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ディオゲネス(前412~前323)

キュニコス派 ヘレニズム期の他の学派同様、倫理哲学にその特色をもつ。禁欲を重視するところではストア派とも通じるが、より実践を重んじ認識論的展開を見せなかった。無為自然を理想として、現実社会に対しては諦めた態度を取っており、古典期の社会参加を無視する倫理思想と大きく異なる。シノベのディオゲネスが有名である。「嘲笑する、皮肉屋な、人を信じない」という意味の「シニカル」という語は、キュニコス派を指す英語cynicを形容詞化したcynicalに由来する。

龍樹(150~250)

龍樹の空理論 さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこのことから「無自性空」とも呼ばれる。

班固(32~92)

漢書 『漢書』は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らのよって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。

北条氏綱(1487~1541)

領国支配 氏綱の時代に後北条氏の支城体制が確立しており、小田原城を本城に伊豆国の韮山城、相模国の玉縄城、三崎城、武蔵国の小机城、江戸城、河越城が支城となり各々領域支配の拠点となった。支城には伊豆入部以来の重臣や一門が置かれたが、このうち玉縄城主となった三男・為昌は後に河越城主も兼ねて広大な領域を管轄しており、氏綱の晩年には嫡男・氏康に匹敵する重要な地位を占めるようになっていた。

細川勝元(1430~1473)

応仁の乱 応仁の乱における最初の衝突は、畠山義就と畠山政長が争い、上御霊神社で衝突したことから始まった。これに対して宗全は後花園天皇・後土御門天皇を確保して義就を支援したのに対し、勝元は義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたため、御霊合戦では静観していた。このため、政長は敗れた。

ロバート・エドワード・リー(1807~1870)

合衆国軍人として 南北戦争直前には大佐の階級であったが、リンカーン大統領は、陸軍総司令官ウィンフィールド・スコット少将の推薦によってアメリカ合衆国陸軍の司令官就任を要請した。しかし、リーは奴隷制に賛成ではなかったが、郷里のバージニアへの郷土愛などの理由により、1861年、サムター要塞の戦いの後、連邦軍を辞職しバージニアに帰郷した。

レオポルト2世(1747~1792)

ピルニッツ宣言 1791年8月、オーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ2世がピルニッツで会合し、フランスにおける秩序と王政の復興はヨーロッパのすべての君主の共同利益であると宣言し、ヨーロッパの全ての君主に注意を喚起、「準備ができしだい緊急の行動を行う」ことを要請した。この宣言は警告に過ぎなかったが、エミグレの興奮をかきたて、フランスでは反革命の恐怖をよみがえらせ、革命の賛成派・反対派の緊張を高めた。その結果、翌1792年4月にフランス革命軍とオーストリア・プロイセン連合軍の戦闘が開始される。

ジャック・ネッケル(1732~1804)

フランス革命の勃発 その後、復帰して宮廷内での自由主義的な改革を進め、財政の立て直しにあたった。ルイ16世は、増税路線に踏みきり、特権身分に対する課税を承認させるため170年ぶりに三部会を開催、ネッケルは国庫の赤字について報告した。しかし、三部会で第三身分の動きが活発になり、国民議会が発足し、球戯場の誓いがなされると、ルイ16世は再びネッケルを罷免した。ネッケルの罷免がパリ民衆の国王への不満を爆発させ、1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃の引き金となった。

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762~1814)

無神論論争 無神論論争とは、1799年におきたドイツ観念論の哲学者フィヒテのイェーナ追放をめぐる一連の騒動のことをいう。当時、無神論者として追放された場合、それは学者としての命を絶たれることに等しいものであり、ましてや当時のドイツ精神文化の中心地イェーナから追放されるとなると、ドイツはおろか近隣諸国にでも居場所を失ってもおかしくないほどの非常事態であった。

ジョゼフ・ボナパルト(1768~1844)

ナポリ王とスペイン王 1806年、ジョゼフはナポリ軍の指揮権を与えられ、直後にナポリ王に即位した。その2年後、義弟ジョアジャン・ミュラがナポリ王位を継承し、ジョゼフはスペイン王ホセ1世となる。スペイン・ブルボン朝の内紛に乗じてフランスの影響力を強化せんとする、ナポレオン1世の意図を受けてのことであった。スペインの民にはこれに反発し、即位したホセ1世を「ペペ・ボテーシャ」と呼んだ。しばしば「ジョゼフは流暢なスペイン語を話した」といわれるが、実際にはスペイン王に即位した際に、不承不承学んだに過ぎない。

柳亭種彦(1783~1842)

偐紫田舎源氏 紫式部の『源氏物語』を下敷きにして、時代を平安時代から室町時代へ移している。語り手は、江戸日本橋・式部小路の女・お藤で、鉄砲洲の人丸神社に参詣し、石屋の二階に仮住まいして筆を取った、という設定で語りはじめる。将軍足利義政の妾腹の子・光氏が、将軍位を狙う山名宗全を抑えるため、光源氏的な好色遍歴を装いながら、宗全が盗み隠していた足利氏の重宝類を次第に取り戻す一方、須磨・明石に流寓して西国の山名勢を牽制し、宗全一味をはかりごとで滅亡した後、京都に戻り、将軍後見役となって栄華を極める。

太宰春台(1680~1747)

経済録 太宰春台著。10巻。1729年成立。経済総論をはじめとして、礼楽、官職、天文、地理、食貨など、経済のみではなく広く政治論も含む経済書である。写本は国会図書館などにある。『日本経済叢書』『日本経済大典』などに所収。

テオドール・アドルノ(1903~1969)

ナチス機関誌加担について 1933年、ナチスがアメリカ黒人のジャズを禁止すると、アドルノは、ジャズは愚かであって救済すべきものはなにもなく、「ジャズの禁止によって北方人種への黒人種の音楽影響は除去されないし、文化ボルシェビズムも除去されはしない。除去されるのは、ひとかけらの悪しき芸術品である」と、当時ナチスが頻繁に使用していた「除去」「人種」「文化ボルシェビズム」といった言葉を使用して批評した。

ルイ15世(1710~1774)

ブルボン公の執政と結婚 1725年2月にルイ15世が体調を崩し、2日程病床に伏した。若い国王の健康に王統の危機を心配したブルボン公は翌3月に、まだ幼く子を生むことが望めないスペイン王女マリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーンとの婚約解消を決定する。マリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーンはスペインに帰され、このためスペインとの関係が一時悪化した。代わって、ヨーロッパ諸国の中から出産可能な年齢の王女を選ぶことになった。なお、マリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーンは後にポルトガル国王ジョゼ1世に嫁いでいる。

リューリク(830~879)

ノヴゴロド国 ノブゴロド国と表記され、公国と言うこともある。ゴロドは「城塞」の意味。もともとスラヴ人が居住していたが、862年、バルト海方面からノルマン人のルーシが、リューリクに率いられてこの地に侵入、ノヴゴロドを占領し、スラヴ人を支配する国家を建設した。ノルマン人はスラヴ人に同化していき、やがてルーシからロシアという名が起こり、これがロシア国家の起源とされている。ノヴゴロド国は後にキエフに建国されたキエフ公国に併合される。

クローヴィス1世(466~511)

クロヴィスの改宗のローマ・カトリック側の事情 キリスト教は4世紀初めにローマ帝国の国教となったが、帝国が東西に分裂するに伴い、キリスト教の首位の座をめぐって東のコンスタンティノープル教会と西のローマ・カトリック教会が対立するようになった。その後476年に西ローマ帝国が滅亡したため、ローマ教会はその政治的後ろ盾を失い、東に対して劣勢に立たされていた。そこでローマ教会はまだキリスト教化していないフランク王国に目を付け、クロヴィス1世に接近、その改宗に成功し、新たな保護者として迎えることとした。

岸信介(1896~1987)

保守合同 サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除となるやいなや、その1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げた日本再建連盟を設立し、会長に就任した。1953年、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党、公認候補として衆議院選挙に当選して吉田からの憲法調査会会長に任じられて自主憲法制定を目指すも、1954年に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。

佐藤栄作(1901~1975)

非核三原則 非核三原則とは、「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」という三つの原則からなる、1950~80年代の日本で標榜された当時の国是。3項目の表現は「持ち込まさず」と「持ち込ませず」の2通りがある。佐藤栄作が打ち出したものである。

田谷力三(1899~1988)

オペラ歌手として 原信子、清水金太郎らと浅草オペラで活動し、当時は物珍しかったオペラのパイオニア的存在としてその名を轟かせた。田谷の歌声に感動して、藤原義江も新国劇を辞して歌手を志した。他にも東八郎や大宮敏光にも芸能界へ入る志を与えたといわれている。

古賀政男(1904~1978)

戦後の活動 1960年代には過去に自らの前で「悲しき竹笛」を歌った美空ひばりの歌の作曲を手がけた。1964年発表の『柔』は190万枚を売り上げ、1965年の第7回日本レコード大賞を受賞。翌1966年発表の『悲しい酒』も145万枚を売り上げるミリオンセラーとなった。

竹中重治(1544~1579)

斎藤家滅亡後 後に信長包囲網が敷かれ、信長と浅井長政が敵対関係になると、重治は浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍した。1570年には浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせている。直後の姉川の戦いにも安藤守就の部隊に参加した。この合戦の後に信長の命で横山城に秀吉とともに残し置かれ、この頃から信長直臣から秀吉の与力へと転じたと推測される。

藤原行成(972~1028)

権記 『権記』は、平安時代中期に活躍した藤原行成の記した日記である。名の由来は、極官の権大納言による。『行成卿記』、『権大納言記』とも。執筆時期は藤原道長の全盛期で、特に蔵人頭在任中の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢・宮廷の深奥を把握するための第一級の史料。

蘭渓道隆(1213~1278)

建長寺~創建~ 建長寺は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼によって創建された禅宗寺院で、1253年に落慶供養が営まれている。開山は南宋からの渡来僧・蘭渓道隆であった。当時の日本は、承久の乱を経て北条氏の権力基盤が安定していた。京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していた。

明恵(1173~1232)

高山寺 高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁は1173年、紀伊国有田郡で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。

平徳子(1155~1214)

高倉上皇の崩御と清盛の死去 高倉上皇の病状は悪化の一途を辿り、1181年正月14日、21歳で崩御した。この前日に上皇の没後に中宮を法皇の後宮に納めるという破天荒な案が飛び出し、清盛・時子も承諾したという情報を流れたが、徳子は拒絶し、後白河法皇も辞退した。従順だった徳子が両親の意向に逆らったのは、この時だけだったと思われる。代わりに異母妹の御子姫君が後白河法皇の後宮入りする事となる。

西光万吉(1895~1970)

全国水平社 大正デモクラシー期の日本において被差別部落の地位向上と人間の尊厳の確立を目的として、西光万吉を中心として結成された。第二次世界大戦後に発足した部落解放全国委員会および部落解放同盟の前身にあたる。なおしばしば「日本水平社」と誤記されるが、後述の通り日本水平社を名乗る別個の団体が存在するため注意が必要である。

竹内敬持(1712~1768)

宝暦事件 桜町天皇から桃園天皇の時代、江戸幕府から朝廷運営の一切さを任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。

生田万(1801~1837)

生田万の乱 天保年間は大飢饉により多数の餓死者を出していたが、そのような状況にあっても豪商や代官役人は結託して米を買い占める不正を働き、米価は暴騰して庶民生活を圧迫していた。柏崎へ移り住んでいた生田万は、大塩平八郎の乱の影響を受け大塩門弟と称し、救民の名の下に柏崎代官所を数名の手勢と襲撃したが、首謀者の生田が負傷して自刃したため鎮圧された。騒動の翌日より、米価は値下がりしはじめた。先の大塩平八郎の乱と共に幕府権威の失墜を示す事件であり、幕府は天保の改革により巻き返しを図ることになる。

由井正雪(1605~1651)

慶安の変 1651年、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など各地で浪人を集めて挙兵し、幕府転覆を計画した。決起の寸前になり計画の存在を密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する。

景戒(生没年不詳)

日本国現報善悪霊異記 『日本国現報善悪霊異記』は、平安時代初期に書かれ、伝承された最古の説話集で『日本霊異記』と略して呼ぶことが多い。著者は景戒。上・中・下の三巻。変則的な漢文で表記されている。

太安万侶(不明~723)

古事記~成立~ 成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男は「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。

舎人親王(676~735)

日本書紀 『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、720年に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。

藤原仲麻呂(706~764)

橘諸兄との対立 739年従五位上、740年正五位上と橘諸兄政権下で仲麻呂は順調に昇進し、741年従四位下・民部卿に叙任される。また同年4月に河内国と摂津国が帰属を争っている川の堤の調査を、同年9月には恭仁京に派遣されて人民への宅地の分配を行っている。

雄略天皇(418~479)

稲荷山古墳

森有礼(1847~1889)

教育の総本山 1885年、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京高等師範学校を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わる。また「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。

石井菊次郎(1866~1945)

石井・ランシング協定 石井・ランシング協定は、1917年11月2日、アメリカ合衆国ワシントンD.C.で日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国での特殊権益に関する協定である。公文による共同宣言という形式になっている。ワシントン体制への道に通じる対米協調政策の結果であった。

畠山義就(1437~1491)

家督争い 1448年11月、持富への相続は撤回され、室町幕府8代将軍足利義政から裁可を得た持国の庶子が新たにその後継者と定められ、元服して義政の編諱を受けて畠山義夏と名乗った。翌1449年に父に代わって椀飯の役目を務め、1451年に伊予守に叙任されるなど持国の後継者であることを示した。ところが義夏への相続は守護代の神保氏など被官らの理解を得られず、持富の子である弥三郎政久を旗頭とした反抗勢力を形成される。

ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(1668~1714)

西洋紀聞 『西洋紀聞』は、新井白石が書いた西洋の研究書。自ら切支丹屋敷へ赴き、キリスト教布教のためにイタリア人宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティを審問した白石が、その内容をまとめたもの。諸外国の歴史・地理・風俗やキリスト教の大意と、それに対する白石の批判などが記されている。1715年頃に完成したが鎖国下のため公にされず、秘かに写本によって伝えられたが、1807年以来広く流布されるようになり、鎖国下における世界認識に大いに役立った。

宗祇(1421~1502)

種玉編次抄 「種玉編次抄」とするものが宮内庁書陵部蔵本などが最も多いが「源語編次抄」や「源氏雑乱抄」、「源氏物語宗祇抄」などとするものもある。「抄」の字は「鈔」とされることもある。

蓮如(1415~1499)

本願寺の興隆 1471年4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。7月27日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。

山崎宗鑑(1465~1554)

新撰犬筑波集 1524年以降の成立。山崎宗鑑のものに後代次々と増補されていったと考えられ、異本が多く収録内容も多様である。俳諧連歌集としては『竹馬狂吟集』に次ぐ最初期の撰集で、近世以降、特に俳諧連歌集の祖とされ有名になった。江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えたという。

日親(1407~1488)

立正治国論 仏書。日親著。1巻。1439年成立。多くの経典を引用して、治国安民のためには、邪宗を棄てて唯一の正法である法華経を信ずべきことを論じた。日蓮の『立正安国論』にならい、時の為政者である将軍足利義教に対する諫言を目的としたが、義教の怒りを買い、日親は禁獄された。

沢庵宗彭(1573~1646)

紫衣事件 江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなる。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を江戸幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることが定められた。

沢柳政太郎(1865~1927)

学校法人成城学園 成城学園の歴史は、1917年、沢柳政太郎が日本の初等教育改造を志し実験的教育の場として、成城学校内に併設した成城小学校に始まり、さらに父兄会の財政的支援のもと、卒業生の受け皿として成城第二中学校・成城高等学校が設立され、学園の拡充が進んだ。この過程で成城小学校・第二中学校・高等学校を運営する独立の財団法人成城学園が成城中学校から分離して設立され、これが現在の学校法人成城学園の前身となった。

板垣征四郎(1885~1948)

満州時代 1929年に関東軍の高級参謀に就任。1931年、石原莞爾らと謀り柳条湖事件を起こし、これを奇貨として満州事変を実行した。満州事変に於ける関東軍の行動は、宇垣一成派が追加された後に陸軍の実権を握った一夕会系中堅幕僚層からの支持を受け、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、参謀本部の東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長などが、「関東軍の活動を有利に展開させる」方向で動くこととなる。

徽宗(1082~1135)

桃鳩図

エグバート(769~839)

ウェセックス ウェセックスは、イングランドの七王国の一つ。アングロサクソン人の建てた王国のひとつでデーン人が進攻した時代に生き残った唯一の王国である。また有能な王も輩出しエグバート、アルフレッド大王が有名。とくにアルフレッド大王のもとで行われた文化事業により数々の伝承文献が書き残される事となり、資料の乏しいこの時代の歴史、古英語の文献が現在でも残されている。

ヘンリー・フォード(1863~1947)

T型フォード