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8月, 2023の投稿を表示しています

住岡夜晃(1895~1949)

真宗光明団 真宗光明団は住岡夜晃によって1918年に生まれた浄土真宗の僧伽です。僧伽とは、人生の道を仏法に聞いていく人々の集まりのこと。仏法が人類すべての人に向けて説かれた教えである以上、真宗光明団も全ての人に開かれた場所です。

ジム・トンプソン(1906~1967)

タイ・シルク その後、OSSのバンコク支局長に就任するが、第二次世界大戦の終結により帰国命令を受ける。しかし、アメリカに残る妻と離婚したことなどもあり、タイに残ることを決意し、当時バンコク唯一のヨーロッパ風ホテルとして知られたオリエンタル・ホテルの経営に携わった後、当時機械織りによる大量生産の普及などで衰退の一途をたどっていたタイ・シルクに着目する。

夏樹静子(1938~2016)

Wの悲劇 和辻家は富豪一族である。一家が集まった正月のある夜、和辻家の令嬢・摩子が血染めのナイフを手にしながら居間に現れ、「私、おじい様を殺してしまった」と絶叫する。全員が集まると、和辻家の当主・与兵衛が殺されていた。

ノア・ウェブスター(1758~1843)

ウェブスター辞典 ウェブスター辞典とは、19世紀初頭にノア・ウェブスターが初めて編纂した一連の辞典。彼の名声にあやかり、その名を冠した無関係の辞典を指す場合もある。アメリカ英語の形成史を探る上で非常に貴重であるのみならず、英語辞典の代名詞としても名高い。

市川清流(1822~1879)

サトウ、松本幹一との出会い イギリス公使館翻訳官だったアーネスト・サトウが清流の『尾蠅欧行漫録』を翻訳し、チャイニーズ・アンド・ジャパニーズ・レポジトリー紙に連載を始めたのは、1865年7月のことである。サトウが日本学者となることを決意したのは、この時期と考えられる。1870年以降、サトウは神道の研究をするにあたって、清流を公使館に招聘して皇典について教示を受けたと見られる。当時公使館に勤務していた松本幹一もまた清流について古典を学ぶ。清流は松本に対しウェブスター大辞典のような国語辞典が日本に必要であることを説いたという。

イヴォ・アンドリッチ(1892~1975)

ドリナの橋 オスマン帝国の名宰相ソコルル・メフメト・パシャは生まれ故郷の近くを流れるドリナ川に立派な石橋を建設するようミマール・スィナンに命じた。ソコルル・メフメト・パシャには忘れられぬ過去があった。少年時代、キリスト教徒の親元から引き離されてトルコ人として教育を受けた。小舟に乗せられサヴァ川の支流ドリナ川を渡って、遠い都に旅立っていた日の暗く苦しい思い出を忘れなかったのだった。成人の後、彼は大出世をして宰相の地位まで昇り詰めて3代のスルタンに仕えた。

小夜福子(1909~1989)

小雨の丘 雨が静かに降る日暮れの街外れそぼ降る小雨に濡れ行くわが胸夢のような小糠雨亡き母の囁き独り聞く独り聞く寂しき胸に「ああ、母さん、あなたが死んで三年、私はこの雨にあなたを想う、雨、雨、泣きぬれる雨、木の葉も草も、そして私も」辛いこの世の雨悲しき黄昏よそぼ降る小雨に浮かぶは想い出移り行く日を数え亡き母を偲べばともしびがともしびが彼方の丘に「ともしび、ともしび、母さんの瞳によく似たともしび、私は歌おう、私の好きなあの丘で、母さんを思う心からの歌、ああ、なつかしい想い出の歌」丘は静かに降る今宵の寂しさよそぼ降る小雨と心の涙よただ独り佇めば亡き母の面影雨の中雨の中けむりて浮かぶ

マッテオ・ゴフリラー(1659~1742)

特徴 ヴェネツィアン・スタイルならではのニスに一番特徴が現れており、多くのゴフリラー楽器は濃い色のものが多い。またストラディバリ、グァダニーニ、グァルネリと同格ないしそれ以上と称されるゴフリラー・チェロは比較的大型のものが多い。

波岡惣一郎(1910~1951)

大陸行進曲 呼べよ日本一億の生命あふれる足音に地平も揺れよ大陸のすべてのものはいま朝だ昨日よ父がまた兄が勝鬨あげた大陸にこれから清い美しい大和桜を咲かすのだ思へば永く立ちこめた平和をみだす雲と霧いま霽れわたる大陸を共に行く日はもうすぐださうだ情の手を執つて新たに興す大亜細亜友よ一緒に防共の固い砦を築くのだ感謝に燃える万歳を送れ輝く日の丸に四億の民とむつまじく君が代歌ふ日は今だ涯なく青い野の風に今日から鳴るぞあの旗は進む大陸日本の意気のしるしだたましひだ

ミレーユ・ダルク(1938~2017)

女王陛下のダイナマイト 今はカタギとなり、ボート屋を営む元ヤクザのアントワーヌは、昔の仲間を助けたことをきっかけに、小物の詐欺師ミシャロンを巡って、「大佐」と名乗る男が率いるイギリス人ギャング団に命を狙われることになる。はじめのうちは平和的な解決を望んでいたアントワーヌだったが、執拗に攻撃して来るギャング団に遂に堪忍袋の緒が切れ、壮絶な反撃に出る。

津軽寧親(1765~1833)

藩主時代 1791年8月28日、信寧の子で本家の藩主であった津軽信明が若死にしたため、その養嗣子として跡を継いだ。同年10月1日、11代将軍・徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下・出羽守に叙任した。1805年5月15日、蝦夷地警備の功績により、7万石に高直しされる。1812年12月18日、蝦夷地警備の功績により、従四位下に昇進、10万石に高直しされる。1821年12月16日、侍従に任官する。

メイベル・ガーディナー・ハバード(1857~1923)

ベル電話会社の株式の保有 ベル電話会社は、1877年7月9日にメイベルの父ガーディナー・グリーン・ハバードによって組織された。ガーディナー・ハバードは発行済み株式5千株のうち1,387株を保有し、「管財人」という肩書きを持っていた。グラハム・ベルは1,497株を保有していたが、結婚時に、10株だけ残してメイベルに譲渡した。ヨーロッパへの新婚旅行に出発する直前に、メイベルは自分の株式の管理権を父親に譲る委任状に署名した。ガーディナー・ハバードはベル電話会社の事実上の社長兼会長となった。ベル電話会社は後にアメリカ電信電話会社へと発展し、一時は世界最大の電話会社となった。

石井亮一(1867~1937)

知的障害児教育へ 亮一が保護した孤女の中に、知的な発達の遅れが認められる女児が2名いた。石井は彼女たちに深い関心を抱くが、当時の日本において、これらの問題に対する処置や研究はまったくおこなわれておらず、「白痴」と呼ばれて人権侵害が甚だしい状態であった。亮一は、この問題に取り組むことを決意し、2度にわたり渡米し、米国各地の大学・図書館で研究に勤しみ、知的障害児教育の学祖エドゥワール・セガンの未亡人から生理学的教育法を学ぶ。また、ヘレン・ケラーとも会見し、知的障害や特殊な障害についての見識を深める。帰国後、留学成果を実践するため、聖三一孤女学院を在地に因んで滝乃川学園と改称・改組して、知的障害者教育の専門機関とする。

エミール・ガボリオ(1832~1873)

ルルージュ事件 1862年3月6日、パリ近郊のラ・ジョンシェール村で、寡婦クローディーヌ・ルルージュが殺害死体で発見された。しばしば男客の訪問が目撃されており、夫人は何者かの秘密を握っていたらしいと噂される。素人探偵「タバレの親父さん」が警察に協力し捜査に当たる。

鷹司孝子(1602~1674)

徳川家光の正室 家光との仲は結婚当初から非常に険悪で、実質的な夫婦生活は皆無であり、結婚後ほどなくして事実上家光から離縁された。大奥から追放されて「御台所」の称号も剥奪され、江戸城内の中ノ丸に新たに御殿を与えられた後、「中の丸様」と変えられ、長期にわたる軟禁生活を送らされるなど、家光の在世中は終始忌み嫌われ、冷遇され続け、家光との間に子供は儲けなかった。しかし弟の鷹司信平が孝子を頼って江戸へ来た時には、家光は信平を歓迎し俸禄を与えて召し抱えた。

エグランティン・ジェップ(1876~1928)

セーブ・ザ・チルドレン しかしながら、まもなくその活動の焦点が変わっていく。1919年4月5日、委員会は、ドイツとオーストリアの子どもたちを救済する基金を立ち上げた、セーブ・ザ・チルドレン基金である。予想に反して、この組織が、1919年5月19日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでその産声を上げると、イギリス中から膨大な金額の寄付が寄せられ、組織は直ちに救済活動に着手することとなった。基金の成功のおかげで、エグランティンとドロシーは子どものための国際的な活動団体を立ち上げることに思い至った。国際セーブ・ザ・チルドレンは、1920年ジュネーヴで創設され、イギリス・セーブ・ザ・チルドレンとスウェーデンのこれに対応する組織「ラッダ・バルネン」がその中心的な役割を担った。

関行男(1921~1944)

神風特別攻撃隊 1944年10月17日、第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマニラに到着した。大西は一航艦長官に内定したときから航空機による特攻開始を考えており、米内光政海軍大臣や及川古志郎軍令部総長の了承を取り付けていた。マニラに向かう途中には台湾にも立ち寄ったが、台湾沖航空戦の真っ最中で、新竹で日本軍戦闘機とアメリカ軍戦闘機の空中戦の様子を見学した。そこで日本軍戦闘機の苦戦ぶりを見て愕然とし、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話している。大西は台湾入りしていた連合艦隊司令長官豊田副武大将とも面会し「大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、被害に見合う戦果を期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ実行できない」と特攻を開始する決意を述べている。

ウィリアム・ハルゼー・ジュニア(1882~1959)

第二次世界大戦~第3艦隊司令長官~ 1943年3月15日、第3艦隊司令長官に就任。空母戦力を再建した第3艦隊は、スプルーアンスが指揮するときは第5艦隊と名称が変更され、交代しながら指揮した。旗艦座乗時、ゲダンク・バーを利用する将兵の列に並んでいた際、上官優先と言って割り込みをしようとした新人少尉二人を一喝して、元の場所に戻せられた。