甲申政変
1884年に朝鮮王朝の独立党によって起こされたクーデター。壬午軍乱以後、清は600名の軍隊を朝鮮に駐屯させ、その軍事力を背景に、閔氏政権に対し宗主権強化策を進めた。それに反発して、開化派の中の急進派である金玉均・朴泳孝は、日本公使竹添進一郎と結んでクーデターを計画、清が清仏戦争にかかわっている間をねらい、1884年12月、日本軍を動かして王宮を占領、高宗を擁立して閔氏一族の要人を殺害して実権を握った。しかし閔氏を支援する清軍が直ちに反撃、袁世凱の率いる部隊がクーデター部隊を攻撃し、日本軍は撤退したため、開化派政権は三日で崩壊した。金玉均・朴泳孝は日本に亡命した。翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた。
1884年に朝鮮王朝の独立党によって起こされたクーデター。壬午軍乱以後、清は600名の軍隊を朝鮮に駐屯させ、その軍事力を背景に、閔氏政権に対し宗主権強化策を進めた。それに反発して、開化派の中の急進派である金玉均・朴泳孝は、日本公使竹添進一郎と結んでクーデターを計画、清が清仏戦争にかかわっている間をねらい、1884年12月、日本軍を動かして王宮を占領、高宗を擁立して閔氏一族の要人を殺害して実権を握った。しかし閔氏を支援する清軍が直ちに反撃、袁世凱の率いる部隊がクーデター部隊を攻撃し、日本軍は撤退したため、開化派政権は三日で崩壊した。金玉均・朴泳孝は日本に亡命した。翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた。
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