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市川団十郎(1838~1903)

飛躍の時代 市川宗家に戻って九代目団十郎を襲名した後も、団十郎はしばらくの間は河原崎座との縁が切れなかった。河原崎座はその名を改め新堀座となっていたが、義理の甥の八代目権之助は座元の任は重く、すぐに経営難に陥って団十郎に泣きついたのである。団十郎は結局新堀座の座元を兼ねて借財を背負わなければならなかった。だが、1876年に十二代目守田勘彌に招かれて新富座に出勤した頃からようやく芸が伸び始める。

フランツ・リスト(1811~1886)

愛の夢 『愛の夢』は、フランツ・リストが作曲した3曲から成るピアノ曲。サール番号541。「3つの夜想曲」という副題を持つ。第3番には特に有名。もともと歌曲として作曲した3つの曲を1850年に作曲者自身がピアノ独奏版に編曲したものである。原曲については曲目の括弧内参照。

ボリス1世(不明~907)

ギリシャ正教受容 南スラヴ人とトルコ系であるブルガール人との融和を図るため、キリスト教の導入を考慮し、はじめギリシャ正教に帰依した。しかし、正教会の布教が自国の独立を脅かすことを恐れ、一時フランク王国と結ぼうとした。しかしローマ教皇がブルガリア教会の独立に消極的であることを知り、コンスタンティノープル総主教の管理の下、ブルガリア大主教区の実質的な独立を得たために、結局870年にギリシャ正教を採用した。その後国民に改宗を強制し、異教に固執した貴族は厳しく弾圧した。

ヘンリー4世(1367~1413)

相次ぐ諸侯の反乱 だが、治世の初期からヘンリー4世は続発する反乱に苦しめられ、1400年1月にリチャード2世の寵臣が謀反の容疑で捕らえられた。元エクセター公ジョン・ホランドと甥の元サリー公トマス・ホランド、ソールズベリー伯ジョン・モンタキュート、元グロスター伯トマス・ル・ディスペンサーの4人は公現祭でヘンリー4世暗殺を計画していたが、すぐに発覚して全員処刑された。しかし、これはまだ始まりに過ぎなかった。

アッティラ(406~453)

ガリア侵略とカタラウヌムの戦い 450年、アッティラはトゥールーズの西ゴート王国を攻撃する意図を宣言し、西ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス3世と同盟を結んだ。西ローマ帝国及びその実質的支配者のフラウィウス・アエティウス将軍は、少年時代に人質としてフン族へ送られて彼らの中で生活を送っており、以後もアッティラと良好な関係を持っていた。フン族騎兵は西ローマ軍とゴート族やバガウダエなどとの戦いに参加してアエティウスを助けている。さらに西ゴートと敵対し脅威を感じていたヴァンダル王ガイセリックの贈物と外交協力もおそらく、アッティラの計画に影響を与えた。

ロベルト・シューマン(1810~1856)

子供の情景 作曲は1838年に着手されたが、曲の大部分は2月から3月にかけて作られ、全曲の完成は4月まで要した。同年の3月19日にクララ・シューマンへ宛てた手紙の中で、「時々あなたは子供に思えます」という言葉の余韻の中で作曲に至ったという。そしてシューマンは30曲ほど作った小品の中から、12曲を選び出して『子供の情景』と名付けたという。シューマンの日記によると「トロイメライ」が2月24日に、「十分に幸せ」が3月11日にそれぞれ作曲されている。なお13番目に作られた曲がどれなのかは不明である。

片山東熊(1854~1917)

仁風閣

藤原基衡(1105~1157)

毛越寺と観自在王院 1150年から1156年にかけて、毛越寺に大規模な伽藍を建立した。金堂円隆寺と広大な浄土庭園を中心に伽藍が次々に建立されていった。また、基衡の妻は観自在王院を建立している毛越寺を建立するときの豪奢な贈物は都人の耳目を聳動させ、その様子は『吾妻鏡』で「霊場の荘厳はわが朝無双」と称された。

藤原秀衡(1122~1187)

治承・寿永の乱 安元の頃に鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司である源義経を匿って養育する。1180年、義経の兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、義経は兄の元へ向かおうとする。秀衡は義経を強く引き止めたが、義経は密かに館を抜け出した。秀衡は惜しみながらも留める事をあきらめ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出した。

頭山満(1855~1944)

玄洋社~設立~ 玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では1881年2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では1879年12月成立という研究結果もある。社員は61名。自由民権運動を目的とした結社ではあったが、誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出し、近代史に足跡を残すことになる。箱田六輔・平岡浩太郎・頭山満は「玄洋社三傑」と称された。

中島湘煙(1863~1901)

自由民権家中島信行と岸田俊子―自由への闘い 幕末維新の動乱を生き抜いた草莽の志士・中島信行は、明治国家の成立後は自由民権運動の一つの極をなしていく。そして明治期女性解放運動の先駆者であり、民権運動の女性闘士だった岸田俊子は、その政治的同志としてまた人生の伴侶として彼を支えることになる。本書は、これまであまり知られなかった二人の政治と文学の根底をなした志操と理想を、綿密な史料・文献考証にもとづいて浮き上がらせた歴史研究の労作。

モハンマド・モサッデク(1882~1967)

イラン首相~石油国有化政策~ 第二次世界大戦においてイランは、北はソ連、南はイギリスに占領され、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続き、アングロ・イラニアン石油会社はアーバーダーンの石油を独占し利益を独占、イラン国内に石油による利潤はほとんどもたらされない状態が続いていた。そのような中、以前から存在した石油生産の国有化案を民族主義者モハンマド・モサッデクは「石油国有化政策」へとつなげていった。

ラウル・ワレンバーグ(1912~1947)

ワレンバーグの活躍 ワレンバーグはスウェーデン名義の保護証書なるものを発行することでユダヤ人たちをスウェーデンの保護下におこうと考えた。これは国際法的にはまったく効力のないものであったが、杓子定規な書類仕事を好むナチス・ドイツの性癖を逆手にとり、不思議とよく機能し多くのユダヤ人の命を救った。つまり、これを作成し、配布することで、所持者はスウェーデンの保護下にあることになり、ナチスの手から救い出すことができたのである。

トーマス・ニューコメン(1664~1729)

蒸気機関の開発 ニューコメンの機関は、後の図に示すように、ピストンで蒸気を閉じ込めたシリンダの下端に蒸気の入口と冷水の噴射口とを設けたものであった。冷水入口のコックを回して冷水を噴射して中の蒸気を凝縮すると、シリンダ内が真空となるため、ピストン背面の大気がピストンを下へ押し、ピストンを鎖で吊っているビームの一端を引き下げて、ビームの他端から吊り下げたロッドを介して坑道底の排水ポンプで水を汲み上げる。次に蒸気入口の弁を開くと、ポンプの自重でピストンが持ち上げられて、シリンダは、その下のボイラから入ってくる蒸気で再び満たされる。この動作を繰り返してポンプを駆動し、坑道の底に溜まった水を排水するものであった。

マリア・ルイーザ(1791~1847)

ナポレオンの没落とパリ脱出 1812年にナポレオンはロシア遠征に失敗し、1813年のライプツィヒの戦いでも大敗する。1814年にはオーストリアのシュヴァルツェンベルク将軍、プロイセンのゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル将軍、かつてのナポレオンの部下でスウェーデン王太子となったカール14世ヨハン将軍、イギリスのアーサー・ウェルズリーによる大規模なナポレオン包囲網が築かれつつあり、さらにナポレオンと帝国は苦境に追い込まれていった。

フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484~1531)

ルターの思想との対立 ルターのツヴィングリの思想の違いは、思想的には恩寵や聖餐の解釈の問題であった。ルターと違い、ツヴィングリは人間の協働の重要性を強調している。つまり神の選びのみがすべてであると考えたルターと異なり、ツヴィングリは恩寵もさることながら、人間の態度も神の選びに影響を及ぼすと考えたのである。もう一つ重要な差異としてツヴィングリは聖体を単なる象徴と考えていたことがあげられる。この点において共在説を唱えたルターとの差が決定的なものとなった。

ウルリヒ・フォン・フッテン(1488~1523)

フッテンとルター フッテンは独自に反ローマ教皇の主張を強めていった。そこに1517年のルターの宗教改革が始まった。フッテンは当初は関心を寄せていなかったが、次第にその支持を明確に表明し、同士の帝国騎士ジッキンゲンとともに、武装闘争を計画する。ルターも初めはフッテンとジッキンゲンに理解を示したが、その武力蜂起には同調しなかった。

パウルス3世(1468~1549)

カール5世との対立 1544年のクレピーの和約以降、カール5世はドイツ国内における発言力を急速に増し、プロテスタントと肩入れする諸侯を武力で粉砕しようと企んだ。ヴォルムス帝国議会の合間に、皇帝は教皇使節として派遣されていた教皇の孫アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿との間に約定を交わし、プロテスタントに対する武力攻撃に対する教皇のお墨付きを得た。

ヤン・ステーン(1626~1679)

居酒屋

アドリアーン・ブラウエル(1605~1638)

苦い薬

アラリック1世(370~410)

ギリシャ侵攻 アラリック1世は東ローマ帝国に最初の攻撃を加えた。コンスタンティノープル周辺に進軍したが、包囲は不可能だと悟り、西に反転した後ギリシャのテッサリア地方を南進して、要害テルモピュライをなんの抵抗もなしに通過した。東ローマ帝国軍小アジアとシリアにおけるフン族侵入にかかりっきりになっていた。ルフィーヌスはアラリック1世と交渉しようと試みるが、コンスタンティノープルからゴート族と取引しているのではないかと疑いをかけられただけであった。そのとき、スティリコはアッティラに向かって東進していた。クラウディアヌスによれば、スティリコはからイリュリクムから出陣するようアルカディウス帝に命じられ、ゴート族討伐の任を受けることになった。その後すぐに、ルフィーヌスは自分の部下によって殺されてしまう。コンスタンティノープルにおける実権は、宦官で財務官のユートロピウスに移った。

ガイセリック(389~477)

北アフリカから南イタリアに進出 ガイセリックの率いるヴァンダル王国は、さらに地中海の対岸のシチリア、サルデーニャにも進出した。455年にはローマを掠奪している。ローマからは撤退したが、西ローマ帝国の滅亡を早めることとなった。476年の西ローマ帝国滅亡の翌年、ガイセリック王は死去した。

エドワード2世(1284~1327)

国王に即位 父王もスコットランドへ向かって出陣したが、その途中の1307年7月に崩御した。皇太子エドワードがただちにエドワード2世としてイングランド王に即位した。崩御に際して父は自分の心臓は聖地エルサレムに埋葬すること、遺体はスコットランド平定まで埋葬しないこと、自分の骨をイングランド軍の先頭に置いて進軍すること、ギャヴィストンは追放するのでその追放を解かないことを皇太子に遺言したが、エドワード2世は父の遺言を守らず、父の遺体はウェストミンスター寺院に葬り、スコットランド出兵を中止し、ギャヴィストンの追放を解いて再び側近として重用した。父王晩年からの諸侯と王権の慢性的不和、王庫の財政破たん状態は続いていたが、エドワード2世はそれを解決できるような器ではなかった。

トーマス・グレシャム(1519~1579)

グレシャムの法則 グレシャムの法則は、金本位制の経済学の法則のひとつで、貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合、より実質価値の高い貨幣が流通過程から駆逐され、より実質価値の低い貨幣が流通するという法則である。一般には内容の要約「悪貨には良貨を駆逐する」で知られる。

スチェパン・ラージン(1630~1671)

ペルシア遠征 カスピ海に乗り出したラージンは、デルベントからバクーに至るペルシアのカスピ海沿岸を荒らし、ラシュトの中央市場では住民の大殺戮に及んだ。1669年の春、スイナ島を収めたラージンは、7月にはペルシア艦隊を撃滅、スチェパン・ラージンは手のつけられない存在となった。

グスタフ2世アドルフ(1594~1632)

バルト海制覇 1611年、父の死によって17歳で即位したが、その時スウェーデンはバルト海の制海権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークと交戦中であった。カルマル戦争ではデンマークに苦戦し、1613年のクネレド条約でデンマークから賠償金を支払うことを強いられたが、結果的には領土自体は維持し、ロシアをバルト海から締め出すことに成功し、グスタフ2世はようやく戴冠式を挙行した。その後、ドイツの有力貴族であるブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントの娘マリア・エレオノーラ・フォン・ブランデンブルクと結婚した。これはドイツ進出を狙った政略結婚であったが、妻は情緒不安定で、グスタフ2世の悩みの種となった。結婚を名目に1620年にドイツ各国を訪問しているが、実際にはドイツの軍事施設の視察を行い、帰国後に大規模な軍事改革を実行した。これは、オランダの軍事理論を改良した新教軍の軍事体系の実践であった。

クリスチャン4世(1577~1648)

カルマル戦争 クリスチャン4世の組織した陸軍は、最初の戦いでは華々しい成果を挙げた。デンマークは、1611年から1613年のスウェーデンとの戦争において勝利を収め、クリスチャン4世はカルマルを攻略できなかったが、主要な要塞エルブズボルイとイェータ川河口を占領する事に成功した。

芦田均(1887~1959)

戦後の活動~憲法9条と芦田修正~ 戦後まもなく、衆議院帝国憲法改正小委員会の憲法改正草案の審議において、「芦田修正」と呼ばれる修正が行われた。この修正は芦田の試案などが重要なたたき台となっており、芦田の意図なども含め、後の憲法論議における重要な論点となっている。詳細は芦田修正を参照。

朴泳孝(1861~1939)

甲申政変 1884年に朝鮮王朝の独立党によって起こされたクーデター。壬午軍乱以後、清は600名の軍隊を朝鮮に駐屯させ、その軍事力を背景に、閔氏政権に対し宗主権強化策を進めた。それに反発して、開化派の中の急進派である金玉均・朴泳孝は、日本公使竹添進一郎と結んでクーデターを計画、清が清仏戦争にかかわっている間をねらい、1884年12月、日本軍を動かして王宮を占領、高宗を擁立して閔氏一族の要人を殺害して実権を握った。しかし閔氏を支援する清軍が直ちに反撃、袁世凱の率いる部隊がクーデター部隊を攻撃し、日本軍は撤退したため、開化派政権は三日で崩壊した。金玉均・朴泳孝は日本に亡命した。翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた。

児玉源太郎(1852~1906)

旅順戦に関して 児玉らが203高地攻略を支持していたことについて、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を支持したとされる。満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると作戦を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍参謀の白井二郎が説得した程だった。

尚巴志王(1372~1439)

琉球王国~三山統一~ 1429年、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立したと見なされている。第一尚氏は大和や中国・朝鮮半島はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。第一尚氏王統、第6代の尚泰久王は、万国津梁の鐘を鋳造せしめ、海洋国家としての繁栄を謳歌した。

円空(1632~1695)

諸国の廻国と造仏活動 2014年時点で最古の円空仏は郡上市美並町の神明神社の諸像であるが、初期の円空仏は郡上市美並町や郡上市八幡町、関市、岐阜市など岐阜県下に分布しているほか、周辺の三重県、愛知県にも分布している。初期の円空仏は小像が多い。

熊沢蕃山(1619~1691)

岡山藩時代 1645年再び京極氏の口添えで岡山藩に出仕する。光政は陽明学に傾倒していたため、藤樹の教えを受けていた蕃山を重用した。1641年に全国に先駆けて開校した「花畠教場」を中心に活動した。1647年には側役、知行300石取りとなる。1649年には光政に随行し江戸に出府する。

細川重賢(1721~1785)

宝暦の改革 新たに藩主についた重賢は、藩財政の改善に手を打つことになる。1752年、堀勝名を筆頭奉行に、蒲池正定を奉行に登用し、改革断行を命じる。堀は、すぐさま大坂に向かい鴻池家など豪商に借財を要請するが、当時の藩財政は危機的状況に陥っており、鴻池はこの要請を拒絶する。この話からも、熊本藩の状況がわかるといえる。しかし、堀はすぐさま当時新興商人であった加島屋との交渉に臨み、藩の年貢一手引き受けを条件に資金を得ることに成功する。

広瀬淡窓(1782~1856)

咸宜園 咸宜園は、江戸時代の先哲・広瀬淡窓によって、天領であった豊後国日田郡堀田村に1805年に創立された全寮制の私塾である。「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。塾生の意志や個性を尊重する理念が込められている。

オディロン・ルドン(1840~1916)

トルコ石色の花瓶の花

トマス・ベケット(1118~1170)

大聖堂での殺人事件 ヘンリー2世はこの犯罪を聞いて大いに落胆し、5週間も閉じこもってしまった。彼が恐れたとおり、人びとは国王を非難し、ベケットを聖人として崇めるようになった。ローマ教皇もカンタベリー巡礼を盛んに奨励した。ヘンリー2世はクラレンドン法を撤回し、没収した教会領を返還するなどローマ教皇の怒りをなだめようとした。また後継をめぐって争っていた息子たち、長子のヘンリーと次男のリチャードが父親に反旗を翻した。プランタジネット朝は大きな危機となったが、ヘンリー2世は急ぎ大陸からイギリスに渡り、その足でカンタベリーのベケットの墓に詣で、祈りを捧げた後、衣服を脱いで70人の修道士に命じて鞭を自らにあてさせた。その上で息子たちとの戦いに勝って反乱を収め、貴族たちを屈服させ、聖職者の裁判での宗教裁判所の権限を認めて教会と和解し事態を収拾した。

ジョン・ボール(1338~1381)

ワット・タイラーの乱 ワット・タイラーの乱は、1381年にイングランドで起きた農民の反乱である。指導者は、神父のジョン・ボールとワット・タイラー・英語では「Peasants' Revolt」と呼ぶことが多い。また起きた年が1381年であることから、単に「1381年の農民反乱」と言われることもある。

リチャード2世(1367~1400)

専制政治とその挫折 1383年に親政を開始したリチャード2世は側近のマイケル・ド・ラ・ポールやオックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーらを重用、ド・ラ・ポールをサフォーク伯に、オックスフォード伯をアイルランド公に叙爵した。またランカスター公に対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は、クラレンス公の外孫である従甥のマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名する。更に2人の叔父にも爵位を与え、1385年にケンブリッジ伯をヨーク公、エセックス伯をグロスター公にそれぞれ叙爵した。

スタンリー・ボールドウィン(1867~1947)

首相 1923年に内閣を組閣するが、選挙で労働党にやぶれて翌年に退陣する。同年、ラムゼイ・マクドナルドが退陣すると再び組閣。このとき、遂に男女平等選挙権を認める。翌年、再び労働党にやぶれる。

サミュエル・ゴンパーズ(1850~1924)

アメリカ労働総同盟 アメリカ合衆国最初の、労働組合の全国組織。1886年、オハイオ州コラムバスに集まった労働組合諸団体の代表は、今までの彼らの団体を解消してアメリカ労働総同盟 the American Federation of Laborという団体を造り、既にできていた全国的職業諸組合、各州の組合連合会、および組合都市連合会の上に置くこととした。アメリカ労働総同盟は、指導者サミュエル・ゴンパーズ以来、政治活動には否定的で、政党を結成したり、支持政党を明確にすることはなかった。総同盟幹部が大統領選挙で特定の候補を支持することはあったが、二大政党の一方をもって他方に当たらせ、労働者にとって有利な政策を二大政党に競わせる方がよりよい方法だと確信していた。

チャールズ・ダドリー・ウォーナー(1829~1900)

金ぴか時代 金ぴか時代、ないし、金メッキ時代は、1865年の南北戦争終結から1893年恐慌までの28年間、あるいは特に1870年代と1880年代をさし、アメリカ合衆国において資本主義が急速に発展をとげた時代である。拝金主義に染まった成金趣味の時代として扱われることが多く、政治腐敗や資本家の台頭、経済格差の拡大を皮肉った文学者、マーク・トウェインらによる同名の共著小説に由来する。いわゆる「西部開拓時代」とほぼ重複する。なお、まったくの偶然ではあるが、1893年のシャーマン銀購入法の挫折により銀本位制が凋落し、アメリカに金本位制が定着したのはその後のことである。

エドワード・スミス=スタンリー(1799~1869)

保守党中堅議員時代 1841年に誕生したロバート・ピール保守党政権に再び陸軍・植民地大臣として入閣した。アヘン戦争の最終局面を指導して清に南京条約を締結させることに成功した。また英領カナダとアメリカ合衆国の緊張の高まりを緩和してアメリカとの戦争を回避することにも成功した。

ジェロニモ(1829~1909)

アパッチ戦争 1851年から、アパッチ族の戦士ジェロニモが降伏した1886年までが「アパッチ戦争」と呼ばれている。ただしアパッチ族の白人入植者に対する襲撃は、1910年まで続いた。白人はアパッチ族やナバホ族ほか周辺部族が同じアサバスカ語族だったので、すべてひとまとめに「アパッチ族」と呼んでいた。したがって合衆国の歴史では、ナバホ族などに対する白人の攻撃もこの「アパッチ戦争」に含まれている。

ジェイムズ・ギルレイ(1757~1815)

プラム・プディングの危機