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7月, 2017の投稿を表示しています

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)

歓喜の歌 ベートーヴェンは生涯にわたってシラーの詩集を愛読したが、実際に交響曲第9番ニ短調『合唱付』作品125の第4楽章の歌詞に織り込むにあたって、3分の1ほどの長さに翻案している。冒頭にバリトン歌手が独唱で歌う”おお友よ、このような音ではなく…”は、ベートーヴェンが自分で考えたものであり、シラーの原詩にはない。

ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)

望遠鏡で見た宇宙 1609年の夏、45歳のガリレイは、オランダで発明された望遠鏡に二つの凸レンズを組み合わせて天体観測に使えるように改良した。ガリレオがその望遠鏡を天空に向けたとき、宇宙に関する古い観念を捨て去り、コペルニクスの理論を一層有利にする事実が明らかになった。例えば、完全な球体と考えられていた月の表面は凸凹した不規則な形をしていた。金星を観測すると、月と同じように満ち欠けが見られ、自分で光っているのではなく太陽の光が反射していることが判った。そしてそれは地球ではなく太陽の周りを回っていることの証であった。望遠鏡による最も大きな発見は、木星の4つの衛星の発見であった。それは地球と月の関係と同じように、運行しつつある天体が別の天体を回転させていることを明らかにした。彼は様々な発見を含む観測結果をまとめて『星界の報告』を発表した。

紫式部(970~1019)

源氏物語~桐壺~ いづれの御時にか、女御、更衣、あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。はじめより、「われは」と、思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者におとしめそねみたまふ。 小倉百人一首 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな

真田信繁(1567~1615)

大坂夏の陣~真田丸~ 大坂城のような巨大な城をまともに攻めても大被害が出るだけです。それは徳川軍も解っていましたから、徳川家康は当初、包囲だけして打って出ない命令していました。しかし、真田幸村は、前面にある「篠山」という山に伏兵を潜ませておき、前田軍に何度も鉄砲を撃って挑発します。そのため前田軍は数日後、篠山に攻撃をかけますが…もぬけの殻。真田軍はすでに篠山から退いていて、しかもその様子を見てワザとバカにするように大爆笑します。

ピタゴラス(前582~前496)

ピタゴラス教団 ピタゴラス教団は秘密の教理を信じる一種の結社だった。彼らはピタゴラスの教えを「アクースマタ」という生活信条として生活したという。その中には、ピタゴラスは極北のアポロンである。最も賢明なものは数。などの信条から、・右足から歩みを始めるべきである。・足を洗うときは左足から始めるべきである。・公衆浴場を利用すべきではない。・暗闇の中で話してはいけない。・空豆を食べてはいけない。・テーブルから落ちた食物を拾ってはいけない。などの細かなエチケットに関するものまであった。それらの意味することは、「魂の調和」という考えであった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)

モーツァルトの話 モーツァルトは不思議な作曲家です。作家の五味康祐氏が「不幸にして私が狂人になったとき、狂人に音楽がわかるものかどうか、その時になってみなければ分からぬのが、モーツァルトとバルトークのものだけは、理解できそうな気がする」とお書きになっていますが、モーツァルトの音楽は現世の雑踏から遠く離れた世界で音楽を奏でているように思える時があります。「食うため」に王侯貴族の要請に応じて数多くの作品を手がけ、辛い思いもしたに違いないだろうに、レクイエムは別として、そういった気配をみじんも感じさせない作品ばかりです。そして聴く者を構えさせず自然体に解き放ち、聴く人に委ねられた音楽を奏でるように思えます。

ヘレン・ケラー(1880~1968)

奇跡の人 両親は家庭教師を雇うことにしました。その先生の名前はアン・サリヴァン先生です。ヘレンの指導は、最初は大変難しく、ヘレンは先生を殴ったり、蹴ったりして暴れました。あるときはサリヴァン先生の前歯がおれました。しかし先生は諦めませんでした。サリヴァン先生は、ヘレンに、他の人々の事を理解させねばならないと考えました。電話の発明者はアレクサンダー・グラハム・ベル。

エイブラハム・リンカーン(1809~1865)

南北戦争の開戦 1860年11月、奴隷制拡大に反対するリンカーンが大統領に当選したことで、危機感を強めた南部のプランターに押された南部諸州が合衆国から離脱し、翌年2月アメリカ連合国を結成した。ついに1861年7月、南部にあるサムター要塞での衝突から南北戦争に突入した。リンカーンは7月4日、特別議会で演説し、サムター要塞の衝突の経緯、戦争態勢の発動を余儀なくされた事情を説明し、戦争行為に伴う人身保護令の停止、募兵と軍事費など議会の協賛を要請、戦争の目的を合衆国の不可分の理念に基づいて不当な分離主義。州権主義を打破することに置いた。その中で、リンカーンはこの戦争の意義として次のような理念を上げている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)

最後の晩餐

アーネスト・トンプソン・シートン(1860~1946)

シートン動物記~狼王ロボ~ カナダの博物学者、シートンのもとにある日一通の手紙が届く。送り主はアメリカで実業家として成功し、牧場経営をしている知人だった。手紙を読むと彼が経営している牧場がある地域では、近年家畜が狼に殺される事件が多発しており、動物の生態に関して豊富な知識を持つシートンの助けを借りたいのだという。本来なら狼の狩りを専門に行うウルフハンターに依頼するはずが、なぜ学者である自分に助けを求めるのかという疑問を抱きながらも、シートンは牧場があるニューメキシコへ向かった。

アイザック・ニュートン(1642~1727)

ニュートンとリンゴ いわゆるリンゴの逸話は、フランスの批評家ヴォルテールの創作であり、それが人口に膾炙したものとされている。しかし、問題の木がニュートン家の庭園に1820年の暴風で倒れるまで保存され、その木から椅子が作られたと語っている人もいる。またこの逸話は、ニュートンが地球の引力を発見した経緯を説明するものとして誤って理解されているが、彼が発見したのは、太陽と地球などの惑星や彗星の間、地球と月の間のように、あらゆる物体の間に普遍的に働く万有引力であった。

カール大帝(742~814)

領土の拡大 カールは次々と周辺に遠征し、フランク王国の領土拡大。南方では774年にランゴバルド王国を征服、北イタリアを併合し、西方ではイベリア半島のイスラームと戦い、ピレネーを越えてエブロ川まで領土を広げ、スペイン辺境伯を設置した。東方ではドイツのザクセン人、バイエルンなどを従え、さらにモンゴル系のアヴァール人のハンガリー付近まで進出した。その最大領土は、大陸の西ヨーロッパほぼ全域に及んだ。

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(1917~1963)

ベルリン問題 1961年、当時東ベルリンから西ベルリンを経て西ドイツに密出国するものが増え、ベルリン問題が深刻化し、大統領就任直後のケネディはウィーンでソ連首相フルシチョフと米ソ首脳会談を行うことになった。しかし、ソ連がドイツからアメリカ軍の撤退を要求したことに対してケネディが拒否したことから話し合いは決裂し、東ドイツ政府はベルリンの壁の設置に踏み切った。

エリザベス1世(1533~1603)

エリザベス1世の政治 テューダー朝の絶対王政では国王を中心とした宮廷での寵臣たちの駆け引きで重要事項が決定されていたが、エリザベス1世の宮廷ではヘンリー8世の1536年頃に成立した枢密院が政策決定の重要機関となった。議会の招集権は国王にあったが、統一法など重要法案は議会で議決されたほか、戦費調達の必要があるとき以外はかまり開催されなかった。特許権の付与をめぐって国王と議会が対立することもあった。地方政治は行政上の州が置かれ、有力なジェントリが治安判事として行政、司法を担当し、その代表は騎士として下院議員となった。

クリストファー・コロンブス(1451~1506)

第2回航海 スペイン王イザベルはコロンブスを提督に任命し、新領土の植民を許可したので、翌1493年9月25日、1500名の入植者を乗せて再びエスパニョーラ島に向かった。到着してみると、残留部隊の39名は全滅していた。また、エスパニョーラ島の奥地まで進んだが、黄金も見つからず、開拓もままならなかった。コロンブスは1494年、カリブ海域を探検、キューバが島であることを確認し、ジャマイカ島を発見した。

アレクサンドロス3世(前356~前324)

アレクサンドロスの大帝国 アレクサンドロス大王は東方遠征中の前324に、ペルシアのスサで、マケドニア人貴族とペルシア人女性の集団結婚を挙行した。このときは約80組が挙式し、アレクサンドロス自身もダリウス3世の娘を妃にした(バクトリア人の女性ロクサネーが先妻としていた)。またそれまでにマケドニア兵と同棲していた多数のアジアの女性たちも正式な妻と認められた。これは古来、東西人種の融合策と言われるが、現実にはアレクサンドロス大王がペルシア帝国の権威を継承するための儀式にすぎなかったようで、大王死後はこの80組のうち、多くのペルシア人妻は離縁されたり、妾扱いされたという。

クレオパトラ7世(前69~前30)

カエサルとクレオパトラ そのさなか、クレオパトラはカエサルの子をもうけます(ファラオは結婚は近親としますがそれは名目上のことで、実際は他に愛人を作ります)。カエサリオンと名付けられたその子の誕生をを見届けると、カエサルはエジプトへの遠征を終え、ローマへ帰国します。そしてその凱旋式ではクレオパトラとカエサリオンを呼び寄せ、正妻を差し置いてそばにおくほどの寵愛ぶりでした。式の後もクレオパトラはローマにとどまり、豪華な別荘でローマでの生活を続けました。

チンギス・カン(1162~1227)

モンゴル帝国 ある日、チンギス・カンは重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。するとチンギスは「違う」と言い、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。

ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)

皇帝ナポレオン1世 1804年、ナポレオンは皇帝になります。皇帝としての呼び名はナポレオン1世。これ以後、1814年までのフランスの政治体制を第一帝政といいます。皇帝というのは世襲の地位ですから、いくら何でもフランス革命の民主主義的な理念と矛盾します。だから、ナポレオンは、即位前に国民投票を行う。「俺が皇帝になるのに賛成か、反対か?」と、国民に問うている。結果は圧倒的賛成多数。形成的ですが、革命以来の民主的伝統はかろうじて維持されている、といえなくもない。

フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910)

白衣の天使 それからナイチンゲールは、スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍します。後に判明することになりますが、着任後に死亡率は上昇しました。『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転することになりました。その当時、ナイチンゲールは、夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」と呼ばれたり、働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれました。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来しています。クリミア戦争当時、負傷した兵士たちを看護するナイチンゲールの影にキスしたという伝えから「ナイチンゲール症症候群」という言葉まであるほどです。

ジャンヌ・ダルク(1412~1431)

オルレアンの乙女 ジャンヌは17歳の時に「伝説のフランスを救う乙女」としてヴォクルール守備隊長に会いに行きます。彼女の生家は羊飼いですが、裕福で、日本で言えば庄屋さんにあたるため、田舎の守備隊長には顔もきき、邪険に扱う事はできなかったと思います。後にジャンヌは、「フランス国王の元に行き、オルレアンの囲みを解くことを神の声に命じられました。全ては私の意志ではなく、神の御意志です」と語っています。守備隊長にしてみれば「寝言は家のベッドで言え」という心境だったのでしょうが、ジャンヌの「神の声」を信じた叔父の強い後押しを、シノンにいる王太子シャルルの元に送り届け、ジャンヌは王太子との面会にまでこぎつけるわけです。

マリー・アントワネット(1755~1793)

有名なパンの話 飢餓に陥って反乱を起こしている民衆に向かい、『パンがなければお菓子を食べればいいのに』と、発言したと言われていますが、ことの真相は、反マリー・アントワネット派貴族による噂だったり、当時の文献の誤訳や誤解が元になっているようです。因みに、ここで言われている『お菓子』とは、ブリオッシュのことです。ブリオッシュはフランスの菓子で、パンよりも、バターと卵を多く使って作ります。現在ではパンとして扱われていますが、この時代のフランスでは、ブリオッシュをお菓子、ケーキ、クロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、オーストリアからマリー・アントワネットが伝えたものと言われています。