家 ムーミントロール、スニフ、スナフキンはある山の頂上で魔法使いの帽子を見つけるが、その奇妙な力には気づかない。その帽子の中に捨てられた卵の殻は、子供達が乗って遊ぶことのできる、5つの雲へと変わる。翌日、その雲は消えており、誰にも雲の出処が分からない。ムーミントロールはかくれんぼの間、その帽子の中に身を隠すと、その姿は何だか分からないものへと変身してしまう。

エドモンド・ヒラリー(1919~2008)

エベレスト登頂 中国によるチベット支配の影響からエベレストのチベット側ルートの使用ができず、ネパール政府は年1組限定の入山許可の発行を決定した。1952年に結成されたスイス・エベレスト探検隊は山頂から240mの地点に到達するも天候不良により下山。スイス隊の登頂は時間の問題とされ、1954年の入山許可をフランス隊が取得、1955年の入山許可をスイス隊が取得していたことから、英国山岳会と王立地理学会が組織するヒマラヤ協議会は最後の挑戦と捉え1953年に英国・エベレスト探検隊を結成。英国の威信を掛け英国人登山家11名、ニュージーランド人登山家2名、ネパール人登山家2名、ポーター362名、シェルパ20名の総勢400名による大登山隊を結成した。隊長にはイギリス陸軍大佐のジョン・ハントが任命され、ニュージーランドからはヒラリーと長年の登山パートナーであるジョージ・ロウが選出された。ネパールからノルゲイとアンヌルが選出された。ヒラリーはエベレスト挑戦までに20,000フィート以上の高峰を11座制した。

シド・ヴィシャス(1957~1979)

セックス・ピストルズ 元々彼は、セックス・ピストルズの熱狂的なファンの一人であり、ファンの頃からピストルズのライブ中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者をベルト代わりにつけていた自転車のチェーンで殴るなど、目立った存在だった。同時期に「ポゴダンス」を発明している。

アエティウス(391~454)

ボニファティウスとの対立 ローマを守るためにガリアで戦っている間、アエティウスは宮廷の権力者との闘争と云うもう一つの舞台でも戦っていた。425年以降、アエティウスはフラウィウス・フェリックス指揮下の二人の有力将軍の一人であり、もう一人はボニファティウスだった。二人の対立は年々高まっていた。ボニファティウスはアフリカ伯としてアフリカ管区を統治していたが、背反の噂が流れて母后ガッラ・プラキディアの猜疑を受け召還命令を受けた。これはアエティウスの策謀によるものであったとされる。ボニファティウスはこれに応じず427年にアフリカで反乱を起こした。ボニファティウスはイベリア半島のヴァンダル族に兵力提供を要請したが、ヴァンダル族は部族を挙げてジブラルタル海峡を渡った。これに脅威を感じたボニファティウスはヴァンダル族を討伐しようとするが苦戦する。430年にボニファティウスは母后プラキディアと和解し、アフリカを捨ててイタリアへ帰還した。

王允(137~192)

董卓政権 しかしその後、董卓は暴政により少帝を殺害したり、洛陽を破壊して長安への遷都を強行したことで人望を失った。また董卓は、張温を袁術と内通している者であると誣告し鞭で打ち殺させ、縁談を断った未亡人を棒で殺害させた。さらに百官の前で投降した兵の舌をえぐり抜き、手足を切断させている最中に飲食するなど、様々な狂態が相次いだ。このような相次ぐ異常事態に憂慮した王允は、友人の黄琬や部下の士孫瑞と話し合い、董卓暗殺計画を練って実施の準備を始めた。

武王(不明~前1021)

周王朝創立まで 大敗した帝辛は首都に逃げ帰り、そこで焼身自殺を遂げた。それを追ってきた武王は帝辛の遺体に3本の矢を打ち込み、焼け爛れた首を黄金の鉞で落とし旗の先に掲げた。

帝辛(前1105~前1046)

殷周革命 殷周革命は周が衰えた殷に取って変わったというよりは、東方の経略に注意が向きすぎていた殷の隙を突いて滅ぼしたとする説が最近では有力視されている。周の地で出土した甲骨文の記述によると周が密かに殷の東方に位置する部族へ連携を申し込んだ記述が認められる。

シャムシ・アダド5世(不明~前811)

遠征 アッシュール・ダイン・アピルの反乱を鎮圧すると、ウラルトゥ王国に遠征しての領土の一部を獲得した。続いてメディアを攻撃してこれに貢納を課した。シャムシ・アダド5世の遠征の中で最も重要なものはバビロニアへの遠征である。バビロニア王マルドゥク・ザキル・シュミ1世はアッシュール・ダイン・アピルの反乱に際してシャムシ・アダド5世を支援する条約を締結しており、それと関係してアッシリア王はバビロニア王に対して下位となっていた。

エサルハドン(不明~前669)

征服活動 エサルハドンは即位後、南部メソポタミアの流浪民を討伐した。紀元前679年、キンメリア人と戦ってこれを破り、北部の国境を安定させた。紀元前676年頃にはザクロス山脈やタウロス山脈方面に遠征して現地を押さえ、更にシュクザーヤの王バルタトゥアに娘を嫁がせて遊牧民との関係改善を図り、同時期にバビロニアに侵攻したエラム軍を破った。紀元前673年、ウラルトゥの王ルサ2世と戦った。

ヒゼキヤ(前740~前687)

アッシリアとの争いとその後 アッシリア王センナケリブの時代、バビロニア、エジプトがアッシリアに対して反乱の気運を作り戦いが始まると、ヒゼキヤもそれに押される形で反乱国側についた。しかし、バビロン軍、エジプト軍が鎮圧され、701年にはユダ王国の46の街が占領され、多くの民がアッシリアに連行されている。

ナキア(生没年不詳)

エサルハドン擁立 しかしエサルハドンは王子の中でも年齢も低く、また幼少時より病弱であり、この決定は他の王子達に強い反発を生み出した。後にエサルハドンは残した碑文によれば、彼は兄達が盛んに自分を中傷し、父王に讒言を繰り返したので身の危険を感じて首都を脱出しアナトリア半島へと身を隠した。そして紀元前681年にセンナケリブは、他の王子によって暗殺された。その後の王位継承争いでエサルハドンは勝利し、兄達を追放、或いは殺害して王位を継承した。この一連の事件、特にエサルハドンの首都脱出や、センナケリブ暗殺にはナキアも関与していたという説が有力である。

レイフ・エリクソン(970~1020)

「探検」の内容 彼らの到達した国々はサガに伝えられただけだったので、現在では正確な場所がどこかよくわからなくなってしまった。しかし、最初にたどりついたヘルランドはグリーンランドの西、つまりカナダのバフィン島であったとみられる。そこからは南に向かったのであるから、マルクランドはラブラドル半島にあたると思われる。

赤毛のエイリーク(950~1003)

赤毛のエイリークのサガ~エイリークのグリーンランド入植~ ソルヴァルド・アースヴァルズソンとその息子エイリークは殺人事件をおこし、ノルウェーを追放させてアイスランドに移住する。エイリークはアイスランドでまた殺人を犯し、追放処分をうける。そこでエイリークはグンビョルン・ウールフスソンが西に流されたときにみたという陸地を探し、そこに移住することにした。そしてエイリークは首尾よくグリーンランドを発見し、ブラッターフリーズに定住した。エイリークはショーズヒルドと結婚しており、レイフとソルステインという2人の兄弟がいた。ソルステインは父と共にグリーンランドで暮らし、レイフはノルウェーでオーラヴ1世のもとに滞在していた。

マロツィア(890~937)

ポルノクラシー 特にテオドラと娘マロツィアが活躍した。セルギウス3世の内妻であったマロツィアは、ヨハネス11世を生んだといわれる。彼女はテオドラが教皇の地位に指名した教皇ヨハネス10世の殺害を命じたと疑われている。動機は彼女が好んだ教皇レオ6世の、選挙における勝利を確実にするためだった。

トミスラヴ(不明~928)

戴冠式とクロアチア王国の成立 過去の歴史学ではトミスラヴはドゥヴノ平原近辺のトミスラヴグラードで戴冠されたと推測されていたが、戴冠式に関する同時代の記録は確認されていない。ドゥクリャ司祭の年代記には、王を自称する「スヴァトプルク」という人物の戴冠式と彼がダルマ平原で開催した会議について記述されている。19世紀の歴史家はトミスラヴとスヴァトプルクは同一人物であるか、もしくは著者が不注意で王の名前を誤って記したと考えていた。他には教皇か彼の代理人が925年よりも前にトミスラヴに戴冠していた、あるいはトミスラヴが自分自身の手で戴冠した説が挙げられている。

テオファノ(941~978)

ロマノス2世の皇后として 959年に急死したロマノスの父、皇帝コンスタンティノス7世はは、テオファノが毒殺したと噂された。しかしコンスタンティノスの死因は熱病であるし、毒殺の証拠もない。政治に興味のないロマノスは妻のいいなりで、何年もテオファノの操り人形であったとも言われている。遊び好きの夫ロマノスを支えてきたのが、父帝時代からの重臣である宦官のヨセフ・ブリンガスと名将ニケフォロス2世フォカスであった。

ニケフォロス1世(760~811)

ニケフォロス王朝の創設と国内政策 ニケフォロス1世は財務官僚としての経験を活かし、エイレーネーによって危機的状態に陥っていた財政の再建に着手した。彼の経済政策については、同時代人であり、政敵エイレーネーの支持者でもあった年代記作者のテオファネスが詳しく報告している。テオファネスによると、彼が行った最も「重大な悪政」は以下のようなものである。

管野スガ(1881~1911)

幸徳事件~明科事件~ 明治天皇暗殺計画に関与したのは、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の5名であり、秋水は実行計画に関与せず著作に専念したとされる。宮下は長野県東筑摩郡中川手村明科の明科製材所で爆裂弾を製造、1909年11月3日に同村大足で爆破実験をおこなった。1910年1月に千駄ヶ谷の平民社で実行計画が練られた。

金井延(1865~1933)

社会政策学会 1872年に設立されたドイツの新歴史学派の人びとによる学会。ドイツ資本主義の発展と、労働者階級の台頭に接して、さまざまな社会問題に対する政策を検議した。しかし国策に沿った社会改良主義を主張したために、自由主義から〈講壇社会主義〉と皮肉られた。シュモラー、ロートベルトゥス、ブレンターノ、A.ワーグナーらが代表的人物。第2大戦後は〈経済・社会科学学会〉として再出発した。なお、ドイツの社会政策学会をモデルに日本でも1897年同名の学会が設立された。代表的人物には金井延、小野塚喜平次、高野岩三郎などがいた。

中村太八郎(1868~1935)

普選運動~展開~ 1897年に、中村太八郎らと旧進歩党系と地主・自作層によって長野県松本市に普通選挙期成同盟会が設立された。1900年から社会主義者も運動に参加したが、日露戦争で離脱。1899年10月2日には東京にも中村太八郎らと旧自由民権運動系の自由主義者等により同名の普通選挙期成同盟会が設立された。1902年8月10日の衆院選で中村が落選し本部は東京が明確化した。1902年、1903年、1908年、1909年、1910年、1911年と国会に普通法案を提出。

本木昌造(1827~1875)

「もとぎ」か「もとき」か 本木の発音については、「もとぎ」または「もとき」の二説はあるが、日英和新条約の条文に、オランダ語翻訳に携わった本木昌造が「Motoki Shiozo」という自筆サインを書き込んでいることから、発音は「もとき」であった可能性が高い。

西村真琴(1883~1956)

學天則 開発者の西村真琴は、1883年に長野県で生まれた。北海道帝国大学教授を経て、1927年大阪毎日新聞入社。ロボット工学の専門家ではなく、阿寒湖のマリモの保護に尽力した生物学者である。大阪毎日新聞の論説員で大阪在住のときに、學天則を開発した。奴隷のような人造人間ばかりを作るのは淋しすぎるとして、さまざまな表情と美しい動きをする芸術人造人間として學天則を制作したという。

西竹一(1902~1945)

硫黄島へ 戦車第26連隊は当初はサイパンの戦いに参戦する予定であったが、現地守備隊が早々と玉砕したため、1944年6月20日に硫黄島への動員が下令。26TKは満州から日本経由で硫黄島へ向かうが、その行路においてアメリカ海軍ガトー級潜水艦「コピア」の雷撃を受け、28両の戦車ともども輸送船「日秀丸」は沈没。8月、戦車補充のため一旦東京に戻り、東京川崎財閥の御曹司で親友であった川崎大次郎の車を借用して駆け回っていた。その折、馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行き、ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたという。

ジャック・オッフェンバック(1819~1880)

地獄のオルフェ~ブッフ・パリジャン座の結成~ ブッフ・パリジャン座は『二人の盲人』の成功と同年に行なわれたパリ万国博覧会の影響もあって大勢の観客がやってきたが、劇場自体が小さく手狭だったため移転をすることになった。同年12月29日にオッフェンバックはマリニー地区にあった劇場をモンシニー通りに移す。以後現代に至るまで、ブッフ・パリジャン座はこの場所に残ることとなる。

ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908)

熊蜂の飛行 「熊蜂の飛行」は、ロシアの作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフが作曲した曲。「くまんばちの飛行」、「熊蜂は飛ぶ」、「くまんばちは飛ぶ」等とも和訳される。ただし、ロシア語の"Шмeли"も英語の"bumblebee"も、和名はマルハナバチであり、クマバチはマルハナバチよりさらに大型のミツバチ科のハチである。