保守合同
サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除となるやいなや、その1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げた日本再建連盟を設立し、会長に就任した。1953年、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党、公認候補として衆議院選挙に当選して吉田からの憲法調査会会長に任じられて自主憲法制定を目指すも、1954年に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。
コメント
コメントを投稿