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徐光啓(1562~1633)

カトリックに改宗 彼はカトリックに改宗した最初の中国高官であり、洗礼を受けてパウロといった。彼の子孫が故郷に天主堂を建て、これが江南のイエズス会の本拠となった。上海旧市内の光啓南路は彼にちなむ地名で、そこに残る九間楼は彼が晩年に住んだところである。

嵯峨天皇(786~842)

嵯峨天皇の略歴 809年4月1日、平城天皇の譲位を受け、即位。皇太弟となった事情から、平城天皇の子で甥にあたる高岳親王を皇太子としたが、翌810年に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたためか、今度は異母弟の淳和天皇を強引に皇太弟に立てた。

劉向(前77~前6)

戦国策~虎の威を借る~ 虎百獣を求めて之を食らふ。狐を得るに、狐曰はく、「子敢へて我を食らふ無かれ。天帝我をして百獣に長たらしむ。今、子我を食らはば、是れ天帝の命に逆らふなり。子我を以つて信ならずと為さば、吾子の為に先行せん。子我が後に随ひて観よ。百獣の我を見て敢へて走らざらんや。」と。虎以つて然りと為す。故に遂に之と行く。獣之を見て、皆走る。虎獣の己を畏れて走るを知らざるなり。以つて狐を畏ると為すなり。

マルグレーテ1世(1353~1412)

カルマル同盟の結成 デンマーク王女でノルウェーのホーコン6世と結婚、1387年両国の実質的女王となる。スウェーデンに勢力を伸ばし、1397年カルマル同盟を結成して三国の実質的合同君主となる。国王は妹の孫エーリックをつけるが事実上の国王としての支配を1412年まで続ける。マルグレーテ1世は息子のオーロフ2世を国王とするため、王位継承権を放棄していた。そのため国王にはなれなかったので、エーリックを名目上の国王にし、自らは摂政として統治にあたった。実質的に国王として権力を持っていたので、一般に「マルグレーテ女王」と言われている。

シモン・ド・モンフォール(1208~1265)

モンフォール議会 イギリスのプランタジネット朝のヘンリー3世が、マグナ・カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたことに反発した貴族が、シモン・ド・モンフォールに率いられて反乱を起こし、国王を捕虜とした。シモン・ド・モンフォールは、貴族・聖職者とともに州の代表として騎士と、都市の代表を召集して議会を開催することを要求、国王がそれを承認し、1265年に召集された。これがイギリス議会制度の歴史上で重要なモンフォール議会といわれる議会である。

北条時頼(1227~1263)

執権時代 執権へ就任した時頼だが、この当時、幕府の政治の中枢にある評定衆のメンバーの大半が、時頼を支持していなかった。それから1ヵ月後、前将軍・藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、1246年5月には頼経の側近で北条氏の一族であった北条光時が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反得宗勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである。

龍造寺隆信(1529~1584)

今山の戦い 今山の戦いは、1570年4月から始まった豊後の戦国大名・大友義鎮軍と肥前の戦国大名・龍造寺隆信軍との戦い。特に1570年9月19日に行われた激戦が有名であり、この日の戦闘を指して今山合戦とする場合もある。

中村彝(1887~1924)

エロシェンコ像

平忠盛(1096~1153)

白河院政期 父の正盛は白河法皇に北面武士として仕え、源義親の追討で武名を上げた。一方で源義忠に息女を娶わせるなど、先行の軍事貴族である河内源氏とも連携を図り、義忠は忠盛の烏帽子親となっている。義忠死後に河内源氏が衰退するのと入れ替わるように、伊勢平氏は源氏の与党を従わせつつ勢力を伸ばしていった。

マンサ・ムーサ(不明~1337)

マリ王国 西アフリカのニジェール川上流からセネガル川留意域を支配した黒人王国でイスラーム教国。13世紀にガーナ王国に代わって台頭したマンディンゴ人が建てた国で、ガーナ王国と同じく、金の産地を押さえ、北アフリカとの交易でその都トンブクトゥは大いに栄えた。14世紀には全盛期を迎え、国王マンサ・ムーサがメッカ巡礼を行ったことで有名である。また大旅行家のイブン・バットゥータがマリを訪れている。15世紀に東隣のソンガイ王国によって押され衰退する。なお、現在のマリはこの地に出来た国であるが、直接は関係がない。

スーリヤヴァルマン2世(不明~1150)

アンコール・ワットの造営 12世紀前半、カンボジアのアンコール朝の王。東は1145年にチャンパーの首都ヴィジャヤを陥れ、西はビルマの国教までの広い範囲を支配した。また30年の年月をかけてアンコール・ワットを造営した。アンコール・ワットは当初はヒンドゥー教寺院として造られ、東南アジアのヒンドゥー文化の最高傑作とされる。

メフメト2世(1432~1481)

メフメト2世の時代 このように、15世紀後半のメフメト2世のオスマン帝国は、文字通り「帝国」として東西世界にまたがる広大な地域を支配する専制国家となった。メフメト2世はイタリア遠征も予定し、1480年には先遣隊を南イタリアに上陸させ、翌年、彼自身が遠征に出発したが病没し、取りやめとなった。ルネサンスのまさに全盛期となろうとする時代であった。

ハンニバル(前247~前182)

ザマの戦い 第2回ポエニ戦争でカルタゴのハンニバル軍をローマ軍が破った戦い。前202年、ローマの将軍スキピオ・アフリカヌスはカルタゴの虚を突き、その本国に上陸。急を聞いたハンニバルが本国に戻り、カルタゴ近郊のザマで相対した。ここではスキピオ・アフリカヌスがカルタゴ軍を挟撃することに成功し、ハンニバルは敗戦を認めて、カルタゴは降服した。カルタゴは海外領土すべてを失い、賠償金などの支払いを約束、ハンニバルはしばらく将軍にとどまったが、結局カルタゴを離れる。

エルナン・コルテス(1485~1547)

奸計でモンテスマ2世を捕らえる 同年初めに都テノチティトランに到着、湖の上に築かれた壮大な都市を見て兵士は仰天する。当時アステカ王国はモンテスマ2世が治めていたが、王はコルテス一行を平和裏に迎え、歓呼の声で市内に入った。しかしコルテスは、奸計を以て王の身柄を迎え、スペイン兵の監視下に置き、全土から莫大な量の金銀の細工品を集めさせた。

スキピオ・アフリカヌス(前236~前183)

戦後~ローマ帰国後~ ローマに戻ったスキピオは熱狂的な歓迎を受け、凱旋式の挙行を許される。そして「アフリカヌス」の尊称を授かり、以降スキピオ・アフリカヌスと名乗った。救国の英雄である彼には、他にも終身執政官、さらに終身独裁官の提案が何度もなされたが、スキピオはそれらを全て断っている。そして紀元前199年にケンソルに選ばれたが、その後数年間は静かな隠遁生活を送った。

イスマーイール1世(1487~1524)

チャルディラーンの戦い サファヴィー朝は、白羊朝を滅ぼす前年の1507年にアナトリア南東部のドォルカディル侯国を攻撃し、よりアナトリアに勢力を広げるため、シーア派の宣教を行った。イスマーイール1世が自らしたためたトルコ語によるシーア派への勧誘の詩は、ハリーフェという宣教師を通してアナトリア各地の遊牧民に伝えられた。

島津斉彬(1809~1858)

藩主時代 藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。1851年7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、1854年、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。

葉山嘉樹(1894~1945)

海に生くる人々 室蘭港が奥深く入り込んだ、その太平洋への湾口に、大黒島が栓をしている。雪は、北海道の全土をおおうて地面から、雲までの厚さで横に降りまくった。汽船万寿丸は、その腹の中へ三千トンの石炭を詰め込んで、風雪の中を横浜へと進んだ。船は今大黒島をかわろうとしている。その島のかなたには大きな浪が打っている。

片山潜(1859~1933)

片山潜の生涯 また1903年12月に再度渡来し、翌1904年、第二インターナショナルの第五回大会で安倍磯雄とともに本部員に選ばれていた片山はアムステルダムで開催した万国社会党の第六回大会に出席。折しも日露戦争の最中にあって、ロシア代表のゲオルギー・プレハーノフとともに労働者の反戦を訴えた。

ダニエル・ベルヌーイ(1700~1782)

ベルヌーイの定理 ベルヌーイの定理またはベルヌーイの法則とは、完全流体のいくつかの特性な場合において、ベルヌーイの式と呼ばれる運動方程式の第一積分が存在することを述べた定理である。ベルヌーイの式は流体の速さと圧力と外力のポテンシャルの関係を記述する式で、力学的エネルギー保存の法則に相当する。この定理により流体の挙動を平易に表すことができる。ダニエル・ベルヌーイによって1738年に発表された。なお、運動方程式からのベルヌーイの定理の完全な誘導はその後の1752年にレオンハルト・オイラーにより行われた。ベルヌーイの定理は適用する完全流体の分類に応じて様々なタイプに分かれるが、大きく二つのタイプに分類できる。

一遍(1239~1289)

時宗教団の成立 門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や2歳年上の他阿らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時宗を他阿が再編成したのが起源である。

源頼信(968~1048)

道長四天王 甲斐守在任時の1031年に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと「道長四天王」、「四天王」と称された。それまで四年間、平直方と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係があったためと考えられている。

堺利彦(1871~1933)

堺利彦の生涯 1905年に社会主義機関誌『宣言』にエスペラントに関する記事を掲載。その後、1906年に発足した日本エスペラント協会の評議員に就任した。同年に日本社会党を結成して評議員・幹事となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめる。

エドガー・ドガ(1834~1917)

三人の踊り子

佐藤春夫(1892~1964)

秋刀魚の歌 あはれ秋風よ情あらば伝へてよ―男ありて今日の夕餉にひとりさんまを食らひて思ひにふけると。さんま、さんまそが上に青き蜜柑の酢をしたたらせてさんまを食ふはその男がふる里のならひなり。そのならひをあやしみてなつかしみて女はいくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。あはれ、人に捨てられんとする人妻と妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、愛うすき父を持ちし女の児は小さき箸をあやつりなやみつつ父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。あはれ秋風よ汝こそは見つらめ世のつねならぬかの団欒を。いかに秋風よいとせめて証せよかの一ときの団欒ゆめに非ずと。あはれ秋風よ情あらば伝へてよ、夫を失はざりし妻と父を失はざりし幼児とに伝へてよ―男ありて今日の夕餉にひとりさんまを食ひて涙をながすと。さんま、さんまさんま苦いか塩つぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせてさんまを食ふはいづこの里のならひぞや。あはれげにそば問はまほしくをかし。

吉山明兆(1352~1431)

渓陰小築図

藤原道綱母(936~995)

蜻蛉日記 かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり。かたちとても人に似ず、心魂もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥し起き明かし暮らすままに、世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記にして、めづらしきさまにもありなむ、天下の人の品高きやと問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、されもありぬべきことなむ多かりける。

セオドア・ルーズベルト(1858~1919)

帝国主義の推進 共和党員として地方議員やニューヨーク市公安委員長などを務めていたが中央政界では無名であったルーズベルトが脚光を浴びるようになったのは、1897年にウィリアム・マッキンリー大統領の下で海軍次官に抜擢されてからであった。彼は共和党に属し、熱心に海外膨張主義を主張し、特にカリブ海への勢力拡大、中国市場に参画するためにハワイおよびフィリピンの領有を画策していた。彼の進めた膨張政策は1898年のアメリカ・スペイン戦争を実現させたが、彼はその際には義勇兵を率いてキューバに侵攻し、名声を高めた。ついで1900年、共和党ウィリアム・マッキンリー大統領の副大統領となった。

安田善次郎(1838~1921)

安田財閥 安田財閥は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。

八木重吉(1898~1927)

秋の瞳~草にすわる~ わたしのまちがひだつたわたしのまちがひだつたこうして草にすわればそれがわかる

川上音二郎(1864~1911)

オッペケペー節 権利幸福きらいな人に自由湯をば飲ませたいオッペケペーオッペケペッポーペッポッポー堅い上下角とれてマンテルズボンに人力車粋な束髪ボンネット貴女に紳士の扮装で外部の飾りはよいけれど政治の理想が欠乏だ天地の心理がわからないこころに自由のたねをまけオッペケペーオッペケペッポーペッポーポー

北畠親房(1293~1354)

神皇正統記 大日本は神国なり。天祖初めて基を開き、日神長く統を伝へ給ふ。わが国のみこの事あり。異朝にはその類ひなし。この故に神国と云ふなり。神代には「豊葦原千五百秋瑞穂国」と云ふ。天地開闢の初めよりこの名あり。天祖国常立尊、陽神陰神に授け給ひし勅に聞こえたり。

新田義貞(1301~1338)

鎌倉占拠後における足利氏との確執 鎌倉を陥落させた義貞は、勝長寿院に本陣を敷いた。一方、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣した。鎌倉陥落後ほどなくして、義貞は後醍醐天皇に幕府を打倒した旨を伝える使者を送らせた。

北条実時(1224~1276)

金沢文庫 金沢文庫は、鎌倉時代中期の日本において、金沢流北条氏の北条実時が設けた日本最古の武家文庫。所在地は神奈川県横浜市金沢区金沢町142。金沢流北条氏が領し、のちに館や菩提寺である称名寺を建立して本拠地として開発し、家名の由来となった地である武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷に所在したことが名称の由来である。現在は「神奈川県立金沢文庫」の名称で県立の歴史博物館となっており、様々な所属品を保管・展示している。

ネルソン・マンデラ(1918~2013)

南アフリカ共和国の政治家 マンデラは1950年代から南アフリカ連邦における黒人蔑視の人種主義にもずく人種隔離政策であるアパルトヘイトにたいする戦いを続けた、アフリカ民族会議の指導者。27年間の獄中生活から解放され、1994年に実施された総選挙でアフリカ民族会議が第一党となり、黒人初の大統領に選出された。

マーガレット・サッチャー(1925~2013)

鉄の女 鉄の女とは、しばしば女性の政府の長に付けられる愛称で、「強い意志を持つ」女性を「鉄」例え描写するものである。マーガレット・サッチャーが、この様に比喩されるのはよく知られているが、これは共産主義に対して、断固として反対していた彼女の態度から、1976年にソビエト連邦のマスメディアによって名付けられたのである。

ジークムント・フロイト(1856~1939)

精神分析の創始 1886年、ウィーンへ帰り、シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を精神分析と名づけた。

アメンホテプ4世(前1362~前1333)

アマルナ革命 アトン信仰は自然神でありながら、愛によって人々を救済するという、普遍的な宗教であり、エジプトと西アジアという異なる民族と文明を内包する地域を支配する専制君主に適した新しい宗教として創り出された。アメンホテプ4世はその信仰に基づき、独自の美術表現を推奨し、それはアマルナ美術と言われた。この一連の宗教改革は「アマルナ革命」と言われる。しかし、伝統的なテーベを拠点とするアメン神をまつる神官団や官僚たちの反発を受け、次の王ツタンカーメン王の時には都はメンフィスに移され、「アマルナ革命」は否定された。第19王朝のラメセス1世はアメンホテプ4世を「異端の王」として断罪し、アマルナを徹底的に破壊し、その王名も抹殺した。

虎関師錬(1278~1346)

元亨釈書 元亨釈書は、日本の歴史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。著者は臨済宗の僧、虎関師錬。全30巻。1322年に朝廷に上程されたので、書名に「元亨」が冠せられる。「釈書」は釈、つまり仏の書物。収録年代は、仏教初伝以来、鎌倉後期まで700余年に及び、僧の伝記や仏教史を示す。南北朝時代に大蔵経に所収された。

源実朝(1192~1219)

金槐和歌集 世の中は鏡にうつる影にあれあるにもあらずなきにもあらず 山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも ひんがしの国にわがおれば朝日さすはこやの山の影となりにき

アダム・ラクスマン(1766~1806)

ラクスマンと大黒屋光太夫 伊勢出身の日本人漁民で、嵐にあって太平洋を漂流し、千島列島に漂着、ロシア人に救助されて1791年にペテルブルグに連行され、ロマノフ朝のエカチェリーナ2世に謁見した。エカチェリーナ2世は、日本に興味を持ち、翌年、ラクスマンに命じて大黒屋光太夫を送り届け、あわせて江戸幕府に開国を要求した。

後鳥羽天皇(1180~1239)

院政 1198年1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と1221年まで、3代23年間に亘り上皇として院政を敷く。上皇になると土御門通親をも排し、殿上人を整理して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採り、1199年の頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。

藤原清衡(1056~1128)

後三年の役 清原家には、清衡の他に、武貞の嫡子で清衡とは血のつながらない義兄の真衡、武貞と清衡の母の間に生まれた異父弟の家衡がいたうえに、吉彦秀武が清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。

中江藤樹(1608~1648)

翁問答 中江藤樹の著。1641年の作。その後数回修正された。藤樹がまだ陽明学に完全に転じていない34歳頃のもので、朱子学的思想を濃厚に示している。上、下2巻と、その補遺と考えられる改正編から成る。老翁天君という師と躰充という門人との問答体で書かれている。孝を父母先祖に対するものとしてのみならず、一切の道を統括するものとして根幹的にとらえ、心法、五倫、真の学問とにせの学問、文武、軍法、法と学問、士道、神道、仏教など多方面にわたって論じ、なかんずく、仏教排斥の論は藤樹著述中最も詳しい。改正編は、のちに陽明学的立場からの改正を意図したものである。

九条兼実(1149~1207)

頼朝上洛 1189年に奥州藤原氏を討滅して後顧の憂いがなくなった頼朝は、1190年11月7日に上洛した。9日、兼実は閑院内裏の鬼間において頼朝と初めて対面する。頼朝が兼実に語った内容は以下の通りである。

推古天皇(554~628)

皇太子・聖徳太子 593年5月15日、甥の聖徳太子を皇太子として万機を摂行させた。聖徳太子の父は用明天皇、母も異母妹の穴穂部間人皇女の間柄であり、これが竹田皇子亡き後において、天皇が聖徳太子を起用する背景になったと見られている。

ブラム・ストーカー(1847~1912)

「ドラキュラ」の挿絵