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2月, 2020の投稿を表示しています

梅津美治郎(1882~1949)

梅津・何応欽協定~一括要求と回答~ 暗殺事件に加え、反満抗日の孫永勤軍を河北省政府主席于学忠が擁護した件と戦区保安隊配置に関する于学忠の独断の言動等は、塘沽停戦協定に違反しているとして、5月29日、支那駐屯軍参謀長酒井隆大佐は、上官である梅津美治郎支那駐屯軍司令官、及び普段は陸軍省にいる林銑十郎陸軍大臣がそろって満州に出張していることを良いことに、以前から中国側と交渉をしていた高橋坦公使館付武官補佐官を関東軍の代表として誘い、全くの独断で北平軍事分会委員長何応欽と会談を持ち、中国当局が日本側の要求に応じない場合、日本軍は満洲国の国境から中国側に進出して北平・天津の地域をも停戦地区に取り込み、主権の制限を加えかねない強硬な態度を示した。

俊寛(1143~1179)

平家女護島~鬼界が島の場~ 鹿ケ谷の陰謀を企て平家転覆を企んだ俊寛・成経・康頼の三人は、鬼界ヶ島に流され早三年。彼らの流罪には刑期がなく、死ぬまでこの島にいなければならなかった。食べるあてもなく、たまにくる九州からの船に硫黄を売ったり、海草を食べたりして食をつないでいた。物語は、この地に住む海女千鳥と結婚することを成経が打ち明けるところから始まる。島にきて以来の絶望的な状況の中起こった、数少ない幸福な出来事を歓びあう三人と千鳥。そして形ばかりのことながら、成経と千鳥は俊寛と康頼の前で祝言の杯を交わすのだった。

喜撰(生没年不詳)

喜撰式 歌学書。《和歌作式》ともいう。成立年代不詳。平安中期の作か。喜撰法師作というが根拠はない。和歌四式の一つとして古来尊重された。最後の神世異名の部は枕詞の論として初期の重要なものであるが、それ以外特に見るべきものはない。平安時代の後期には真偽の両本が伝存し、極度に混乱していたが、《歌学大系》において、初めて整理された形で翻刻された。

大伴御行(646~701)

持統期 天武天皇の代に御行の地位は官人の中では中級にとどまっていたが、持統天皇の代には、高市皇子、多治比嶋に次ぎ、布勢御主人と並ぶ高い地位に上った。691年1月13日に、布勢御主人と共に80の封戸を増し与えられ、前のとあわせて300戸になった。既にあった220戸のうち100戸は壬申の功によるが、残る120戸がいつ与えられたかは不明である。位は御主人と同じく直大壱であった。694年1月2日に、布勢御主人と共に正広肆に位を進め、200戸を増して前のものと500戸となり、氏上とされた。

ジョゼフ・バンクス(1743~1820)

エンデバー号の航海 その後すぐに、バンクスは、王立協会と王立海軍が計画した、エンデバー号による南太平洋探検航海に、ソランダー、画家シドニー・パーキンソンらとともに、科学班の一員として参加した。この事業の主要な推進者であった海軍大臣サンドウィッチ伯の幼なじみでもあったバンクスは、私費で1万ポンドを拠出した。これは、ジェームズ・クックによる太平洋探検の第一回の航海である。エンデバー号はマデイラ諸島を経由して、まずブラジルに向かった。バンクスは同地でブーゲンビリアの最初の科学的記載を行なった他、多くの南米の植物を採集した。

ジョン・ディキンソン(1782~1869)

抄紙機構の設計 技術革新の時代、紙を漉く作業を、手作業から機械へと置き換えようという試みは、ヨーロッパ各地でなされていた。1798年にはフランスのルイ・ロベールが連続抄紙が可能な長網抄紙機を発明し、その後1808年にイギリスのヘンリー・フォードリニアがこれを実用化した。ディキンソンは1809年、抄紙機械の設計に関する特許を取得した。同年、ディキンソンは投資家のジョージ・ロングマンから財政支援を受け、ハートフォードシャーのアプスリーで製粉所として使われていた工場を購入した。その工場は前の所有者によって製紙工場として改築されており、売り手のジョン・スタッフォードはディキンソンの文房具店の仕入先業者であった。ディキンソンは工場内の機械をすべて自分が設計したものに置き換えた。

ジョン・ブランチ(1782~1863)

海軍長官として 1829年、アンドリュー・ジャクソンが大統領に就任すると、ブランチはアメリカ合衆国海軍長官として指名された。海軍長官に着任したブランチは、既存の艦船の維持補修に比重を置き、新たな艦船の建造予算を縮小した。また1831年、ブランチはスマトラ島で合衆国の商船の乗組員が殺害されたことを受け、合衆国の通商促進と保護のため、原住民を処罰するためにフリゲート艦ポトマックを派遣することを決定した。ポトマックは翌1832年に同島クアラ・バットーの港を攻撃した。

フランソワ・オーベール(1782~1871)

ポルティチの唖娘~第1幕:アルコ公爵の宮殿の庭~ アルコ公爵の宮殿では人々が公爵の息子アルフォンソとその婚約者エルヴィーラの婚礼の支度をしている。しかしアルフォンソは、かつて深い仲になってしまったのにもかかわらず捨ててしまった漁師の娘フェネッラが、ショックで口が利けなくなってしまったことを、ひどく後悔している。そこへ現れた親友ロレンツォにフェネッラについて聞くと、ロレンツォは彼女は君の父上が君と別れさせるために、どこかに隠したかも知れないと語る。ますます後悔を深めたアルフォンソは、ロレンツォと共に立ち去る。

アレッサンドロ・マンゾーニ(1785~1873)

いいなづけ いいなづけは、アレッサンドロ・マンゾーニの長編小説。1827年に刊行された。イタリアではダンテの『神曲』とならぶ国民文学とされる。17世紀のスペイン統治下の北イタリア農民の姿を描いた歴史小説であるが、マンゾーニはこの小説の執筆を通して近代イタリア語を完成させたと評価されており、イタリア統一運動を文化的側面から支える役割も担った。

アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン(1772~1794)

ヴァンデの反乱 指名手配を受け潜伏生活を続けて、故郷に戻ったが革命政府の30万徴兵に不満を爆発させた農民に依頼され1793年4月12日、歓呼の声の中、住民達を率いてヴァンデの反乱に参加する。「私が前進するときは、私に続け。私が怯んだら、私を殺せ。私が死んだら、復讐しろ。」という有名なセリフで味方を鼓舞した。

ルートヴィヒ4世(1282~1347)

フランクフルトの帝国議会 アヴィニョンのローマ教皇ヨハネス22世を異端として廃位し、対立教皇ニコラウス5世を立てるが、1329年にルートヴィヒ4世がローマを離れるとニコラウス5世はすぐに廃位された。1337年にチュートン騎士団にリトアニア大公国、ルーシを征服する特権を与えた。1338年、フランクフルトの帝国議会で、選挙で選ばれた王は同時に皇帝でもあり、教皇の承認は必要ないと決められた。

ハンス・シャウロン(1893~1972)

ベルリン・フィルハーモニー

ヤン・ファン・リーベック(1619~1677)

ケープ植民地~オランダ人の入植~ 1652年にケープタウンに入植した最初のオランダ人は、ヤン・ファン・リーベックというオランダ東インド会社員で、バタヴィアに勤務経験があり、アフリカ南端のケープタウンがオランダ本国とジャワ島のバタヴィアを結ぶ中継地として最適であると目をつけ、家族を含む80人でまず入植した。リーベックはケープ植民地に入植したオランダ人、つまり後にブール人といわれる人々の先祖として、後の南アフリカ共和国のアパルトヘイト時代には紙幣にもその肖像画が描かれていた。17世紀末までに移住してきた入植者は600人程度であったが、ブールとはオランダ語で農民を意味しており、彼らの多くは貧しい農民であった。ボーア人は勤勉に努力しながら、現地のアフリカ人を制圧してゆき、彼らを奴隷として大農園経営を行うようになった。またケープタウン港は、オランダ船がジャワ島のバタヴィアや、日本の長崎との往復の貴重な補給地として重要な役割を果たした。

ロレンソ了斎(1526~1592)

日本人イエズス会員 ロレンソはザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。1559年、コスメ・デ・トーレスの命を受けガスパル・ヴィレラと共に京に入り、苦労の末に将軍・足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。また、当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会い布教許可を得た。さらにキリスト教に対し好意的でなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答えた。論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請い、友照は子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。

二条天皇(1143~1165)

二条天皇の略歴 二条天皇を支える勢力として、藤原伊通・大炊御門経宗・葉室惟方らが集結して、二条親政派を形成した。ここに、二条親政派と後白河院政派の対立が始まった。二条天皇は美福門院に育てられたこともあり、実父・後白河上皇との関係は冷淡なものであった。1159年12月に平治の乱が起きた。乱勃発直後は、藤原信頼が政局を主導するが、これを快く思わない三条公教と親政派が反発し、三条公教の計らいにより平清盛を親政派に引き込み、親政派と清盛の策謀により二条天皇は清盛の六波羅邸へ行幸する。二条天皇の六波羅行幸によりそれまで官軍だった信頼一派は賊軍となり、天皇を動かした経宗・惟方らと平清盛が官軍の地位を獲得して勝利を得る。

斯波高経(1305~1367)

新田一族との戦い やがて尊氏が建武政権から離反するとこれに従って以後武家方の有力武将として各地を転戦する。1336年の新田義貞、楠木正成との間で行われた湊川の戦いにも山手軍の大将として参陣。楠木勢の退路を塞ぐなど勝利に貢献する。合戦後、尊氏が京都に武家政権を成立させ、後醍醐天皇が吉野に南朝を成立させて南北朝時代となると、北朝の越前守護として主に北陸方面で南朝方と攻防を繰り広げた。

吉田定房(1274~1338)

吉田定房奏状 1324年、正中の変の際に後醍醐天皇の勅使として鎌倉に下向して、幕府に後醍醐天皇が無関係であると主張し、その後は討幕のための密議を行う後醍醐天皇を諌めた。1330年6月21日、後醍醐天皇から諸卿に対して意見を求められた際に定房は徳政の推進と倒幕を諌める意見書を提出した。醍醐寺三宝院に所蔵されていた文書の1つがその意見書の写しであると言われている。

まど・みちお(1909~2014)

ぞうさん ぞうさんぞうさんおはながながいのねそうよかあさんもながいのよぞうさんぞうさんだれがすきなのあのねかあさんがすきなのよ

ジェイムズ・エドウィン・ウェッブ(1906~1992)

NASA 1961年5月25日のケネディの宣言から7年後の1968年10月、ウェッブは議会でNASAに対する支援を求めた。ワシントンD.C.での長期間の根回しやリンドン・ジョンソン大統領の後押しもあり、ウェッブはアポロ計画に対する継続的な支援や予算を獲得することができた。彼の在任中に、NASAは複数の研究所の雑多な寄せ集めから統制された組織に変わった。ウェッブは、後にジョンソン宇宙センターとなる有人宇宙船センターの創設に中心的な役割を果たした。アポロ計画に集中するようにというプレッシャーにも関わらず、ウェッブはマリナー計画及びパイオニア計画での惑星探査の成功も請け合った。

ソルフィン・ソルザルソン(970~不明)

ヴィンランド ソルフィンは、葡萄が豊富ゆえに名づけられたという新天地ヴィンランドへの移民を目指すという重大な決断をくだすわけだが、『グリーンランド人のサガ』では、これは妻のグズリーズが強い主張したことによるとされる。レイフはヴィンランドへの1回目の遠征のときに建てた家屋をソルフィンたちに借用するのは許可したが、それをまるまる譲り渡すことは渋っていた。ソルフィンたちの移民団は、『グリーンランド人のサガ』によれば、男60人と女5人を率いた構成であるが、『赤毛のエイリークのサガ』では、ソルフィンの船、スノッリの船、ビャルニとソルハルの船、の三隻で160人を率いて出立したとされている。そしてレイフやその弟のソルヴァルドが、その前の遠征で確立した航路をおおよそたどってヴィンランドへ向かったとされる。

ロビン・ジョージ・コリングウッド(1889~1943)

思想~自然哲学~ 相対性理論の哲学的な意味を正確に考察した作品として、サミュエル・アレクサンダーとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの主著を高く評価している。ヘーゲルの自然哲学を肯定しており、自然とは概念が時空間という形で外在性をもったものであると考えた。また、自然には精神を生み出す必要性が内在していると主張し、自然の目的を実現するためには自然界から歴史界へと概念が発展する必要があると論じた。

アンリ・クリストフ(1767~1820)

ハイチ王国 クリストフは1791年のハイチ革命で有名となり、1802年には将軍の階級にまで昇任した。1806年には皇帝となったジャン=ジャック・デサリーヌに対するクーデターに参加し北ハイチを支配下に置いた。主要なライバルはクーデター首謀者のアレクサンドル・ペションだった。ペションは共和制を擁護して、国の南部を支配した。1807年にアンリは「ハイチ国陸海軍大元帥・大統領」となり、同時にペションは南部で「ハイチ共和国」の大統領となった。1811年アンリは北ハイチをハイチ王国とし、自ら王と宣言した。1811年4月1日の命令が、彼の完全な称号を伝えた。

メルエンプタハ(不明~前1203)

メンフィス~メルエンプタハのプタハ神殿~ この場所は第一次世界大戦中にクラランス・スタンレー・フィッシャーによって発掘させた。発掘は15平方メートル程の大きな中庭の前部で開始された。南側は大きなドアの開口部があり、ファラオとプタハの別名がレリーフに納められている。神殿のこの部分だけが発掘され、部屋の更に少し北側はまだ発掘する必要がある。発掘中、考古学者は泥煉瓦で造られた堂々たる建造物の最初の痕跡を掘り出した。それはすぐに神殿に合わせて建てられた巨大な儀式用の宮殿であることがわかった。石造神殿の重要な遺物のいくつかはエジプトから調査資金を提供したペンシルベニア大学にある博物館に寄贈され、他はカイロのエジプト考古学博物館に残っている。

フェルディナント・フェルビースト(1623~1688)

業績 フェルビーストは、ヨーロッパの科学の優れた点を知らしめることで、ヨーロッパの宗教を広めようとした。そのため、地球儀、日時計、ピンホールカメラ、洪水防止用のポンプなどを製作した。また、ヨーロッパの技術による世界地図『坤輿全図』を製作し、ロシアとの国境制定へ影響を与えた。これは中国初の国境制定であったが、イエズス会は喜望峰経由の船ルートよりも距離の近いモスクワ経由でのローマ=北京ルートを探っていたのであった。そのほかにも原始的な蒸気自走車製作を行い、走行させている。

張載(1020~1077)

思想~気の哲学~ 人間性を「気質の性」と「天地の性」の両面から考えることを提唱し、道徳の淵源は「太虚=天地の性」にあると説き、気質を浄化して天地の性に帰ることを勧めた。「心が性と情を統べる」という見解は、後の朱熹によって二程にも勝るとされている。個人修養と社会生活における「礼」の重要性を強調し、仏・道の二教を排斥し儒教の独立性を明確にしようと努めた。

楊炯(不明~692)

盈川集~従軍行~ 烽火は西京を照らし心中自ら平らかならず牙璋鳳闕を辞し鉄騎竜城を繞る雪暗くして旗画は凋し風多くして鼓声みだる寧ろ百夫の長たらん一書生となるに勝れり

子産(不明~前522)

宰相として おりしも紀元前546年には晋と楚の間で弭兵の会が持たれていた。弭兵とは戦いを止めるという意味で、平和条約のことである。この機会に子産は晋と楚の修好を取り持つ役を務め、鄭に平和をもたらした。内政面での子産は土地制度・軍制・税制の改革を推し進めた。具体的にその方策を述べると土地制度に於いては、それまで土地と土地との間で区画が無かった耕地に畦や溝を設けて、整理した。税制・兵制に於いては丘賦と言う新しい税を定めた。丘賦の具体的内容については不明。また当時は卿・大夫・士と言う枠組みが崩れつつあり、より下の階層である士が力を付けて上を犯そうとしていた。そこで子産は大夫たちの協力を得ることで士を押さえ込んだ。

宣帝(前91~前48)

政策 親政後の宣帝は「信賞必罰」をモットーとした法家主義的政治信条にのっとり、弘恭・石顕ら有能な法政通を官僚に起用し、政策に疎い儒者たちを政治の中枢から遠ざけた。減税や常平倉の設置、国民への爵位の授与、中央と地方での行政改革、犯罪取締りのための刑罰の強化といった政策を行った。これらは民力を休養させつつ中央政府の権力強化を図る内政重視政策であり、その結果、武帝以降の国内の疲弊を緩和させることに成功した。とりわけ獄吏による刑務所内での虐待を禁止し不当に高額で民衆の生活を圧迫していた塩の値段を大幅に下げたことは、刑務所で育ったのち民間で暮らしていた宣帝ならではの施策と言える。

ダウラト・ラーオ・シンディア(1779~1827)

第二次マラーター戦争と講和 バージー・ラーオ2世はプネーから逃げざるを得ず、1802年12月31日にイギリスと軍事条約バセイン条約を結び、マラーター王国の領土割譲なども約し、1803年5月3日にプネーに戻っていた。そのため、ヤシュワント・ラーオはイギリスと戦うため、グワーリヤルのダウラト・ラーオやナーグプルのラグージー・ボーンスレー2世に団結を求めた。シンディア家もイギリスがマラーター同盟の問題に介入してきたことを脅威に思っていたので、宰相府から離れることにした。

フレデリック・ルイス(1707~1751)

ハノーファーのプリンス・フリードリヒ・ルートヴィヒ プリンス・オブ・ウェールズに叙された後でさえ「ハノーファーのプリンス・フリードリヒ・ルートヴィヒ」として知られていた。両親と長く離れていたこともあって素行が悪く、渡英後は特に母とは死ぬまで険悪な関係であった。政界でも父であるジョージ2世と対立し、首相ロバート・ウォルポールに反発して1741年の総選挙で足並みを乱し、翌1742年のウォルポール辞任に繋げた。ヘンリー・ペラム政権でも野党と組んで対立したが、1751年、父ジョージ2世に先立って急逝した。長男ジョージ・ウィリアム・フレデリックが新たにプリンス・オブ・ウェールズに叙され、1760年にジョージ3世として王位を継承した。

チャールズ・ジェームズ・フォックス(1749~1806)

ロッキンガム侯爵内閣の外相 1781年11月までにアメリカ独立戦争の敗北は決定的となり、ノース卿内閣は1782年3月に総辞職に追い込まれた。代わって第二次ロッキンガム侯爵内閣が成立し、フォックスは新設された外務大臣として同内閣に入閣した。内閣においてフォックスはアメリカ独立を無条件に支持し、また議会改革に積極的な立場を取ったため、アメリカ独立に消極的な内務大臣シェルバーン伯爵と対立を深めた。

クレモナのジェラルド(1114~1187)

訳書 ジェラルドの訳した学術書にはプトレマイオスの『アルマゲスト』がある。ジェラルドの時代ではラテン語のテキストは少なかったためトレドまで探しに来なければならなかった。1175年に結局はアラビア語から翻訳することになったこの著作は、15世紀にトラペヅンティウスやレギオモンタヌスがギリシャ語の原著から訳すまで西ヨーロッパ言語への唯一の訳書であり、コペルニクスの理論が現れるまで、天文学の基礎の位置を占めた。またアッ=ザルカーリーらによって製作された天文表『トレド表』もラテン語に訳した。

梓みちよ(1943~2020)

こんにちは赤ちゃん こんにちは赤ちゃんあなたの笑顔こんにちは赤ちゃんあなたの泣き声そのちいさな手つぶらな瞳はじめましてわたしがママよこんにちは赤ちゃんあなたの生命こんにちは赤ちゃんあなたの未来にこのしあわせがパパの希望よはじめましてわたしがママよふたりだけの愛のしるしすこやかに美しく育てと祈るこんにちは赤ちゃんお願いがあるのこんにちは赤ちゃんときどきはパパとホラふたりだけの静かな夜をつくってほしいのおやすみなさいおねがい赤ちゃんおやすみ赤ちゃんわたしがママよ

トゥドル・ウラジミレスク(1780~1821)

蜂起の開始~ワラキア蜂起~ 1821年1月19日、トゥドールはオルテニアへ向かい、正義と自由を近いながら周辺地域住民らに武器をとって戦うような檄を飛ばしたが、これにはオルト川西側の県が呼応した。ヴラディミルはティスマナ修道院に到着すると1月23日パデシュ宣言を発表、ワラキア全土に蜂起が拡大しトランシルヴァニアにも波及したが、モルダヴィアは地域的に孤立している上にオスマン帝国に対して対抗する意識が薄かったためさほど動揺が広がらなかった。

シャンカラ(700~750)

シャンカラ・アーチャーリヤ シャンカラ・アーチャーリヤは、哲学者・宗教者でシャンカラ派の宗教的開祖と見なされるシャンカラの尊称、またはヒンドゥー教の最高指導者であるシャンカラ派の寺院の法主の尊称である。歴代のシャンカラ・アーチャーリヤは、ウパニシャッド聖典の真理を体得した聖者として弟子を指導し、シャンカラの化身として民間の信仰を集めてきた。シャンカラ・アーチャーリヤは全インドに4人おり、現代でも宗教的・精神的指導者であり、政治にも影響を及ぼしている。

ヤショーヴァルマン1世(不明~910)

獅子の男 また、兄弟との王位継承争いの際にハリハラーラヤの王宮が破壊されたため、後にアンコール・トムが建設されるシュムリアップ川流域一帯に、第1次アンコール王都とされる新都を建設し、そこに遷都したことで知られる。この新都はヤショーヴァルマン1世の名をとってヤショーダラプラと呼ばれた。

ロバート・ゴダード(1882~1945)

最初の液体燃料ロケット 1926年3月16日にマサチューセッツ州オーバーンで最初の液体燃料ロケットを打ち上げた。その歴史的な出来事を彼は日記に簡潔に記入した。「液体推薬を使用するロケットの最初の飛行は昨日エフィーおばさんの農場で行われた」。”ネル”と名付けられたロケットは人間の腕くらいのサイズで、2.5秒間に41フィート上昇した。それは液体燃料推進の可能性を実証した重要な実験だった。

モハメド・アリ(1942~2016)

キンシャサの奇跡 キンシャサの奇跡は、1974年10月30日、ザイール共和国の首都キンシャサの「5月20日スタジアム」で行われたプロボクシングWBA・WBC世界統一ヘビー級タイトルマッチの通称。王者ジョージ・フォアマンと挑戦者モハメド・アリが対戦し、アリが劇的な逆転KO勝利をおさめたことからこの名で呼ばれるようになった。

マルセル・ジュノー(1904~1961)

特記事項 彼はスペイン内戦の際にはフランコ政権側から、第二次世界大戦時にはドイツ側から危険分子とみなされており、ゲシュタポの拘束を受けたこともある。広島の惨状を知った際にはいち早くGHQに交渉して医療物資を提供させるなど交渉人としても卓越した人物であった。

レオポルト1世(1290~1326)

モルガルテンの戦い モルガルテンの戦いは、1315年11月15日に起こった。原初同盟の1500名の軍隊はスイスのモルガルテン峠近くのエーゲリ湖の湖畔で神聖ローマ帝国のオーストリア公国軍兵士の一団を待ち伏せした。オーストリア軍を破ったスイス軍はヴェルナー・シュタウファッハに率いられており、オーストリア軍はレオポルト1世公に指揮されていた。スイスの勝利は現在のスイスの中核を形成する永続的な永久盟約を固めることとなった。

ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207~1273)

第一期 10年以上の流浪の末、一家はルーム・セルジューク朝のスルターン・カイクバード1世に招かれてアナトリア中南部の都市コンヤに定住し、コンヤに到着したバハーウッディーン一家はカイクバード1世から手厚い歓迎を受けた。ジャラール・ウッディーンは居住地のルーム地方にちなみ、ルーミーと号した。1231年に父バハーウッディーンが亡くなった後、その高弟ブルハネッディンに伴われてハラブ、ダマスカスなどの都市に留学し、留学先ではイスラーム神学やハナフィー派法学を修めた。帰国後は部屋に籠って祈りと瞑想に身を捧げる潔斎を開始し、修行を終えた後にブルハネッディンから学問の修了を言い渡され、イルシャードの地位を認められた。父の後継として自らも説教師の仕事に就き、コンヤではイスラーム教徒以外にギリシャ正教の修道士とも交流を持った。ルーム・セルジューク朝末期の実力者である宰相ムイン・アッディーン・スライマーンもルーミーに師事し、ルーミーは彼から保護を受けた。

典韋(不明~197)

典韋の来歴 濮陽の呂布と曹操が戦ったとき、典韋は数十人の突撃隊を率いて、短戟を手に矢の雨の中で奮戦し呂布軍を防ぎ止めた。都尉となり、曹操の親衛隊であった精鋭数百人を率い、戦闘のたびに先鋒として敵陣を陥れた。これらの功績により昇進して武猛校尉となった。

夏侯覇(180~259)

車騎将軍 裴松之が引く『魏略』によると、蜀漢の劉禅の皇后が創業の功臣である張飛の娘で、その母親が夏侯覇の族妹であったことから、夏侯覇は蜀漢で手厚く持て成され、直ぐに車騎将軍に任じられたとある。車騎将軍就任後、当時蜀の名将として知られていた張嶷に近づき、親交を深めようとしたが、性急に仲良くしようとしているを窘められている。