スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2018の投稿を表示しています

シャープール1世(215~272)

マニ教を保護 シャープール1世は、当時イランの領内であったバビロンで興ったマニ教を保護し、その創始者マニを宮廷に招いて保護したことで知られている。マニ教はゾロアスター教とキリスト教や仏教の教えと折衷した教えであったが、光明神アフラ・マズダと暗黒神アーリマンの抗争が、最後にはアフラ・マズダの勝利に終わるというゾロアスター教の教義を否定し、現実をより悲観的にみて善行による救済を説くものであったのでゾロアスター教祭司団からは異端であるとして否定されていた。父のアルダシール1世は、新たな権力を創始するためにゾロアスター教祭司団の権威を利用しようとしてその保護にあたったものと考えられるが、シャープール1世はローマとの戦いで勝利するなど、すでに権威を確立していたからか、ゾロアスター教の保護による正当性の強調に熱心でなかった。おそらくは、シャープール1世は石としてのマニの能力を評価し、宮廷に招いて徴用したものと思われ、シャープール1世自身がゾロアスター教を放棄したわけでもなく、宮廷におけるマニの影響力は限定的であったようだ。それゆえ、シャープール1世が死去するとマニは宮廷を離れ、教団の発展に専念する。シャープール1世の王位を継承したワフラーム1世は、祭司長のキルデールの進言通り、マニ教弾圧に踏み切り、やがてマニは捕らえられて処刑されることとなる。

アレクサンドリアのアタナシオス(298~373)

アタナシオスの教義 アタナシオスの説いたことは、「哲学的、論理的であろうとなかろうと、キリストは本当の神性を持ち、まさに神自身と全く同質である」ということであった。論理的ではないけれども、これはキリスト教の伝統的なキリスト観であり、多くの素朴なキリスト教徒たちは、自分たちの救いを神なるキリストに託していたのであった。そして、イエスは神聖ではあるがあくまで人の子であり、神そのものではない、というアリウス派とするどく対立した。ニケーア公会議で激しい論争の結果、正統とされ、後にさらに神とイエスを一体と見るこの考えに、聖霊にも神性を認める考えが結びついて、後に三位一体説が出来上がる。

テオドシウス1世(347~395)

テオドシウスの懺悔 テオドシウス1世は390年、ギリシャのテサロニケで暴動を起こした住民7000人を殺害した。ミラノ司教アンブロシウスは、皇帝がその罪を懺悔しなければ聖餐式を許さないと申し渡す。やむなくテオドシウスはアンブロシウスに従ってミラノの教会で懺悔し、その後その影響を強く受けるようになった。その結果が、キリスト教国教化につながる。なおアンブロシウスは、教父アウグスティヌスの師としても有名。

ジョン・ナッシュ(1752~1835)

王立協会

ティコ・ブラーエ(1546~1601)

超新星1572 ティコ・ブラーエが最も詳しい観測記録を残し、後世に知られたため「ティコの星」の名があるが、この星に最初に気付いたのは、ティコ・ブラーエではなく、おそらく1572年11月6日に発見したヴォルフガング・シューラーである。イタリアの天文学者フランチェスコ・マウロリーコもブラーエより前にこの星を見つけていたと言われる。

アンヌ・ドートリッシュ(1601~1666)

フランス王妃 アンヌはルーヴル宮へスペイン人の女官や司祭とともに移ったが、ルイ13世の母后マリー・ド・メディシスから無視された。宮廷の実権を握る母后は自分の嫁に敬意を払わず、意気地のない若い国王は王妃に全く関心を示さなかった。スペイン人である王妃はフランス文化に慣れず、彼女はスペインの礼儀に従って生活を続け、フランス語はぎこちないままだった。だが、人々は彼女の美しさには感嘆していた。彼女は栗色の髪、色白の肌、青い目そして並ぶ者なしと称された白い美しい手で名高かかった。この自慢の手を守るために、彼女は美しいブレスレットで飾った典雅な手袋を着用していた。

エドワード・シーモア(1506~1552)

エドワード6世の摂政として ヘンリー8世は自分の崩御後、特定の人物が幼い息子エドワード6世を傀儡にすることを恐れていた。そのため遺言状では息子の成人まで統治は枢密院が行うとし、枢密院の決定には枢密顧問官過半数の賛成が必要と定めた。しかし1547年1月にヘンリー8世が崩御し、10歳のエドワード6世が即位するやハートフォード伯は真っ先にエドワード6世の身柄を抑え、枢密顧問官たちの支持を得て、その摂政となり、護国卿と大蔵卿に就任した。さらに1547年2月16日にはサマセット公に叙せられた。こうしてイングランド統治権は彼が握るところとなった。

ルドルフ2世(1552~1612)

弟マティアスとの関係 弟マティアスとの関係は、ハプスブルク家の中でも最悪だったという、元々、マティアスは宗教問題などに無策だったルドルフ2世を苦々しく思う一方、ルドルフ2世の才能にコンプレックスを抱いていた。対立を決定的にしたのは、1577年、スペイン領ネーデルラントにマティアスが調整役として赴いて失敗したことだという。兄ルドルフはマティアスのウィーン帰還を許さなかった。マティアスはハンガリー貴族を利用し、1611年にはプラハに侵攻して、兄を帝位から引きずりおろした。

ボリス・ゴドゥノフ(1551~1605)

即位とその治世 1598年1月、男子のいないフョードル1世が崩じてリューリク朝が絶えると、摂政で義兄のボリスが全国会議でツァーリに選出された。また、ボリスが貴族会議による権限制約を拒むと、リューリクの流れをくまないボリスは帝位を受ける出自でない、と貴族から反発が挙がった。そのため、ボリスはフィラレートら主だった有力貴族を失脚させ、反対派を力で抑え込んだ。

アン・ブロンテ(1820~1849)

ワイルドフェル・ホールの住人~第一部~ ギルバート・マーカムが語り手である。ワイルドフェル・ホールに、身元のはっきりしない女性ヘレン・グラハムと息子のアーサーが引っ越して来た。このことは近隣でさまざまな噂になる。ギルバートはヘレンに恋をするが、ヘレンはギルバートの友人であるフレデリック・ローレンスの愛人だという噂が流れる。取り乱したギルバートはフレデリックを傷つけてしまう。ヘレンはこのことを知らぬまま、ギルバートの求愛に応えられないことを示そうと、自分の書いたものをギルバートに見せて正体を明かす。

エミリー・ブロンテ(1818~1848)

嵐が丘 1801年、都会の生活に疲れた自称人間嫌いの青年ロックウッドは、人里離れた田舎にある「スラッシュクロス」と呼ばれる屋敷を借りて移り住むことにした。挨拶のため「スラッシュクロス」唯一の近隣であり大家の住む「嵐が丘」を訪れ、館の主人ヒースクリフ、一緒に暮らす若い婦人キャサリン・リントンや粗野な男ヘアトンといった奇妙な人々と面会する。ヒースクリフは無愛想で、キャシー・リントンはその妻でもなさそうである。ヘアトンは召使のような格好をしているが、食卓を一緒に囲んでいる。しかも、この住人たちの関係は冷え切っており、客前でも平気で罵りあっている。彼等に興味を抱いたロックウッドは、事の全貌を知る古女中エレンに事情を尋ね、ヒースクリフと館にまつわる愛憎と復讐の物語を聞かされることとなる。

シャーロット・ブロンテ(1816~1855)

ジェーン・エア ジェーン・エアは孤児となり、リード夫人とその子供達から差別されて怒りと悲しみの中で育つ。9歳になった頃、寄宿学校ローウッド学院に送られ、そこで優しいテンプル先生やヘレン・バーンズと出会う。ヘレンの深い信仰心と寛大さにしだいに尊敬の念を抱くようになるが、折しもローウッドでは不衛生の問題からチフスが大流行し、ヘレンは結核にかかり死亡する。後になってローウッド学院は環境・食事の汚染が世間に暴かれて改善される。

ジョン・エヴァレット・ミレー(1829~1896)

オフィーリア

プロスペル・メリメ(1803~1870)

カルメン メリメは執筆前に2回スペイン旅行をしており、その1回目の旅行の際に「カルメン」の題材を思いついた。作品では作者に仮託される考古学者がスペインで出会ったある山賊の身の上話を紹介するという体裁でカルメンの物語が描かれる。彼はカルメンという情熱的なジプシー女に振り回されたあげく、無事に身を染めてお尋ね者となり、ついには死刑となる。

ロマン・ロラン(1866~1944)

ジャン・クリストフ~第6巻アントワネット~ フランスの地方の旧家ジャナン家の物語。父親は裕福な銀行家で、子供たちは何の苦労もなく育っていた。姉のアントワネット、弟のオリヴィエ。だが父が投機に手を出してジャナン家は破産し、父は拳銃自殺する。母親と子供の3人は町を逃げるように去り、パリの親戚を当てにするが冷たく拒絶される。母親は必死で働くが心労で病に倒れて死んでしまう。

カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786~1826)

魔弾の射手~第1幕~ 狩人のマックスは明日行われる射撃大会の予行演習をしていた。しかし彼の放つ弾は的を射抜くことができない。このままでは明日の結果は目に見えている。しかも恋人もアガーテの父・クーノーは、彼の明日の結果次第ではアガーテとの結婚を認めないといっている。狩人仲間のカスパールは、自信を失っているマックスにつけこみ、「人々から恐れられている狼谷へ深夜に来たら、勝つ方法を教えてやる」と言い、マックスを誘い出す。

シャルル・ド・クーロン(1736~1806)

クーロンの法則 ヘンリー・キャヴェンディッシュにより1773年に実験的に確かめられ、シャルル・ド・クーロンが1785年に法則として再発見した。磁荷に関しても同様の現象が成り立ち、これもクーロンの法則と呼ばれる。一般的にクーロンの法則と言えば、通常前者の荷電粒子間の相互作用を指す。クーロンの法則は、マクスウェルの方程式から導くことができる。また、導体表面上の電場はその場所の電荷密度に比例するという法則も「クーロンの法則」と呼ばれる。こちらは「クーロンの電荷分布の法則」といい区別する。

ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ(1285~1331)

反乱と戴冠 コンスタンティンがウロシュ3世への服従を拒んだために王位を巡る内戦が勃発、ウロシュ3世はゼタを攻撃し、コンスタンティンを殺害する。勝利の後、1322年1月6日にウロシュ3世は大主教ニコデモより戴冠を受け、彼の子のドゥシャンも若王として戴冠された。ドゥシャンはゼタを領地として与えられたが、これを後継者に指名するというウロシュ3世の明らかなメッセージだった。一方、ウロシュ3世の従兄弟であるステファン・ヴラディスラヴ2世は、父のステファン・ドラグティン王より与えられた領地のルドニク地方で兵力を集めていた。ヴラディスラヴ2世は王を自称し、ハンガリー人の支援を受けて領内の統制を高め、デチャンスキに戦いを挑まんとした。ウロシュ2世とドラグティン兄弟の時代と同じくセルビアは2人の統治者によって分割されていたが、内戦が起きていた1322年から1323年の間、ドゥブロブニクの商人は2人の統治者の領土を自由に行き来していた。

ヴラド・ツェペシュ(1431~1476)

オスマン帝国との戦い ヴラドが生まれた時代は、オスマン帝国の攻勢によってルーマニアやハンガリーが圧迫を受け、その勢力に呑み込まれていく過程にあった。ヴラドは勇猛で軍略に優れ、オスマン帝国に対してよく抗戦し、近年では前述のシュテファン、ミハイ2世勇敢公と共にルーマニアを守った英雄とされる。小国ワラキアが長年にわたってオスマン帝国の侵略に抵抗できたのは、オスマン帝国内部の紛争の他、直轄軍の存在や積極的な焦土作戦の採用がある。度重なる戦勝にヨーロッパは沸き立ち、ヴラドが正教徒であるにもかかわらず、ローマ教会関係者から賞賛の声が届くほどであった。

ラファエル・デル・リエゴ(1784~1823)

1820年の反乱と憲法復活 1819年国王が南アメリカの独立運動に対して10個連隊を編成すると、デル・リエゴはアストゥリア連隊の指揮をとることになった。しかしカディスに到着後、他の士官たちとともに、デル・リエゴは1820年1月1日反乱をおこし、「1812年憲法」の復活を要求した。のちに1820年から1823年の「自由主義の三年間」として知られる時代のはじまりである。デル・リエゴの軍隊は、反王政の蜂起が始まるものと期待しながらアンダルシアの各都市に行軍したが、地方の人々は関心を示さなかった。しかしガリシアでは反乱が起き、スペイン各地へと広まった。1820年3月7日、マドリードの王宮はバリェステロス将軍の指揮のもと包囲され、3月10日に国王は憲法の復活に同意した。

ウィリアム・オーガスタス(1721~1765)

カロデンの戦い 1746年1月30日にカンバーランドはエディンバラに着き、すぐにチャールズの探索に入った。アバディーンまで遠回りをして、来たる戦闘で彼の指揮下となる、装備を整えた部隊の鍛錬に時間を費やした。カンバーランドの鍛錬は、まず、射程内に敵が入るまで射撃を行わないこと、一度射撃すると敵の右側を銃剣で突くことだった。こうすることで、相手の剣を掲げた腕の下に入るからだった。

ベレンガーリオ1世(850~924)

イタリア王位をめぐる争い ローマ皇帝カール3世は、相次ぐ親族の死により東フランク王、西フランク王、およびイタリア王位を一手に収めていた。しかし887年、甥アルヌルフと東フランクの貴族がフランクフルト帝国議会においてカール3世を廃位し、これらの位は空位となった。イタリアにおいては、フランク王国の主要な領地を管理していた有力諸侯たちが王位を争うことになった。すなわち、フリウーリ辺境伯、トスカーナ辺境伯、カメリーノ辺境伯、スポレート公らであり、のちにイヴレーア辺境伯もこれに加わった。フリウーリ辺境伯ベレンガーリオは母ギーゼラがフランク王女であることから、イタリア王位継承の権利を主張した。

ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1731~1810)

水素の発見 1766年の論文で、亜鉛・鉄・スズに硫酸あるいは塩酸を加えると、可燃性の気体が発生すると発表した。この気体こそが水素である。しかしキャヴェンディッシュはフロギストン説を支持していたため、この気体は金属から発生したフロギストンであると考えた。さらにキャヴェンディッシュはこの気体の性質を調べ、これは通常の空気と比べて11分の1の質量しかもたないと発表した。この実験において、硫酸や塩酸の代わりに硝酸を使用しても気体が発生することを確かめた。しかしこの気体は可燃性をもたなかった。この結果については、金属から出たフロギストンが、硝酸と結合することで可燃性を失うからだと考えた。

バハードゥル・シャー2世(1775~1862)

デリーにおける反乱とその鎮圧 デリーの反乱政府では、皇帝バハードゥル・シャー2世を名目上の君主とし、執行機関として兵士6人と一般人4人からなる「行政会議」が結成され、反乱軍総大将をバフト・ハーンに決定した。行政会議はザミーンダーリー制を廃止し、実際の土地耕作者にその土地の権利を認めるなど、民主制に似た体制が樹立された。

アグスティン・デ・イトゥルビデ(1783~1824)

メキシコ皇帝アグスティン1世 イトゥルビデは王権神授説を心から信じており、王室の血統を持たない者はふさわしくないと考えていたが、不承不承これを受諾した。実際、1822年5月18日の夕刻、通に出た兵士達により皇帝推戴の宣言を受けたが、彼はバルコニーに現れ、議会の承認なしにこの栄誉を受けることを辞退した。翌朝早く議会が召集され、票決の結果77対15で皇帝に指名された。1822年7月21日、メキシコ立憲皇帝アグスティン1世として戴冠した。

エドガー・アラン・ポー(1809~1849)

モルグ街の殺人 パリに長期滞在している、名前が登場しない語り手は、ある日モンマルトル図書館で、没落した名家の出であるC・オーギュスト・デュパンという人物と知り合う。語り手は、幅広い読書範囲と卓抜な観察力、分析力を持つデュパンにほれ込み、やがてパリの場末の古びた家を借りて一緒に住むことになる。デュパンは、ある晩、街を歩いているとき、語り手が黙考していたことをズバリと言い当てて語り手を驚かせたが、その推理過程を聞くと非常に理にかなったものであった。

ハーマン・メルヴィル(1819~1891)

白鯨 1841年、イシュメールが冒険を求めて捕鯨船ピークォッド号に親友のクイークェグと共に乗り込んで、大海原に出た。そこで鯨の歯でできた白い義足に肩幅の広い体を支えられたエイハブ船長と出会う。エイハブは、足を食いちぎられた恨みに宿敵である白鯨を追うことを船乗りたちに誓わせる。

ウィリアム・メイクピース・サッカレー(1811~1863)

虚栄の市 生れの卑しいレベッカ・シャープと富裕な家庭に生まれたアミーリア・セドリーを女学校を去り、セドリー家へ向かう。そこでレベッカはアミーリアの兄・ジョーゼフと出会い結婚することを望むが、ジョーゼフの愚かな振る舞いを見て家を出る。そしてレベッカはクローリー家の家庭教師になりピット卿の好意を獲得すると、秘密のうちにクローリー家の次男であるロードンと結婚した。これに資産家である伯母のクローリーは怒り、ロードンを廃嫡する。

ニコラ・テスラ(1856~1943)

エジソンとの確執 エジソンは、エジソン好みの直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、褒賞として5万ドル払うと提案した。直流の優位性や安全性に加えて交流の難しさなどを考慮した発言だったが、テスラはこれを成功させた。交流を認めたくないエジソンは褒賞を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒して後に退社する。

ヤン・オールト(1900~1992)

オールトの雲 また1950年にヤンは彗星の起源として、太陽から1光年ほどの遠く離れたところに彗星の核が帯状に貯蔵されており時々近くの星の引力の影響を受けたものが太陽に近づいてきて彗星となる、という説を述べた。この仮想的な彗星の母胎雲は、彼の名前にちなんでオールトの雲と呼ばれている。

アーノルド・ジョゼフ・トインビー(1889~1975)

歴史の研究 まずトインビーは国家を中心とする歴史観を否定し、文明社会を中心とした歴史観を提示する。トインビーは西欧文明の優位を退けながら、第一代文明であるシュメール、エジプト、ミノス、インダス、殷、マヤ、アンデス、第二代文明であるヘレニック、シリア、ヒッタイト、バビロニア、インド、中国、メキシコ、ユカタン、そして第三代文明であるヨーロッパ、ギリシャ正教、ロシア、イラン、アラブ、ヒンドゥー、極東、日本、朝鮮、以上の21の文明を世界史的な観点から記述することを試みる。トインビーはこの第三代までの諸文明は歴史的に概観すると親子関係にあり、文明は発生、成長、衰退、解体を経て次の世代の文明へと移行すると考えていた。

鳩摩羅什(344~413)

五胡十六国の争乱に翻弄される 五胡の一つ氐の建国した前秦の苻堅が派遣した将軍呂光が384年に亀茲を占領、呂光は鳩摩羅什を連行して涼州に帰ったが、すでに前秦は亡んでいたので、呂光は涼州で後涼国を建てた。鳩摩羅什はそのまま17年間涼州に幽閉された。

アフォンソ1世(1109~1185)

レコンキスタの進行 1147年3月、イスラーム勢力からサンタレンを奪回したことでアフォンソの名声はより高まる。同年5月にイギリス方面から第2回十字軍に参加するため出航していた分派がポルトガルに寄港した時、アフォンソは彼らと協定を結んだ。ポルトガル軍と十字軍の分派は17週間にわたってイスラーム勢力の支配下にあるリスボンを包囲し、同年10月25日にリスボンを占領する。リスボン攻略後も十字軍の艦隊はしばしばポルトガルを訪れ、レコンキスタに協力した。

ペドロ3世(1239~1285)

国内での戦争 ウルジェイ郡では土地継承に関する問題が起こっていた。1268年にウルジェイ伯アルバロが死去した際、彼の2人の妻の出身家が相続に対する長い戦いを開始した。ウルジェイ郡のかなりの土地は父王ハイメ1世が差し押さえており、1276年の戴冠時にペドロに継承されている。1278年にはウルジェイ伯アルバロの長男であるアルマンゴル10世がペドロ3世と協定を結び、失っていた土地のほとんどを回復し、その対価よしてアルマンゴル10世はペドロ3世を領主として認識した。

ジュゼッペ・アルチンボルド(1526~1593)

司書

ドナテッロ(1386~1466)

カントリア

ジュゼッペ・メルカリ(1850~1914)

メルカリ震度階級 今日ではメルカリは、メルカリ震度階級によって最も良く記憶されている。メルカリ震度階級は、より有名なリヒターの指標とは異なり、実際に地震で解放されるエネルギーの大きさを測るものではない。地表に対する地震の効果がいかほどかを示すものである。現実の人口点在地に対してはあまりよく適合しないが、多様な震動による損害の比較には理想的である。メルカリ震度階級はIからXIIの段階に分かれている。Iはごくわずかな人にしか感じられない微震だが、XIIはほぼ壊滅的な損害を与え、レンガ積みの建物はほとんど或いは全てが倒壊し、物体は空中に投げ出される。

ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668~1744)

反デカルト学説 ヴィーコは「数学的知識以外の知識はあり得ない」というデカルト派の認識論に対し、学問に必要なのは認識可能なものと不可能なものを区別する原理であると考えた。その原理とは「真理と事実とは置換できる」、つまり精神がある対象を理解するためには、その対象が人間精神によってすでに作られていなければならない、ということだった。数学は人間の作り出した仮説であり、歴史は人間の「行為事実」が無から作り出すものであるから、両方とも認識可能な事柄である。こうして歴史は、明確な認識を生みうる学問として数学と並ぶ地位を与えられた。

ヨハン・ブルグミュラー(1806~1874)

ラ・ペリ 舞台はエジプト・カイロ・現実に倦んだアクメはアヘンを吸引し、その幻の中で妖精の楽園に遊ぶ夢を見る。そこで出逢った妖精の女王、ペリに彼は魅せられる。一方、現実の世界では、囚われの身から逃げようとした女奴隷レイラが、追っ手によって命を奪われていた。妖精の楽園から降臨したペリはレイラの身体に入り込み、彼女にかりそめの命を与える。

マルコム・X(1925~1965)

脱退とメッカ巡礼 1962年、イライジャが少女を強姦し子を産ませていたことが判明し、マルコムはNOIに失望する。彼はイライジャの行為に怒り、このことを告発。NOIにおける立場を危うくすることになる。1963年2月に教団は彼を暗殺しようとしたが失敗に終わる。1964年3月26日、マルコムはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアと最初で最後の対面をした。これは予定されていたものではなく、その日二人がたまたま公民権法に関する論議を聞くためにアメリカ合衆国議会議事堂を訪れていたために実現したものであり、会話も挨拶のみでわずか1分ほどで終わった。

クリスチャン・ドップラー(1803~1853)

ドップラー効果 音についてのこの現象は、古くから知られていたが、オーストリアの物理学者、クリスチャン・ドップラーが速度と周波数の間の数学的な関係式を1842年に見出し、オランダ人の化学者・気象学者であるクリストフ・ボイス・バロットが、1845年にオランダのユトレヒトで列車に乗ったトランペット奏者がGの音を吹き続け、それを絶対音感を持った音楽家が聞いて音程が変化することから照明を試みた。

ニールス・ボーア(1885~1962)

アメリカ時代 第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがヨーロッパでの侵略を始めると、ユダヤ人を母に持つボーアはイギリスを経由してアメリカに渡った。1939年に発表されたボーアの原子核分裂の予想は、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。しかし、ボーアは軍拡競争を憂慮し、西側諸国にソ連も含めた原子爆弾の管理及び使用に関する国際協定の締結に奔走したが、結局ボーアの願いは叶わなかった。

モーリス・ルブラン(1864~1941)

ルパンの活躍 ルブランはパリに引っ越し、純文学作家になるが、書いた作品は文壇で多少の評価を得たものの収入には結びつかず、40歳を過ぎるまで、うだつの上がらない貧乏作家生活が続く。しかし友人の編集者ピエール・ラフィットに、大衆小説の執筆を依頼され、転機が訪れる。通俗作家への転向に気が進まないながら、金に困っていたルブランは知恵を絞り、当時ヒットしていたシャーロック・ホームズ物のアンチヒーローとなる、軽妙で魅惑的な「泥棒紳士」のアルセーヌ・ルパンを想像した。1905年に発表した第一作「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が評判になり売り上げも好成績だったため、ルブランは続編を書くことにし、結局以後の作家人生のほとんどをルパンに注ぎ込んだ。ルパンは大あたりを取り、ルブランに作家としての名声と、経済的な報酬をもたらした。

ピョートル3世(1728~1762)

即位 1761年末、エリザヴェータ女帝の崩御に伴い即位すると、七年戦争の最中にプロイセンと即時講和して、破滅寸前に追い込まれていたフリードリヒ2世を救った。同年4月の対プロイセン休戦条約では占領地域を全て返還し、賠償金も要求しなかったため、ロシア国内及びにロシア軍内から怨嗟の声が上がった。また6月にはプロイセンとの軍事同盟を批准し、軍隊の規律や制服をプロイセン風に改めたため伝統的に反プロイセン感情の強い国民の反感を買った。一方で自らの領するホルシュタインに関心を持ち、父の代に奪われていたシュレースヴィヒを、ロシア軍を投入してデンマークから奪回しようと計画した。

パーヴェル・ペステリ(1793~1826)

デカブリストの乱 デカブリストとは、武装蜂起の中心となった貴族の将校たちを指し、反乱が12月に起こされたことからデカブリストの名で呼ばれた。デカブリストの乱は、ロシア史上初のツァーリズム打破と農奴解放を要求した闘争と位置づけられ、以後のロシアにおける革命運動に大きな影響を与えた。

カーロイ1世(1288~1342)

治世 カーロイ1世は断固とした統治を行い、体制回復に努めた。議会は一応召集されていたが定期的なものではなく、実質的に政策は王族による会議で決められた。貴族の権限を抑えるため、少数の上流貴族に他の貴族の権限を抑えさせ、問題があれば宮廷で解決を図った。