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遠藤直経(1531~1570)

知勇兼備の謀将 早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、1568年、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあった時、近江佐和山城を訪れた信長の接辞役を命じられていた直経は、信長暗殺計画を長政に進言した。しかし、長政は暗殺は信義に反するとしてそれを受け入れず、直経も主君の命に背くわけにはいかずに、結局暗殺計画は未遂に終わった。

フアン1世(1358~1390)

アルジュバロータの戦い~ポルトガル軍の作戦~ 即位後、ジョアン1世はベアトリスとフアン1世を支持する都市への侵攻を開始した。カスティーリャ軍の侵攻の知らせを受けて、ポルトガルの大将軍ヌノ・アルヴァレス・ペレイラもトマールの街でジョアン1世の軍に加わった。そこで、彼らは都リスボンに近づく前に敵軍と対峙することを決定した。

九戸政実(1536~1591)

九戸政実の乱 もともと南部一族の精鋭であった九戸勢は強く、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、信直は苦戦した。そしてとうとう自力での九戸討伐を諦めて秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請するに至る。秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始しさらに小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季・大浦為信が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回った。

アニー・オークレイ(1860~1926)

アニーよ銃をとれ アニーよ銃をとれは、アメリカ合衆国のブロードウェイミュージカル作品、またそれを映画化した作品、および日本でテレビ放送されたアメリカ製西部劇である。実在の女性射撃手アニー・オークレイと射撃ショーの花形スターのフランク・バトラーが一目惚れ、そして、対決までを描くストーリーである。

カスパル・シャムベルゲル(1623~1706)

日本 1649年8月7日、シャムベルゲルは新オランダ商館長のアントニオ・ファン・ブロウクホルストと共に、長崎出島に到着した。ここで4人の日本人医師に外科の授業を行ったが、シャムベルゲルは「自身に対する試験である」と考えていた。この年は、ブレスケンス号事件に対する寛大な処置に対して謝意を表すため、特使フリジウスが江戸に派遣されることとなっていた。シャムベルゲルもこの一行に加わり、11月25日に江戸に向けて長崎を出発した。

クルト・アイスナー(1867~1919)

ミュンヘン革命 1914年の第一次世界大戦勃発時、彼は戦争に肯定的だった。しかし戦争が塹壕戦となって一向に終わる気配がなく、犠牲者を際限なく生み出すことが明らかになると、彼は平和主義に転じた。当初は戦争の責任をロシア帝国とそのツァーリズムにあるとする政府のプロパガンダを信じていたが、1915年頃からドイツこそ開戦責任があると思うようになった。このため戦争を肯定する社会民主党指導部の姿勢に不満を持ち、クララ・ツェトキンやアルベルト・アインシュタインらと共に反戦団体である「新ドイツ連盟」に加入。ついで1917年に社会民主党から反戦派が分離して結成した独立社会民主党に入党し、バイエルンにおける党代表に就任する。翌年ミュンヘンの労働者デモを煽動した罪で反逆罪を宣告された。

木下杢太郎(1885~1945)

食後の唄~五月~ 五月が来た。郊外を夕方歩けば家々の表で藁を燃すにほひ、林の櫟に新芽が出、葉茶屋に新茶、落日の金茶、伯爵家の別荘には罌粟が赤く咲いたげな。人をたづねて街をゆけば酒屋の電氣が菰の銘を照らし、みずぼらしい小間物屋にも夏帽子が出、そして呉服屋で暖簾を取込む。五位鷲が啼く原を通つて小川に沿つてゆき早くお前と會いたい。いつもの所で。五月が来た、五月が来た、一年經つてまた五月が来た。

ロバート・ブラウニング(1812~1889)

春の朝 時は春、日は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで、蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。

吉井勇(1886~1960)

ゴンドラの唄 いのち短し恋せよ乙女あかき唇褪せぬ間に熱き血潮の冷えぬ間に明日の月日はないものをいのち短し恋せよ乙女いざ手をとりてかの舟にいざ燃ゆる頬を君が頬にここには誰れも来ぬものをいのち短し恋せよ乙女波にただよい波のよに君が柔わ手を我が肩にここには人目も無いものをいのち短し恋せよ乙女黒髪の色褪せぬ間に心のほのお消えぬ間に今日はふたたび来ぬものを

アン・ハサウェイ(1555~1623)

シェイクスピアの遺言 シェイクスピアの遺言書には、ハサウェイが相続する遺産として「2番目にいいベッドと家具」という有名な一文しか記載されていない。遺言書に「もっともいいベッド」に関する記載は存在しないが、長女スザンナが相続した多くの遺産の中に含まれていたと考えられている。この一文はハサウェイを侮辱したものだといわれることが多く、シェイクスピアにとって身近な家族知人の中でハサウェイは「2番目」の人物だったに過ぎなかったと解釈されている。少ないながらこの解釈に対する反論も存在している。それらの反論の中で、当時の法では未亡人のハサウェイは遺産の三分の一を相続する権利を有していたために、遺書ではあえて取り上げられていないのだという説については、異論が多い。ハサウェイが娘たちから十分に面倒を見てもらっていたはずだという説もある。ジャーメイン・グリアは、ハサウェイがわずかな遺産しか相続しなかったのは、スザンナが結婚したときに新郎のジョン・ホールとの間に交わされた約束事が影響しているのではないかと主張している。生前のシェイクスピアとホールが共同で投機的な事業を展開していたことが、ホールとスザンナがシェイクスピアの遺言執行人に任命される結果となったとしている。シェイクスピアの遺産の大部分を相続したスザンナとホールは、生前のシェイクスピアが住んでいたニュー・プレイスと呼ばれる邸宅に引っ越した。

山口誓子(1901~1994)

誓子の俳句 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ かりかりと蟷螂蜂の皃を食む ほのかなる少女のひげの汗ばめる 夏草に機缶車の車輪来て止まる ピストルがプールの硬き面にひびき 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 海に出て木枯帰るところなし 炎天の遠き帆やわがこころの帆

陸羽(733~804)

茶~茶経~ 中国最古の茶の専門書と言われる。陸羽の『茶経』は、760年頃に書かれ、茶の製法や飲み方、産地や茶器のちがいなど伝えていて、茶が一般に普及したことが知られる。『茶経』によれば、すでに現在の番茶、煎茶、抹茶、固形茶の違いがあった。

金森通倫(1857~1945)

牧師時代 1880年10月、日本組合基督教会岡山教会牧師。岡山教会牧師時代に、熊本バンドのメンバーと東京の新栄教会で開催された第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として出席する。1883年6月、同志社普通学校長兼神学校長。1884年7月、東京番町教会牧師。1885年、自由党入党、『自由新聞』主筆。1888年、同志社長代理として同志社大学設立の募金運動を推進。

ウラジーミル・ナボコフ(1899~1977)

ロリータ 作品はハンバートが獄中書き残した「手記」という形式をとっている。ヨーロッパからアメリカに亡命した中年の大学教授である文学者ハンバート・ハンバートは、少年時代の1924年夏にアナベル・リーと出会い、恋人同士になるが、アナベルは出会いから4か月後に発疹チフスにより死別してしまい、いつまでも忘れられずにいる。一度はヴァレリアという少なくとも20代後半の女性と結婚もしたがうまくいかなかった。

秋山庄太郎(1920~2003)

  おとこ・おんな・ヨーロッパ

ボブ・ホープ(1903~2003)

ラジオ・テレビでの活躍 テレビの試験放送期にあった1932年に、すでにCBSのテスト送信でテレビ出演をしている。最初のNBCラジオのレギュラー番組は「ウッドベリー・ソープ・アワー」で、1年後に、ペプソデント歯磨き提供の最初の冠番組を始めた。

中山義秀(1900~1969)

咲庵 咲庵とは明智光秀の号である。戦略の才知に長けつつも、風雅の心もあわせ持った光秀。繊細さのなかに潜む天才への野心は、信長を本能寺で討ち果たす。その欲望と懊悩を描いた義秀円熟の力作。野間文芸賞、日本芸術院賞受賞作。

エディ・コクラン(1938~1960)

1956年~映画出演~ 7月エディとケープハートは低予算の映画のBGMを録音するためスタジオにいた。居合わせたケープハートの知人でもある映画監督のボリス・ペトロフはエディの映画向きの顔だちを見るとに「私の知人の映画に出演する気はあるかい?」と尋ねた。エディ生前のインタビューによると「最初は冗談だと思ったけど彼に『いいね!後で君に電話するから。』と言われた。翌日電話で『歌は歌えるか?』と聞かれ半分ジョークに付き合う気分で『歌える』と答えた。僕はスタジオミュージシャンであって歌手では無かったからね。そして「トゥエンティ・フライト・ロック」のデモ・ディスクを作る事になった。」

村上元三(1910~2006)

佐々木小次郎 自分の力を試したい。家柄が物をいわず、己れ1人の実力が頼れる世界に出たい――小太刀の名人に養育された孤児佐々木小次郎は、一剣に野望を賭け、恋人を捨て、故郷を捨てた。やがて、出雲の阿国の舞姿に啓示を得た無心の剣は、一閃、熊野に乱舞する飛燕2羽を斬り落とす。これぞ、秘剣つばめ返し!恨みの自刃、恋のしがらみを振り払い、己れの恣意に生きる美貌の天才剣士の華やかな躍動感!

ブライアン・ジョーンズ(1942~1969)

ローリング・ストーンズとして ストーンズは当初、イギリスの白人聴衆に「本物の」R&Bを聴かせることを目的としており、ブライアンはストーンズを紹介する際には必ず「R&Bバンド」と名乗った。当時のブライアンの様子をミックは「奴はバンドの運営と個性、バンドのあるべき姿に取り憑かれてた。俺には異常にすら見えたよ」と表現している。ちなみにブライアンはミックのボーカリストとしての力量に疑問を持っていたようで、デビュー直前には代わりにポール・ボンドを加入させようと考えていた事もある。

田中邦衛(1932~2021)

北の国から~第1話~ 妻の令子が家を出て半年。東京が嫌になった五郎は、幼い純と螢を連れ、故郷の北海道は富良野で暮らし始める。以前住んでいた麓郷の廃屋となっていた家を家族で補修し、電気も水道もない大自然の中での、三人だけの暮らしが始まった。田舎になじもうとする螢、どうしてもなじめない純。ある朝、螢は五郎に対し、自分たちがいなくてもここで暮らしたいのか、と問いかけるのだった。

ジミ・ヘンドリックス(1942~1970)

エクスペリエンス解散とバンド・オブ・ジプシーズ結成 多くのロックバンドの例に漏れず、過密なスケジュールや精神的なプレッシャーにより、バンドや周辺の人間関係は悪化していった。まず、ヘンドリックスの音楽面でのプロデューサーだったチャス・チャンドラーが、混乱した状況に嫌気がさして『エレクトリック・レディランド』のレコーディングが行われている時期にヘンドリックスの元を去る。マネージャーのマイケル・ジェフリーが完全に実権を握ることなったが、ヘンドリックスとジェフリーの関係は微妙で、ヘンドリックスはジェフリーと直接話をするのを避けていたという証言がある。

淀川長治(1909~1998)

お茶の間の顔に 番組冒頭で「ハイ皆さん、こんばんは」から始まり、「怖いですねえ、恐ろしいですねえ」の節回しや番組末尾「それでは次週を御期待下さい。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ...」は名台詞として語り草とされており、子供たちやタレントの小松政夫がこれをものまねするなど一躍お茶の間の人気者となった。1968年のアニメ『怪物くん』では、番組途中の解説やエンディングのナレーターとして起用されている。

オーティス・レディング(1941~1967)

モントレー・ポップ・フェスティバル 白人のロック・ミュージシャンが多数出演するモントレー・ポップ・フェスティバルにオーティスが出ることについて、当初は難色を示す者が多かった。オーティスが使用していたアンプは、ザ・フーやジミ・ヘンドリックスが使用していた大音量のものとは比較にならない程貧弱なものだったが、黒人のソウル・ミュージシャンとして同フェスティバルに出演したオーティスは大観衆の心を虜にし、音楽に人種の壁はないことを示し、大喝采を浴びた。共演した、同じスタックス・レコード所属でブッカー・T&ザ・MG'sのスティーヴ・クロッパーとの共同作業は「The Dock of the Bay」や「Fa-Fa-Fa-Fa-Fa」などのヒット曲を生み、彼のストーリーを育んだ。

細野正文(1870~1939)

タイタニック号をめぐって 細野は鉄道院副参事を務めていた1912年、第1回鉄道院在外研究員としてのロシア・サンクトペテルブルク留学の帰路にてタイタニック号に日本人ではただ1人乗船していた。もっとも死亡率が高かった二等船室の男性乗客であったが、細野は10号ボートに乗って生還を果たした。細野はその時の状況を雑誌『冒険世界』において次のように語っている。

ボニーとクライド(ボニー・パーカー1910~1934、クライド・バロウ1909~1934)

2人が出会ってから 2人が出会った直後にクライドは逮捕され、刑務所に収監されることになった。クライドは脱獄や保釈狙いの工作などをするが、結局2年の獄中生活の後に保釈されている。その後、クライドは更生することもなく、新しく仲間になったレイモンド・ハミルトンと共に再び犯罪に手を染めていく。繁盛していた商店へ強盗に入って主人のジョン・ブッチャーを殺害するなど、事件を起こしては逃走を繰り返し、ボニーに会うためにダラスに舞い戻っている。

長谷川テル(1912~1947)

テルの思想 日本のファシストを恨み、日本兵もまた、ファシストの犠牲者だと思っていた。中国の勝利は中国民族だけでなく、日本を含めた極東の全被圧迫民の解放を意味すると考えていた。エスペラントを国際的な武器と信じ、エスペランティストを平和の前衛と信じ、エスペラントを使って反ファシズム国際統一戦線を樹立したいと願っていた。

ヴィクトル・ツォイ(1962~1990)

キノー キノーは、ソビエト連邦時代に活動していたロックバンド。ソビエト連邦を代表するロックバンドである。音楽的には、ポストパンクとニュー・ウェイヴにインスパイアされている。バンド名は「映画」を意味している。ボーカルのヴィクトル・ツォイは、現在のロシア連邦でもロックの神様と呼ばれている。

仰木彬(1935~2005)

オリックス・ブルーウェーブ監督時代 1993年の1年間、朝日放送・九州朝日放送野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務めた。1994年、オリックス・ブルーウェーブの監督に就任した。オリックスでは、二軍生活を続けていたイチローをすぐに一軍で抜擢し大活躍させ、前任の土井正三監督時代から遊撃手として期待されながらイップスに陥っていた田口壮を、外野手として起用し成功させるなど、土井時代に停滞していた才能を次々に開花させ、「猫の目打線」と呼ばれた日替わり打線を中心として特徴的な采配を振るい、就任1年目は2位に浮上させた。

マルクス・アエミリウス・レピドゥス(不明~前152)

経歴~第二次マケドニア戦争~ レピドゥスに関する最初の記録は紀元前201年にさかのぼる。この年、元老院は元ケンソルのガイウス・クラウディウス・ネロとプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスをプトレマイオス朝エジプトに派遣しているが、レピドゥスもその一員であった。この使節団の公式の目的は、同盟国であるエジプトのプトレマイオス5世に第二次ポエニ戦争の勝利を報告することであったが、非公式の目的はマケドニアとの戦争が起こった場合のエジプトの支援を得ることであった。マケドニアのピリッポス5世はこのときペルガモンとロドスとの戦争を行っており、ローマはすでに最後通牒を送っていた。使節団がエジプトから戻ったときには、ピリッポス5世は重要な都市であるアビドスを包囲していた。レピドゥスはピリッポスの言い分を聞くために派遣された。リウィウスとポリュビオスによると、レピドゥスはピリッポスに対して何故戦争を開始したのかと厳しく問い詰めた。対してピリッポスは「もしローマがマケドニアを攻撃するつもりなら、高い代償を払うことになるだろう」と返答した。結果として第二次マケドニア戦争が勃発する。

内田康夫(1934~2018)

浅見光彦シリーズ~天河伝説殺人事件~ 新宿副都心高層ビル群。その路上で一人の男がいきなり、その命を落とした。男は天河神社の五十鈴を所持していた。そんな事など露も知らず関わりも持たない人たちの日常の中で、浅見秀一の親友であった三宅が浅見家を訪れた。彼は浅見光彦に「伝統芸能の舞台とモデルとなった史跡を巡る旅」というテーマでルポを執筆してほしいと依頼。同時に雪江を水上家の追善能へと招待する。かねてから光彦の父友として彼の身持ちを案じていた三宅は水上流宗家の令嬢である水上秀美と光彦の縁談を考えていたのである。

ラーム・シング(不明~1688)

アフガニスタンへ赴任 この間、1678年12月にマールワール王国の君主ジャスワント・シングが継嗣なく死亡すると、アウラングゼーブはその王国をただちに併合した。また、1679年4月には異教徒に課せられるジズヤを復活したため、その年の7月には一部にラージプートらが反乱を起こした。ラーム・シングは他のラージプートらが反乱を起こしているにもかかわらず、帝国に忠誠を誓い、アフガニスタンの辺境にとどまっていた。一方、彼の息子のキシャン・シングはアウラングゼーブのデカン戦争に従軍していたが、1682年4月11日に殺害されてしまった。

嵯峨浩(1914~1987)

北京での第二の人生 1960年に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会した。この後、浩は溥傑とともに北京に居住した。北京に移住後、文化大革命が始まり、1966年には二人の自宅が紅衛兵に襲われた。文革が下火になって以降、浩は1974年、1980年、1982年、1983年、1984年の計5回、日本に里帰りしている。

シャルル・ジェラール(1816~1856)

業績~残余の理論~ ジェラールの提唱した残余の理論はすべての化合物が2つの根の接合した接合子として表されるというものであった。ただ、ジェラールは根の説の信奉者とは違い、根の実在性は否定し、根は反応の際に一時的に現れるだけであるとした。この説の副産物として単体の分子式についての問題が解決された。当時は単体は単原子であると考えられていたため、ベンゼンと塩素が反応してクロロベンゼンと塩化水素の2つの塩素化合物が生成する反応をうまく説明できなかった。しかしジェラールの説によれば水素や塩素も2つの根が接合した二原子分子であるということになり、この問題が解決された。

上泉信綱(1508~1577)

箕輪長野氏家臣時代 『撃剣叢談』によると、1555年北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したという。その後、長野業正とその子長野業盛に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらったという。長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にある。

ジョン・ゴリー(1802~1855)

伝記~冷却と空気調和の父~ ゴリーの医学研究には熱帯性疾病の研究が含まれていた。当時悪い空気が病気を引き起こすという理論が一般的な仮説であり、この理論に基づいて、沼地の水を抜いたり病室を冷やすことを奨励した。このためにゴリーは天井から吊るしたボウルに氷を入れて部屋を冷やした。冷たい空気は重いので患者の方に流れて行き、床に近い開口部に抜けた。氷は北部の湖から船で運んでくる必要があったので、ゴリーは人工の氷を作る実験を行った。

母里友信(1556~1615)

黒田節の逸話 京都伏見城に滞留中の福島正則の元へ、黒田長政の使者として使わされた友信は、正則の屋敷で酒を勧められる。友信は家中でも「フカ」と言われるほどの酒豪の者であったが、使者である手前それを固辞した。しかし本人も酒豪である正則はこれに「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め、更には黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだ、など家名を貶める発言をした。

スティーブ・アーウィン(1962~2006)

世界で最も有名なオーストラリア人 1962年にオーストラリアのビクトリア州エセンドンで生まれ、1973年にクイーンズランド州に移った。そこで両親がビーアワー爬虫類公園を開業し、後にアーウィンが現在のオーストラリア動物園に発展させた。妻はアメリカのオレゴン州で生まれこの動物園で働いていたテリーで、動物園は二人の共同経営になっている。二人の間には1998年生まれの長女ビンディと2003年生まれの長男ロバートがいた。アーウィン本人はクロコダイル・ハンターの愛称で、国内外のテレビでタレントとして活動していた。

松尾國三(1899~1984)

奈良ドリームランド~開園までの流れ~ 開園のきっかけは、松尾國三がアメリカのアナハイムにあるディズニーランドに感謝し、ウォルト・ディズニーに直接面会し日本に誘致しようとした事だった。当初米国ディズニー社は本気に受け取っておらず、「その時が来たら力になる。」と回答。しかし松尾が技術者を連れて再び訪れた事で松尾の熱意に打たれたウォルト・ディズニーは、ディズニーランドのノウハウを無償で与え、建設時にもディズニーランド側から技術者を派遣させたという。なお、この無償のノウハウ提供と技術者派遣は日本にディズニーランドを作る目的ではなく、あくまでも日本人が日本に独自の遊園地を作ることに協力するという目的であった。

ミラのニコラオス(270~352)

正教会の伝える聖伝~大主教ニコラオス~ ニコラオスは巡礼後修道士となったが、丁度その頃にリュキアのミラで大主教ヨハネスが永眠しており、その後継者を探している人々にニコラオスを後継者とするよう天使からお告げがあり、喜んだ人々はニコラオスに大主教就任を要請した。辞退していたニコラオスであったが、主の旨に逆らう事は出来ず、ニコラオスは大主教となった。

応神天皇(不明~310)

行幸~宇治~ 『古事記』によると菟道野から北上して木幡村に到った天皇は道端で美しい少女と出会った。何者か問うと少女は和弭比布礼能意富美の娘の宮主矢河枝比売と名乗った。天皇は翌日の帰り道に必ず少女の家に寄ると約束し、少女も父に事情を報告した。翌日、天皇は酒を注ぎながら長い歌を詠み、宮主矢河枝比売を娶った。こうして生まれたのが皇太子となる菟道稚郎子と異母兄の皇后となる八田皇女である。

カール・ラガーフェルド(1933~2019)

シャネルでの復活劇 創業者ココ・シャネルが1971年に亡くなって以降ブランドとしてのシャネルは低迷していた。「シャネルは墓に戻る」とまで言われた経営状態を立て直すためにカールにデザイナー職のオファーがなされたが、その当時、低迷したブランドを再興するという考えは一般的ではなく、カールは多くの友人からその契約を結ぶべきではないと忠告された。結局シャネルからの2度目のオファーをうけたカールは、83年のオートクチュール、続く84年からはプレタポルテと協業を開始。結果としてコレクションは高い評価を得て、なおかつ販売・話題性も回復した。こうしたシャネルとカールの関係は、彼が亡くなるときまであり、後任には長年カールの右腕でとして働いてきたヴィルジニー・ヴィアールが即座に就任した。