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河原喜久恵(1902~1997)

ザッツ・オーケー だって逢わずにゃいられない思いいでくるふたりなら明日という日も待ちかねるそんな心で別れましょういいのねいいのね誓ってねオーケーオーケーザッツ・オーケーなんの嘘などつきましょう貴方のものよこうなれば悲しいことにゃさせないで夢に見る日をいつまでもいいのねいいのね誓ってねオーケーオーケーザッツ・オーケーたんと泣かせたその後で機嫌とるのがくせなのよじれて灯影に身を寄せりゃゆれる鏡に笑う顔いいのねいいのね誓ってねオーケーオーケーザッツ・オーケー訳も知らずに誰がまた噂立てよと聞かぬことあてのない世にただ一つ二人の恋はあてなのよいいのねいいのね誓ってねオーケーオーケーザッツ・オーケー

ジョヴァンニ・ヴェルガ(1840~1922)

カヴァレリア・ルスティカーナ シチリア島のある村。復活祭の朝。トゥリッドゥはかつて美しい女ローラの恋人であったが、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚してしまったのである。除隊後帰郷したトゥリッドゥは、いったんはローラを忘れるべく、村娘サントゥッツァと婚約したが、結局は留守がちなアルフィオの目を盗んでローラと逢引を重ねる仲に戻ってしまった。これはサンタの知るところとなる。サンタは怒りのあまり、そのことをアルフィオに告げてしまう。アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔する。

長沢鼎(1852~1934)

カリフォルニアのワイン王 1900年、長沢はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州1十代ワイナリーの一つにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け、高級ワインに育て上げた上に、フランスには特約店を設け、苗木を輸入するなど、商才にも長けていた。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。

アルフォンソ7世(1105~1157)

全ヒスパニアの皇帝 なお、1134年にアルフォンソ1世が死ぬとアラゴンへ逆介入してラ・リオハ・ナヘラ・サラゴサを占領、アラゴン王ラミロ2世と貴族達を臣従させた。1136年に生まれたラミロ2世の娘ペトロニラと長男サンチョを婚約させたが、アラゴン貴族の反対で解消されている。また、ナバラ王ガルシア6世を1135年に臣従させ、カスティーリャの威信を取り戻していった。

斎藤素巌(1889~1974)

農業  

レオシュ・ヤナーチェク(1854~1928)

利口な女狐の物語~第1幕~ 森番が銃を持って登場し、疲れたと言って休憩する。彼の血を吸った蚊をカエルが捕まえようとする。子供のビストロウシュカが登場、カエルを見て驚く。カエルも驚いて跳ねて森番の鼻の上に落ちる。森番が目を覚まし子狐を見つけて捕まえると、子供たちの持つ家へ連れて行く。

山田宗有(1866~1957)

トルコとの関わり 1892年4月、寅次郎は義捐金を携えてオスマン帝国の首都イスタンブールに到着し、早速オスマン帝国外相を訪ねて義捐金を届けた。これにより彼が遠い日本から民間人でありながら義捐金を持って自らやって来たことが知れわたると、彼はイスタンブールの官民から熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。この時に彼が皇帝に献上した生家の中村家伝来の甲冑や大刀は、現在もトプカプ宮殿博物館に保存、展示されている。

アブサロン(1128~1201)

司教時代 1158年、ヴァルデマー1世は自らが王位に就いた同年アブサロンをロスキレ司教に任命した。以降アブサロンはヴァルデマー1世の第一顧問となり、以後ヴァルデマー1世、クヌーズ6世、ヴァルデマー2世の3代に渡るデンマークによるバルト海支配の方針の発案者となった。アブサロンは、後にポメラニアと呼ばれるバルト海沿岸部に拠点を持ち北海に出没するヴェンド人の海賊の掃討を目論み、しばらくこれに注力した。ヴァルデマーの継承時には3分の1に減ってしまっていたデンマークの海岸を海賊は要領よく荒らしていた。

大橋巨泉(1934~2016)

テレビ司会者として 1960年代から1980年代にかけ、『11PM』や、TBS『クイズダービー』、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬や野球、麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送『大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のパーソナリティを務めた。その後は1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのレギュラー番組を全て降板して、メディア業界から「セミリタイア」した。

ハンク・アーロン(1934~2021)

ブレーブス時代 エド・スコットの仲介でニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズに入団して、最初は遊撃手として力をつけ、ルーキー・イヤーの1952年に早速ボストン・ブレーブスのスカウトの目にとまり、契約を結ぶ。1年目は傘下のオークレア・ベアーズで活躍し、ノーザンリーグ新人王を獲得。この時期に少年時代からのスタイルであったバットのクロスハンドを改善する。

帖佐美行(1915~2002)

春の野  

ウィリー・ポスト(1898~1935)

最後の飛行 1935年、ポストはアメリカ西海岸からロシアへ至る空路開拓に興味を抱いていた。資金不足から、彼は2機の飛行機から部品を寄せ集めて飛行機を作った。エクスプローラーの羽根はオリオンよりも1.8mほど長かったので、その点は有利だった。ただし、エクスプローラーの主翼は、着陸用車輪を引き込めることができず。この設計は水上機向きであったのでアラスカやシベリアの湖に着水する目的にも合致していた。ロッキードは彼の要求をきっぱりと断った。何故ならこの2つの機体の特性を両立させることは無理で危険だと考えたからである。しかし彼の考えを変えることは出来なかった。彼の友人の、コラムニストとして有名なウィル・ロジャースはしばしば、カリフォルニアの空港の、飛行機の Pacific Airmotive 社に彼を訪ねて、アラスカを飛んで、新聞コラムのネタを提供するように依頼した。ポストは、発注していた飛行機用のフロートが届かなかったので、別のより大きな飛行機用に作られたフロートを組み付けた。この年の7月にテスト飛行を実施し、8月初旬には、ポストとロジャースは飛行を開始し、シアトルを離れ、アラスカに何ヶ所か着陸した。ポストが飛行機を操縦し、ロジャースがタイプライターでコラムを書いた。そしてアラスカのフェアバンクスを離れる前に、サウスコースト・コリント・ヨットクラブのペナントにサインを書いて郵送した。この署名入り三角旗は、カリフォルニア州マリーナ・デル・レイのサウスコースト・コリント・ヨットクラブに展示されている。8月15日、フェアバンクスからポイント・バローへ向けての飛行であとほんの数kmで悪天候から飛んでいる位置が分からなくなり、方向を聞くために湖に着水した。離陸のときに低高度でエンジンが止まり、低速度では機首の重い機体を操縦できなくなって湖に突っ込み、右翼が折れて、機体は浅い湖で裏返しとなった。二人とも即死だった。

海老原喜之助(1904~1970)

ポアソニエール

アンリ・コアンダ(1886~1972)

コアンダ=1910 コアンダ=1910はルーマニアの発明家アンリ・コアンダが製作したサーモ・ジェット・エンジンにより飛行する航空機である。実際に製造されたジェット機としては世界初のものであったが、地上テスト中に機体が失われたため飛行することはできなかった。

村橋久成(1842~1892)

戊辰戦争従軍~箱館戦争~ 1869年3月、黒田清隆らとともに軍艦春日に乗り東京を出発、青森に向かう。途中、宮古湾海戦で旧幕府軍の攻撃を受ける。青森到着後、旧幕軍征討青森口鎮撫総督府軍監となる。4月16日、征討軍の第三陣として江差に上陸。二股口に向かい、土方歳三率いる旧幕府軍と戦う。新政府軍が5月11日に箱館を制圧した後、5月12日に、参謀・黒田清隆の命を受け、会津遊撃隊・諏訪常吉の見舞と称して部下の池田次郎兵衛とともに箱館病院を訪ねる。そして病院長高松凌雲を通じて、五稜郭の榎本武揚と降伏交渉を行う。5月18日に旧幕府軍が降伏して戊辰戦争が終結した後、軍監を免ぜられ、鹿児島に帰郷。戦功により400両の恩賞を受ける。

トミー・ウンゲラー(1931~2019)

すてきな三にんぐみ 宝集めに夢中だった、黒マントに黒帽子の3人組の大盗賊。ひょんなことから孤児たちを集め、すてきなお城をプレゼントしました。

岩垂邦彦(1857~1941)

日本電気 1899年7月17日設立。岩垂邦彦と米国ウェスタン・エレクトリックが54%を出資する日米合弁会社であった。W.E.社は当初沖電機工場を合弁先に交渉したが、沖電機工場の沖牙太郎との間で条件がまとまらず成立しなかった。このため、W.E.社の代理人として交渉に当たっていた岩垂が自ら会社を興して提携相手となった。これは日本最初の合弁企業の事例とされる。なお、1992年まで使用されていたNECのロゴタイプはW.E.社のロゴに由来している。1918年W.E.社は海外投資部門を分離し、インターナショナル・ウェスタン・エレクトリックを設立。1925年にI.W.E社は買収され、インターナショナル・スタンダード・エレクトニクス・コーポレーションと改称。

ジョン・リード(1887~1920)

世界を揺るがした10日間 『世界を揺るがした10日間』は、1917年のロシア十月革命についてアメリカ合衆国のジャーナリストで社会主義者のジョン・リードが執筆したルポルタージュ作品。リードは十月革命を直接経験した。リードはロシアにいる間に多くの著名なボリシェヴィキの指導者を取材した。ジョン・リードはこの本を出版してすぐの1920年に死去し、社会主義革命の英雄としてモスクワのクレムリンの壁に埋葬されている。

穴沢利夫(1922~1945)

5度目の出撃 利夫は、何度も出撃を行っていたものの、何度も生き帰ってきた。4月12日が最後の出撃であった。智恵子から貰ったマフラーを首に巻いて、利夫は出撃した。利夫は、知覧町立高等女学校の女学生達に見送られながら知覧特攻基地を出撃した。それを追いかけていた智恵子は、都城盆地の兵士達に聞くと、「その部隊は出撃した。」と言われ、泣きながら南の海へ手を合わせ、東京へ帰って行った。その日、穴沢利夫は帰らぬ人となった。

ジョン・フレデリック・ケンセット(1816~1872)

ナイアガラの滝

森村桂(1940~2004)

天国にいちばん近い島 桂木万里は、急死した父・次郎の葬儀を終え、車の中で父が話していた「天国にいちばん近い島」のことを思い出していた。万里は元来、無口でおとなしい性格の女の子だった。父・次郎が時折話すニューカレドニアのことが唯一、万里の心をときめかせていた。万里は葬儀の後、母・光子にニューカレドニアに行きたいと話す。光子は無口でおとなしい性格の万里が初めて自分で何かをしようとしていることを認める。

トーマス・セイヴァリ(1650~1715)

"火の機関"の発明 1698年にハンプトン・コート宮殿で、国王ウィリアム3世を前に実演し、その成果もあって、同1698年7月25日にその特許が認められた。また、翌年にはそれを王立協会で実演して好評を得た。1702年にその解説書『鉱夫の友;または火で揚水する機械』を出版し、約束していた国王へも献本された。セイヴァリは、その中で機関の構造や操作方法をこと細かく説明した後、応用できる用途として次を列挙している。