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7月, 2018の投稿を表示しています

ジャック・ロンドン(1876~1916)

野性の呼び声 物語は、カリフォルニア州サンタクララバレーで幕をあける。セント・バーナードとスコットランド系牧羊犬の雑種であるバックは、ミラー判事の飼い犬として快適な生活を送っていた。しかしながら、バックは4歳のある日、庭師助手にさらわれ、売り払われてしまった。彼は、シアトルの犬販売業者「赤いセーターの男」と出会ったとき、輸送中の虐待に対する怒りにまかせて襲い掛かるが、逆に棍棒で殴られ、棍棒を持つ人間には逆らわないことを学ぶ。

ピエール・ブール(1912~1994)

猿の惑星 ケネディ宇宙センターから打ち上げられた一隻の宇宙船が、4人の宇宙飛行士を乗せた長い宇宙飛行を続け、今まさに地球への帰還を目指していた。他の3人はすでに人工冬眠装置によって眠りについており、船長のテイラーは出発からおよそ6か月が過ぎて、船内時間が1972年7月14日、地球時間が2673年3月23日であることを確認し、準光速航行のハスライン理論に従えば、今頃地球では西暦2673年頃になっているはずだと語りながら、睡眠薬を自ら注射して冬眠状態に入った。それからどれだけの時間が過ぎていったか…。突如発生したトラブルにより、船はとある惑星の湖上へと不時着水した。着水と同時に装置が自動的に開いて、テイラーたち男性3人はようやく目覚めた。もう1人がいないことに気づいたテイラーがその様子を覗うと、そこに入っていた女性宇宙飛行士のスチュアートは、装置の故障による空気漏れで死亡し、無惨にもミイラ化していた。

マルセル・プルースト(1871~1922)

失われた時を求めて~第1篇~ この長い小説はこのような書き出しから始まり、本を読みつつ30分ほど眠って、ふと目覚めた時の夢見心地の意識の内的感覚が綴られる。そして詳しい状況や語り手についての情報を読者に一切与えないままに、語り手は夜眠れずに半睡状態でベッドの上で過ごしながら、自分がかつて過ごした7つほどの様々な部屋を回想していく。

ポール・ニューマン(1925~2008)

出演作品の不発と愛息の死 レーサーとしては1977年のディトナ24時間レースで5位、1979年のル・マン24時間レースでは2位を記録するなど、華やかな成功を収めた。1975年にはカール・ルイスとともにニューマン・ハース・レーシングを結成し、CARTに参戦した。

劉少奇(1898~1969)

中華人民共和国建国まで 第一次国共合作の崩壊後は中国国民党支配地域を中心とした様々な地下活動に従事。1934年10月より長征に参加し、遵義会議では毛沢東を支持した。1935年の十二・九運動の発生を受けて党中央より華北に派遣される。1936年には党の北方局書記となり、華北地区での抗日運動を指導した。1941年の皖南事変後、壊滅状態となった新四軍の政治委員となり、軍の再建と華中地区の根拠地拡大に務めた。この間、党員の規律や指導についての著書『共産党員の修養を論ず』を執筆し、同書は劉の主著として広く党内で読まれた。

リュミエール兄弟(兄1862~1954、弟1864~1948)

シネマトグラフの発明 リュミエール兄弟が発明したとも、レオン・ボウリーが発明したとも言われている。一説には、トーマス・エジソンの開発した「キネトスコープ」を、リュミエール兄弟の父であるアントワーヌが、1894年のパリにて目の当たりする。これをきっかけに、息子兄弟に動画の研究を勧め、キネトスコープを改良、映像をスクリーンに投影することによって、一度に多くの人々が鑑賞できるシネマトグラフを開発。リュミエール兄弟は特許を取得したとされる。

ジョゼフ・スワン(1828~1914)

電灯~エジソン~ スワンが電球に関する特許がイギリスで認可されたのは1878年のことであった。これはトーマス・エジソンのそれの一年前である。1879年2月、スワンはニューカッスル化学協会に成功の報告をするとともに、ニューカッスル・アポン・タインで電球に関する講義と実演を行なっている。同年、彼はイングランドの一般家庭と歴史的建造物に電球の導入を始めた。ゲーツヘッドのロウ・フェルにあった彼の家は、電球が灯った世界最初の家となった。1881年に彼は「スワン電灯会社」を創立し、商業的に電球の生産を開始した。

エドヴァルド・グリーグ(1843~1907)

交響曲 1863年から1864年にかけて作曲され、デンマークの作曲家ニルス・ゲーゼの勧めを受けて、コペンハーゲンでこの交響曲を書いた。第1楽章を除く3つの楽章は1864年にコペンハーゲンのコンサート・ホールで演奏され、グリーグ自身も翌1865年に中間の2つの楽章を、また1867年にはクリスチャニアで第1楽章を除く3つの楽章を指揮した。さらに1865年と1867年にグリーグの故郷ベルゲンで演奏された。しかしグリーグ自身はこの演奏は聴いていなかった。

ヨハネス・ブラームス(1833~1897)

ピアノソナタ第1番 自筆譜には「ソナタ第4番」と書かれており、少なくとも3曲は試作した末に生み出されたことがわかる。1852年の4月に第2楽章の作曲に着手したが、途中で中断し、ピアノソナタ第2番の作曲を開始した。第2番の完成後、翌年の1853年に残りの楽章の作曲に再び開始した。第1番が完成した後、部分的な改訂が行われ、改訂後は友人のヨーゼフ・ヨアヒムに献呈した。

ジェーン・オースティン(1775~1817)

エマ ウッドハウス家の家庭教師を16年務めたアナ・テーラーは、ウェストンに嫁いだ。ウェストン氏にテーラーを紹介したのはエマで、自らが恋の仲介役であることを知る。するとエマは、年下の友人であるハリエット・スミスを牧師のエルトンと結び付けようとするが、エルトンが結婚しようとしているのが自分だと知り、この計画は失敗する。

メアリー・シェリー(1797~1851)

フランケンシュタイン スイスの名家出身の青年、フランケンシュタインは科学者を志し故郷を離れてドイツの大学で自然科学を学んでいた。だが、ある時を境にフランケンシュタインは、生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれる。そして、狂気すらはらんだ研究の末、「理想の人間」の設計図を完成させ、それが神に背く行為であると自覚しながらも計画を実行に移す。自ら墓を暴き人間の死体を手に入れ、それをつなぎ合わせることで11月のわびしい夜に怪物の創造に成功した。

エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(1776~1822)

くるみ割り人形とねずみの王様 医務参事官シュタールバウム家のあるクリスマスの情景からはじまる。この家には上からルイーゼ、フリッツ、マリーの3人の子供がおり、下の娘マリーは7歳になる。彼女はたくさんのクリスマスプレゼントのなかから不恰好なくるみ割り人形をみつけ、これがすっかり気に入るが、これをフリッツが大きな胡桃を無理に割ろうとして故障させてしまう。くるみ割り人形を気の毒に思ったマリーは、その夜、戸棚に飾ってある他の人形のベッドを借りてくるみ割りを休ませようとする。するとあたりの様子が変化し、地面から7つの首をもつネズミの王様が軍勢をともなって現われる。それに対してくるみ割り人形が動き出し、ほかの人形たちを率いてネズミの軍を相手に戦争を始める。マリーがくるみ割りの窮地を救おうとすると、彼女は不意に気を失い、気がつくと包帯を巻かれてベッドに寝かされていた。母親たちの話では、マリーは夜中まで人形遊びをしているうちにガラス戸棚に腕を突っ込んで怪我をしてしまったのだという。 う

ハリエット・タブマン(1820~1913)

奴隷解放運動から南北戦争への従軍 1847年、奴隷主が死に、奴隷が売られると聞いたことをきっかけに、脱出を渋る夫を残して北部のフィラデルフィアへ逃亡した。逃亡の途上、奴隷解放運動主義者で非合法組織である地下鉄道を支援していたクェーカー教徒に助けられる。フィラデルフィアではレビ・コフィンやトーマス・ガレット、フレデリック・ダグラス、ジョン・ブラウンらの奴隷解放運動家と交流を持ち、地下鉄道の「車掌」としてその運行を始めた。

ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800~1891)

イタリア統一戦争 1859年、フランス帝国とサルデーニャ王国はオーストリア帝国と開戦し、イタリア統一戦争が勃発した。この頃駐ロシア大使をしていたオットー・フォン・ビスマルクがドイツ連邦の覇権をめぐるオーストリアとの対立関係から反オーストリア的中立を訴えていたのに対して、モルトケはオーストリアとの対立をそれほど深刻には考えておらず、オーストリア側で参戦することを希望していた。この頃のモルトケの覚書には「プロイセンとオーストリアが協力関係にある限りフランスはドイツへ侵攻してくることはできない」と書かれている。

パトリス・ド・マクマオン(1808~1893)

軍人として サン=ルイ高等中学とサン・シール陸軍士官学校で学び、1827年に卒業した。陸軍ではアシャール将軍の副官を務め、1830年のアルジェリア征服戦争に参加した。1834年から1854年までアルジェリアに在勤し、1837年のコンスタンティーヌ攻撃で負傷した。1843年にはフランス外人部隊司令官となり、1852年少将に昇進した。クリミア戦争では1855年9月8日の総攻撃に際してセヴァストポリのマラコフの戦いで傑出した功績を立て、フランス陸軍最高のポストに内定したが、謝絶してアルジェリアに戻ることを選択した。1856年には上院議員に任命されている。

ジョン・ラッセル(1792~1878)

第一次内閣 こうして発足した第一次ラッセル内閣だが、ホイッグ党は議会の多数派ではないから、ピール派との協力が不可欠であった。ピール派は穀物法を復活させないために保守党政権を阻止するという立場であったものの、経済思想以外は保守的であったので、彼らとの連携は難しかった。

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(1795~1861)

バイエルン王女との結婚 1823年11月29日、バイエルン王マクシミリアン1世の娘エリーザベト・ルドヴィカと結婚した。この婚姻はホーエンツォレルン家とヴィッテルスバッハ家の結びつきを強めることを意図していた。バイエルン王室の王女がプロイセン王室からの求婚を受け入れた上で、ベルリンに長旅をすることに皇太子は多大な配慮を示した。政治的な面ではこの婚姻を理解していたにも関わらず、プロイセン側もバイエルン側でも結婚に際して両王室の宗派の違いが障害になった。プロイセン王がカトリック信仰の王妃を受け入れることは不可能なため、王妃の改宗が必要であった。しかし、婚姻を前にしてエリーザベト・ルドヴィカはカトリック信仰から福音主義信仰への改宗を拒んだ。この困難な状況において、プロイセン皇太子は信仰に関する王妃の毅然たる態度を尊重すると言明した。

ミハイル・バルクライ・ド・トーリ(1761~1818)

ナポレオン戦争~第二次ロシア・スウェーデン戦争~ 1807年11月、ロシアはフランスと締結したティルジット条約に伴い、イギリスに宣戦布告した。同時に、スウェーデンにも反英連合への参加が提案されたが、スウェーデン国王グスタフ4世はこれを拒否し、1808年2月、第二次ロシア・スウェーデン戦争が始まった。当初、戦況はロシア軍に有利であり、F.ブクスゲヴデン指揮下の部隊はフィンランドの首都アボを占領した。しかし、進撃につれ補給線が延び、スウェーデン軍の襲撃により損害を増していった。

ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー(1763~1813)

ナポレオンとの確執 モローの名声を背景に妻ウジェニーは積極的に社交界で立ち回り、ナポレオンの専横に不満を持つ者を集めて一つの政治サロンを作り上げていた。この「クラブ・モロー」をナポレオンは強く警戒した。モローもナポレオンの独裁に反対して本来の共和政治を取り戻したいと考えていたが、一方で共和政の限界をも感じ取ったのか王党派に接近する傾向も見え始めている。

ルイ=ニコラ・ダヴー(1770~1823)

ナポレオンとの出会い 以後、六年にわたり、ドゼーの副将格として行動を共にすることになり、ドイツやイタリアを転戦、ドゼーがその親友ナポレオンに誘われてエジプト・シリア戦役に参加すると、共にエジプトで戦う。ここでドゼーからナポレオンに紹介され、以後、ナポレオンに絶対的な忠誠を誓う事となった。マレンゴの戦いには従軍出来なかっため、ここで戦死したドゼーの最期に立ち会うことはできなかった。その後、友人だったルクレール将軍の妹と結婚。ルクレールがナポレオンの妹ポーリーヌを妻としていたため、その義弟という形となり、ナポレオンの側近の一人に数えられるようになる。

フランソワ・クリストフ・ケレルマン(1735~1820)

革命期の軍歴 1789年にフランス革命が起きると、ケレルマンは熱心にその主義を受け入れ、1791年にはアルザス軍の総司令官、1792年4月には中将に昇進した。その年の8月、彼の生涯にとって大きなチャンスが訪れた。彼はヴァルミーの戦いでプロイセン軍を破り、その勝利は、プロイセン軍に従軍していたゲーテによって「ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる。」と称えられた。ナポレオンは後日、以下のように述べている;「私は自分をこれまでに生を受けた中で最も大胆な指揮官であると思っている。しかし、その私でもヴァルミーの風車のところにわが身を置きたいとは思わない。」

カール・フォン・エスターライヒ=テシェン(1771~1847)

軍歴 1792年、カールが20歳の時にフランスとの戦いに従軍する。ホーエンローエの指揮下でジャマップの戦いに参加し、デュムーリエ将軍率いるフランス軍と戦った。その後、ザクセン=コーブルク公子フリードリヒ・ヨシアスの軍の先陣となり、フランス軍を破ったアルデンホーフェンとネールウィンデンの戦いでは際立った働きを見せた。ベルギーを再度フランスから取り戻した後、1793年3月25日、その地の総督に任じられる。1794年、ランドルシー、トゥルネ、コルトレイクそしてフリュールスの戦いでは、オーストリア軍の指揮の一部を担った。フランスにオーストリア領ネーデルラントを奪われた後、彼は健康を回復するため軍を退きウィーンへ戻った。

ジョン・ポール・ジョーンズ(1747~1792)

独立戦争後 ジョン・ポール・ジョーンズはアメリカ海軍における最初の英雄であり、高い能力を持った指揮官であると考えられている。ロシア帝国における戦いぶりはその才能を示している。エカチェリーナ2世から対オスマン帝国戦争のための艦隊指揮を任されたジョーンズは、女帝から賜った「パーヴェル・ジョーネス海軍少将」という名前でサンクトペテルブルクから黒海へ派遣された。ジョーンズは、スィーヂル・ビールイイとアンチーン・ホロヴァーティイの指揮下にあった黒海コサック軍と親交を深め、コサックの風習に馴染んでいった。1787年から始まった露土戦争においては、黒海コサック小艦隊のドニエプル=ブーフ潟における活動を指揮した。コサックの衣装を着たジョーンズは、コサック艦隊の旗艦、24ポンド艦・聖ウラジーミルを指揮して戦い、聖アンナ勲章を受勲された。

ホレイショ・ゲイツ(1727~1806)

アメリカ独立戦争~野戦指揮官 キャムデンおよび南部戦線~ 1780年5月、サウスカロライナのチャールストン陥落と南部方面軍のベンジャミン・リンカーン軍の降伏の知らせが大陸会議に届いた。5月7日、大陸会議は投票によりゲイツを南部方面軍の指揮官に指名した。彼はこの知らせを現在のウエストバージニアのシェパーズタウン近くにある自宅で受け取った。ゲイツは1780年7月25日、ノースカロライナ植民地のディープ川近くにいた残存南部方面軍の指揮のために南に向かった。

クリスチャン7世(1749~1808)

対外政策 対外政策においては、デンマーク海上帝国の保持が特徴として挙げられる。特に植民地帝国としてその覇権を築いたイギリス帝国との友好は、デンマークの海運帝国の黄金時代をもたらしている。また、アイスランド、グリーンランドを支配し、1774年には、王立グリーンランド貿易会社が設立されるなどデンマーク経済の繁栄の時代であった。しかしこれらの繁栄の時代は、クリスチャンの晩年に暗転し、ナポレオン戦争によるイギリスとの対立で衰退への道を歩んでゆく。

ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ(1737~1772)

宮廷掌握と性急な改革 当初は、ストルーエンセは黒幕として背後から宮廷を操るだけであったが、次第に自分が操る傀儡に満足できなくなっていた。そこで、1770年12月には大臣たちが罷免され、ストルーエンセ1人がメートル・デ・ルケットとして事実上の摂政となった。以後、さまざまな政府機関から提出されるあらゆる報告は、ストルーエンセを通じて王に示されることになった。クリスチャン7世は自分の責務にほとんど無関心だったので、ストルーエンセは提出された報告書に好きなように裁可を加えることができた。

エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール(1719~1785)

実質宰相として ショワズールはヴェルサイユ条約締結の前にポンパドゥール夫人からその内容を知らされたときは否定的な感想を持ったようにそのメモワールには書いてあるが、戦争指導では一貫して主戦派だった。プロイセン王国の不利を承知していたショワズールは、プロイセンは遅かれ早かれ音を上げる、むしろプロイセンがその勢力を大幅に失うとオーストリアとロシアを利させすぎるから危険だと考えていた。そしてプロイセンが脱落すれば海軍に資金を集中できるからイギリスとの戦争も挽回できるとも考えていた。もちろん実際にはプロイセン軍がその優秀さとしぶとさを全ヨーロッパに知らしめて屈せず、ドイツ戦線ではフランス軍はハノーファーからライン川に追い返された。アメリカ大陸での敗北は回復不能で、予算を集中できない海軍は敗北が続いた。

ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ(1699~1782)

専制支配~審問会~ カルヴァーリョは経済的発展のためにユダヤ系ポルトガル人に対する制度的な迫害を撤回しようとしていたが、イエズス会にとっては認めがたい方針であり、審問所の待つ権限を妨害に用いていた。カルヴァーリョは敵対したイエズス会を陰謀への加担を理由として排除した後、審問所の機能を残したまま主管を教会から国家に移して敵対者の排除に利用した。カルヴァーリョはキリスト教徒、ユダヤ教徒らに同等の法的権利を与え、さらにはポルトガル本国内に黒人奴隷をもちこんだ場合、即時の奴隷の解放を義務付けた。これにより、ポルトガル本国に奴隷をもちこむことは不可能となる。これは啓蒙主義的な観点からの奴隷解放ではなく、労働力が不足しがちな植民地から奴隷が連れ出されるのを防ぐための労働力確保を目的とした政策であった。

ジョアン4世(1604~1656)

ブラガンサ公 ブラガンサ家は、アヴィス朝の初代国王ジョアン1世の庶子であったブラガンサ公アフォンソ1世を祖とする家系で、王家と通婚も重ねたポルトガルの有力貴族であった。ジョアンは第7代ブラガンサ公テオドジオ2世と、妻アナ・デ・ベラスコの嫡子として生まれる。テオドジオ2世の母カタリナはマヌエル1世の六男ギマランイス公ドゥアルテの娘で、自身の権利としてポルトガル王女の称号を持っていた。エンリケ1世の後継を決める際、エンリケ1世の姪にあたるカタリナは次期王位継承候補者に挙がっていた。

ヤン・ザモイスキ(1542~1605)

後半生:王の反対者として 1586年にステファン・バートリ王が没した。ザモイスキはジグムントの王位就任を助け、オーストリア大公マクシミリアン3世を担ぐ一部貴族たちの勢力と戦ってこれを退けた。マクシミリアン派はクラクフ市を攻撃したが、ザモイスキはこれを守りきり、さらに1588年にはビチナの戦いでマクシミリアン派を壊滅に追い込んだ。ザモイスキはマクシミリアン本人を追ってついにこれを逮捕、拘束し、ポーランド王位への野望を放棄することを約束させ上で釈放した。

アビラのテレサ(1515~1582)

改革者としての活動 1563年5月、テレサが新しい修道院へと移転した時、彼女は明らかな貧しさと豊かさの拒絶という最も重要な原則について、教皇の支持を取り付けた。その原則を彼女は「規約」という形で明確にするようにしていった。彼女の計画は今までのより厳格な規律を復興し、新しい規則によって補足することだった。新しい規則とは例えば、毎週の礼拝で指示されるむち打ちの儀式という3つの懲罰や、全員靴を履かないか、あるいは、靴を履く代わりに革か木のサンダルを使用することなどである。最初の5年間は、テレサは宗教的隠遁生活を続け、著作活動に従事した。

十字架のヨハネ(1542~1591)

思想 十字架のヨハネの思想は、『暗夜』の概念に集約されている。『暗夜』とは、「神との一致に至るまでの過程」と定義されている。この『暗夜』は、「暗き夜に 炎と燃える 愛の心のたえがたく」 に、はじまる、8編の詩の形式で表現され、彼の代表作である、『暗夜』と『カルメル山登攀』によって解説されている。この詩は、「信仰の暗夜を通って、神との一致に向かう魂が、赤裸と浄化の中に見出した『さいわいなさだめ』をうたう」ものである。十字架のヨハネの全著作は、1906年デヴィッド・ルイスにより、また1953年 E.A.ピアズによって英訳され、キリスト教信仰者以外の人々の心にも訴えた。

フリードリヒ3世(1415~1493)

宗家継承 ローマ皇帝ジギスムントの死によってルクセンブルク家が断絶した後、次のローマ王に選出されたのはジギスムントの娘婿アルブレヒト2世だった。アルブレヒト2世はハプスブルク家の宗家の当主で、フリードリヒの又従兄に当たった。アルブレヒトはこの時、ジギスムントの有していたハンガリーとボヘミアの王位も獲得している。しかし1439年、在位1年余りで皇帝としての戴冠式も果たせないまま、アルブレヒト2世は対オスマン帝国戦に出陣中、ハンガリーのネスメーイで赤痢によって急死した。

ヴェンツェル(1361~1419)

神聖ローマ帝国の統治と混乱 1395年、イタリア僭主の一人ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティをミラノ公に叙爵したことで帝国諸侯の不満は限界に達し、ケルン選帝侯・マインツ選帝侯・トリーア選帝侯とプファルツ選帝侯ループレヒト2世がヴェンツェルのローマ王廃位に動き出した。1398年にループレヒト2世は死去したが工作は続けられ、1400年にケルン・マインツ・トリーア選帝侯とプファルツ選帝侯ループレヒト3世がヴェンツェルの廃位を宣言、ループレヒト3世を新たな王に選んだ。ヴェンツェルは廃位を認めず抗議したが、地盤のボヘミアも不安定な状況に置かれていたため軍の動員など有効な手段が取れず、ループレヒトがローマ王、ヴェンツェルはボヘミア王という事実は動かせなかった。以後ヴェンツェルは死ぬまでローマ王を名乗りボヘミアを統治することになる。

ハインリヒ・ラスペ(1204~1247)

対立王に即位 1245年、教皇インノケンティウス4世によるフリードリヒ2世の破門、廃位を承け、ハインリヒ・ラスペがその座に推された。マインツ大司教ジークフリート3世・フォン・エップシュタインとケルン大司教コンラート1世・フォン・ホッホシュターデンがこれを支持した。ハインリヒは1246年5月2日に少数のドイツ諸侯によってヴュルツブルク近郊のファイツヘーヘハイムで王に選出された。選挙の結果を承けてローマへ向かった事から、彼は既に「rex clericorum」との副え名を付けられている。

ディディウス・ユリアヌス(133~193)

皇帝即位 193年、コンモドゥス帝が暗殺され、更に帝位を簒奪したペルティナクスが元老院と近衛隊の支持を失い、僅か3ヵ月で暗殺されるなど不安定な情勢が続いていた。ペルティナクス死後、適当な皇帝候補が見つからなかった事から、元老院に相談なく近衛隊主催による前代未聞の「帝位競売」が行われた。

ペルティナクス(126~193)

コンモドゥス帝時代 アウレリウス帝の長男コンモドゥスが皇帝に戴冠した後も属州の要職を任されていた。しかしコンモドゥス帝の右腕であった近衛隊長セクストゥス・ペレンニスと対立し、両者の諍いに皇帝はペルティナクスを公職から遠ざける決定を下した。二度目の失脚に追い込まれたペルティナクスだったが、ペレンニスがコンモドゥス帝に粛清されるとブリタニア総督として皇帝の側近に復帰した。

ゴルギアス(前487~前376)

レトリックの革新 ゴルギアスは、「構造」「装飾」「パラドクソロギアの導入」に関するレトリックの革新において、その先導役を務めた。パラドクソロギアとは逆説的思考と逆説的表現の概念のことである。これらの進歩によってゴルギアスは「詭弁の父」というレッテルを貼られてしまった。一方でゴルギアスは、文字的散文の言葉として古アテナイ方言を普及させることに貢献したことでもしられている。

清河八郎(1830~1863)

諸国漫遊 1855年3月から9月にかけて、母親を連れて、清川村を出発。善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大坂、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、江戸、日光などをめぐる大旅行をする。その記録 『西遊草 』は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料である。内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、その性格から辛辣で手厳しい批評が多い。

安島帯刀(1811~1859)

将軍継嗣問題-安政の大獄 実兄・戸田忠太夫や藤田東湖が安政の大地震により亡くなったため、1858年7月、斉昭の命により水戸藩家老に任ぜられる。また、家老昇進にあたっては身分に相応しい名として、朝廷の正式な官職に次ぐ由緒のある百官名、帯刀を称する様になった。

英一蝶(1652~1724)

雷神

酒井抱一(1761~1829)

風雨草花図

芹沢鴨(1832~1863)

壬生浪士頭取 約一ヶ月後の2月5日、清河八郎の周旋により江戸で結成された浪士組に新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を伴い参加し、六番組小頭に任命された。その際に江戸の剣術道場試衛館の近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助らも加わり、京都まで行動をともにする。

藤堂平助(1844~1867)

新選組時代~池田屋事件~ 1864年7月8日の池田屋事件では、最初に斬り込んだ4名のうちの一人で、一階の庭を持ち場とし、逃亡しようと降りて来る浪士達相手に奮戦した結果、佩刀の上総介兼重はぼろぼろになり、鍔元には修復不可能な程のひび割れを負った。また、戦闘中に室内があまりに暑かったため、汗を拭おうと鉢金を取ろうとしたところを潜んでいた浪士に斬りつけられ、額を割られ昏倒。一時は生死をさまよう危篤状態に陥った。事件後、近藤、土方に次ぐ額の計二十両もの褒賞金を江戸幕府から下賜されている。

原田左之助(1840~1868)

馬賊伝説 原田は上野で死なず生き延び、新潟・下関・釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったという伝説がある。日清・日露戦争のときに松山で昔語りをする老軍人がいて「私は原田左之助だ」と名乗ったと伝わっている。1907年頃の愛媛新聞にて弟や甥と会って会話をした後に「満州に帰る」と言い残して去っていったと報じられたが真偽は不明。

中村草田男(1901~1983)

草田男の俳句 蟾蜍長子家去る由もなし 降る雪や明治は遠くなりにけり 冬の水一枝の影も欺かず 玫瑰や今も沖には未来あり 万緑の中や吾子の歯生え初むる 勇気こそ地の塩なれや梅真白 葡萄食ふ一語一語の如くにて

金子光晴(1895~1975)

鮫~おつとせい~ だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、礼拝してゐる奴らの群衆のなかで、侮蔑しきったそぶりで、ただひとり、反対をむいてすましてるやつ。おいら。おつとせいのきらひなおつとせい。だが、やつぱりおつとせいはおつとせいでただ「むかうむきになつているおつとせい」

中島敦(1909~1942)

山月記 隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら試作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。