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5月, 2022の投稿を表示しています

菊田一夫(1908~1973)

ジャワの踊り子~第一幕~ 第二次世界大戦終戦後のオランダ領インドネシア。傀儡王朝の王宮では王を慰めるため、華やかに歌と踊りが繰り広げられている。花形の踊り子はアリ・アディナン。踊りのパートナーで恋人のアルヴィアと共に王妃のお気に入りの踊り子だった。その一方でアディナンは、独立運動のリーダー:通称マタハリだった。

ターニャ・サヴィチェワ(1930~1944)

ターニャの日記 ニーナがいなくなってから数日後、母のマリーヤはターニャに姉の物だった小さな手帳を与えた。後にそれは『ターニャの日記』として知られるようになる。ターニャは厚手のノートに彼女の人生で重要なことを全て記録した、ちゃんとした日記を付けていたが、冬にストーブにくべる物がなくなってそのノートを燃やしてしまい、姉の手帳をその代わりにしたのである。

柳生博(1937~2022)

八ヶ岳倶楽部 1989年、大泉村西井出・西沢の森に、パブリックスペースとして、ギャラリー・レストラン「八ヶ岳倶楽部」を開設した。八ヶ岳倶楽部では、陶芸家を初めとしたアーティストの作品の展示販売が常時行われている。

エンリケ・グラナドス(1867~1916)

12のスペイン舞曲 『12のスペイン舞曲』または『スペイン舞曲集』作品37は、エンリケ・グラナドスが1892年から1900年にかけて作曲したピアノ曲集である。

小畑実(1923~1979)

星影の小径 静かに静かに手をとり手をとりあなたの囁きはアカシヤの香りよアイラブユーアイラブユーいつまでもいつまでも夢うつつさまよいましょう星影の小径よ静かに静かにじっとしてじっとして私は散ってゆくアカシヤの花なのアイラブユーアイラブユーいつまでもいつまでも抱かれてたたづみましょう星影の小径よ

ヴァンゲリス(1943~2022)

ブレードランナー 便宜上では同名の映画のサウンドトラックに分類されている。ただし、劇中で使用された楽曲がマスター音源の状態で収録されているのではなく、編曲やフェードイン・アウトが施され、再構成されたアルバムになっている。

山崎豊子(1924~2013)

大地の子 長野県戸倉町から満州に入植した満蒙開拓団、信濃郷に属する松本家の長男松本勝男は、祖父、母、妹2人とともにソ連国境に近い、現在の黒竜江省の開拓地で平穏な暮らしを送っていた。しかし、1945年8月9日のソ連対日参戦により避難を余儀なくされた一家は、苛酷な避難行やソ連軍の虐殺によって祖父と母、末妹を失う。なお、父親はこの時陸軍に召集されており、勝男のいる満州にはいなかった。

テックス・アヴェリー(1908~1980)

MGM時代 アヴェリーのMGM時代におけるもっとも有名なキャラクター、ドルーピーは1943年の『Dumbhounded』で登場した。当時「ハッピー・ハウンド」と呼ばれていたこの犬は、アヴェリーの登場キャラクターには少ない、物静かでしゃべり方も歩き方ものっそりしたとしたキャラクターだった。またアヴェリーは同時にきわどいキャラクターも作り出している。1943年の『Red Hot Riding Hood』には、赤ずきんの代わりにピンナップガールのようにセクシーなナイトクラブの女性が登場し、当時の少年たちの心にインパクトを残した。その他、凶暴な「人の悪いリス」、『二十日鼠と人間』にインスパイアされた「デカ吉チビ助」の二人組などのキャラクターが生まれている。

川崎千春(1903~1991)

オリエンタルランド初代社長として~手賀沼ディズニーランド~ オリエンタルランドの初代社長として、東京ディズニーランドのきっかけを作った人物としても知られる。1958年1月、谷津遊園の拡張で新設するバラ園の為にバラを買い付ける目的でアメリカ合衆国へ渡った際、開業間もないディズニーランドを目にする。そこで強い感銘を受けた川崎は、ディズニーランドを日本へ誘致することを考え、千葉県我孫子市を中心とした手賀沼地域を候補地として計画したが、合弁会社の経営トラブルや手賀沼の水質悪化が原因で一旦招致を断念した。

ハーマン・ホレリス(1860~1929)

統計データの電気集計 アメリカ合衆国統計局は10年に1度国勢調査を行っていたが、1880年の国勢調査は集計作業が9年もかかっていた。ホレリスは大学卒業後に国勢調査局のジョン・ショウ・ビリングス統計部長に誘われて助手として働いた、そして、この大変な作業を目にしたのである。また、このままでは1890年の国勢調査は10年以内に集計が終わらないことが確実だった。

倉若晴生(1912~1982)

かえり船 波の背の背にゆられてゆられて月の潮路のかえり船かすむ故国よ小島の沖じゃ夢もわびしくよみがえる捨てた未練が未練となって今も昔の切なさよまぶた合わせりゃまぶたににじむ霧の波止場のドラの音熱い涙も故国につけばうれし涙と変るだろかもめ行くなら男の心せめてあの娘に伝えてよ

洪亮吉(1746~1809)

人口論 洪亮吉は『治平篇』という著作の中で中国の人口増加について述べている。清朝は人口が急激かつ大量に増加した時代で、1651年から1661年の間では1億ほどだった人口が、1785年から1791年の間では3億に達している。洪亮吉は田地の増加に追いつかないことを述べ、「田地は常に不足し、戸数は常に余っている」と述べている。人口問題に関心がなかった当時、この問題の重大性に気づいた彼の慧眼がうかがえよう。洪亮吉の人口論は、偶然にもトマス・ロバート・マルサスのそれと内容が符合していたが、彼の『治平篇』は1793年に完成しており、マルサスの『人口論』の完成の5年前のことであった。

中島歌子(1845~1903)

樋口一葉との関係 樋口家では1889年7月12日に則義が死去し、経済的苦境から1890年5月には萩の舎の内弟子として、翌年3月まで中島家に住みこみ、助教を務めている。一葉は萩の舎を去った後に本格的な小説執筆を開始するが、1896年11月23日に死去する。

顧憲成(1550~1612)

東林派 明の万暦帝の治世の後半、17世紀にはいると、宮廷の中で宦官の力が大きくなったことに対し、官僚の中に反宦官派が形成された。この反宦官派の中心人物顧憲成は、故郷の江蘇省無錫で東林書院を再興し、朱子学を講じながら政治批判を展開し、多くの同調者を集めた。そのため、反宦官派のことを東林派という。

真田幸専(1770~1828)

藩政改革 同年11月15日、将軍・徳川家斉に御目見し、同年12月28日に従五位下豊後守に叙任した。1792年に松代に入った。1798年8月21日、養父の隠居により家督を継いだ。この頃、松代藩では財政が極度に悪化していたため、幸専も財政再建を主とした藩政改革を余儀なくされた。しかし幕府から江戸隅田川の工事などを命じられ、さらに財政が逼迫した。

ヘルマン・アマンドゥス・シュヴァルツ(1843~1921)

研究~ピカール=リンデレーフの定理~ シュヴァルツは、リーマンの写像定理の証明を改良し、コーシー=シュワルツの不等式の特殊な場合を開発した。また、球の表面積が同じ体積の他の物体よりも小さいことを証明し、これによりエミール・ピカールは微分方程式の解が存在することを示した。

ルイス・ベーマー(1843~1896)

北海道へ植物相調査旅行 1874年5月19日ルイス・ベーマーはケプロンの指示をうけ、北海道に向け蒸気船ニューヨーク号で出帆し、21日に函館に上陸した。その後10月19日蒸気船雷電丸で離道するまでの5ヶ月間全道各地を精力的に廻り植物相の調査や標本の採集を行ったが、途中沙流郡のアイヌ集落周辺でホップが自生しているのを発見し北海道におけるホップ栽培が有望であると判断したことが、後の札幌に於けるビール工場開設に寄与した。札幌官園に立ち寄ったベーマーは、翌1875年から始まる果樹苗の一斉配布に供えて現術生徒等に接ぎ木の方法や栽培の要点を細かく指導した。

テオフィロ・ブラガ(1843~1924)

政治経歴 1878年、連邦主義と共和主義を掲げて代議士に立候補。ポルトガル共和党のいくつもの地位を占めた。1910年1月1日、党幹部会の事実上のメンバーとなる。他のメンバーにはバシリオ・テレス、エウセビオ・レアン、ジョゼ・クペルティノ・リベイロ、ジョゼ・レルヴァスらがいた。

池田治政(1750~1819)

閑谷学校 藩主としては有能にして剛毅果断で、老中となった松平定信が寛政の改革で倹約令を出したときにもこれに従わず、放漫財政を展開したという。文人としても優秀で、絵画や俳諧に様々な作品を残している。また、この関係からこの頃には衰退していた閑谷学校を再興している。

アウグスト・ケクレ(1829~1896)

ケクレの夢 ケクレは、彼が提案した2つの構造理論、炭素が互いに結合して鎖状化合物を作ること、ベンゼンが環状構造を持つことについて、夢からインスピレーションを得たと主張している。この夢は、1890年にベンゼンのケクレ構造提案25周年を記念して行なわれたベンゼン祭での記念講演の内容を、翌年ケクレ自身が書き起こした講演記録に記述が残されている。それによれば、まずケクレは1854年にロンドン滞在中に馬車の中で、大きな原子が小さな原子を引き連れて飛び回り、大きな原子同士がそのまま連なっていく夢を見て、炭素が互いに結合して鎖状化合物を作ることを思いついたという。

真田幸教(1836~1869)

将軍徳川家茂の上洛 1863年、将軍徳川家茂の上洛に際し松代藩が将軍留守中の横浜港警備を命じられると、藩内では病弱な幸教の隠居が議論されるようになる。そこではじめ下野佐野藩主堀田正衡の七男・智七郎を仮養子として届け出、そののち養子候補として日向高鍋藩主秋月種任の三男・政太郎と肥後熊本藩主細川斉護の三男・澄之助の名が上がるが、結局伊予宇和島藩主伊達宗城の長男・幸民が養嗣子に迎えられた。

ウィリアム・テイラー・バリー(1784~1835)

政治活動 バリーは法律を学び、1805年に弁護士の認可を受けるとケンタッキー州レキシントンで弁護士業を開業した。その後、ケンタッキー州検察官を務めた。1807年にケンタッキー州下院議員として選出され、1809年にも再選された。その後、ケンタッキー州選出の合衆国下院議員ベンジャミン・ハワードが辞任したことに伴い、バリーが後任として民主共和党から指名された。そして1810年8月8日から任期末の1811年3月3日まで合衆国下院議員を務めた。

本田善光(生没年不詳)

略縁起 552年、百済の聖王が献上した天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が、疫病流行のために物部氏によって難波の堀江に捨てられた。600年、上洛していた本田善光がそこを通りかかるとその阿弥陀如来像が水中から出現して背に乗った。信濃に戻り家に安置し、その後阿弥陀如来の霊告で、信濃水内郡芋井郷に移座し、如来堂を建立して祀ったという。

アンドリュー・アーヴィン(1902~1924)

エベレストへの挑戦 1923年、アーヴィンは、オックスフォード大学のスピッツベルゲン遠征隊に選出されたが、アーヴィンはあらゆる局面で優れた能力を見せた。この時、アーヴィンと遠征隊のリーダー、ノエル・オデールはフォエルグラッチェの上で出会ったことがあったことをお互いに思い出している。その後、オデールがイギリスによる第3次エベレスト遠征隊に選ばれると、アーヴィンの高い能力を認めたオデールは、遠征に彼が必要だと考えて推薦、アーヴィンは遠征隊の一員となった。この時、アーヴィンはまだ21歳の学生であった。

池田不二男(1905~1943)

花言葉の唄 可愛い蕾よきれいな夢よ乙女心によく似た花よ咲けよ咲け咲け朝露夜露咲いたら上げましょあの人に風に笑うて小雨に泣いて何を夢みる朝花夜花色は七色想いは十色咲いたら上げましょあの人に白い花なら別れの涙紅い花なら嬉しい心青い花なら悲しい心咲いたら上げましょあの人に

フェルナン・レジェ(1881~1955)

トランプ遊び

清水みのる(1903~1979)

森の水車 緑の森の彼方から陽気な歌が聞こえますあれは水車のまわる音耳をすましてお聞きなさいコトコトコットンコトコトコットンファミレドシドレミファコトコトコットンコトコトコットン仕事にはげみましょうコトコトコットンコトコトコットンいつの日か楽しい春がやって来る雨の降る日も風の夜も森の水車は休みなく粉挽臼の拍子とり愉快に歌を続けますコトコトコットンコトコトコットンファミレドシドレミファコトコトコットンコトコトコットン仕事にはげみましょうコトコトコットンコトコトコットンいつの日か楽しい春がやって来るもしもあなたが怠けたり遊んでいたくなったとき森の水車の歌声をひとり静かにお聞きなさいコトコトコットンコトコトコットンファミレドシドレミファコトコトコットンコトコトコットン仕事にはげみましょうコトコトコットンコトコトコットンいつの日か楽しい春がやって来る

ルイス・メレンデス(1716~1780)

  メロンと洋ナシのある静物  

鳥居清長(1752~1815)

  女湯図  

マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ(1758~1836)

未亡人としての生活 1795年3月、世論の動きもあって、政府は徴税請負人の財産は返却するとの決定を下した。訴求官のデュパンは、自分が今までに徴税請負人に対して為したことへの責任を取らされると感じ、自己弁護のためのパンフレットを出した。マリー・アンヌはこれに対抗し、1795年7月に、デュパンを告発する文書をしたためて出版した。最終的にデュパンは逮捕された。デュパンの逮捕後、マリー・アンヌはアントワーヌの持ち物である本、家具、実験装置などの返還を求め、1796年にこれらの動産を取り戻すことができた。

勝川春章(1726~1793)

  雪月花図

フランソワ・マリウス・グラネ(1777~1849)

  Pumpkin harvesting at Malvalata

柳川重信(1787~1833)

  湯上がり美人図

ムィコーラ・プィモネーンコ(1862~1912)

ウクライナでの刈入れ  

恩田民親(1717~1762)

恩田木工~文学館~ 藩政自体は概ね原八郎五郎の政策を踏襲し、多少の手直しを加えたにとどまったが、質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。年貢の前納や御用金賦課を廃止し、貢租の怠納を清算し、新たに年貢上納を容易にする月割上納制を導入した。さらに山野や荒地の新規開墾や殖産興業に力を入れた。また、1758年に藩校「文学館」を開き、文武の鍛錬を奨励した。逼迫した藩財政自体は改善しなかったが、民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。

ペーター・グスタフ・ディリクレ(1805~1859)

算術級数定理 算術級数定理は、初項と公差が互いに素である算術級数には無限に素数が存在する、という定理である。ペーター・グスタフ・ディリクレが1837年にディリクレのL関数を用いて初めて証明した。そのため、定理はしばしばディリクレの算術級数定理と呼ばれる。

真田幸貫(1791~1852)

善光寺地震 1847年3月24日には善光寺地震が発生し、松代藩領内でも大きな被害が生じた。幸貫が御用番牧野忠雅に宛てた報告書や、月番家老河原綱徳の手記『むしくら日記』は被害状況を知る上で貴重な記録となっている。江戸在府中には、府内をお忍びで歩くことを好んだという。真田家への養子入りの話が出た折には浪人姿になって松代藩の隅々を見聞して回ったともいうが、こちらは伝説の域を出ない。

ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイ(1570~1622)

ロシアへ出兵 1618年にサハイダーチヌイが指揮する2万人のウクライナ・コサック軍は、窮地に陥ったポーランド・リトアニア共和国の王子ヴワディスワフ4世を救うため、ロシア・ポーランド戦争に介入した。ロシア軍は、コサックが西方のスモレンスクを通ってモスクワへ向かうと予測し、スモレンスク周辺に軍勢を集中させたが、サハイダーチヌイはロシア軍の裏をかいて南方のプティーウリから攻め入り、モスクワへ出兵した。

真田幸弘(1740~1815)

木工の改革 木工の改革は、他藩のような商業的な改革ではなく、領民の人心を得ることで解決する改革であった。これは財政改革に当たらないとする見解もあるが、松代藩は木工の政策により財政を多少持ち直し、また当時の封建社会において百姓領民から直接話を聞くという率直な態度をとった木工の改革は、後世からは高く評価されている。

シュジャー・ウッダウラ(1732~1775)

ブクサールの戦いとアラーハーバード条約の締結 1763年末、イギリス東インド会社と対立しベンガルを追われアワドに逃げてきた、前ベンガル太守のミール・カーシムも保護し、もとの状態に戻れるよう援助を約束し、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成された。

蔦屋重三郎(1750~1797)

江戸時代の版元 1780年に売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙を出版したのを手始めに本格的に出版業を拡大。かねてから付き合いのあった狂歌師たちや絵師たちを集め、それまでにない斬新な企画を統括し、洒落本や狂歌本などでヒット作を次々に刊行した。1783年には丸屋小兵衛の株を買い取り一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出、洒落本、黄表紙、狂歌本、絵本、錦絵を出版するようになる。浮世絵では喜多川歌麿の名作を世に送ったほか、栄松斎長喜、東洲斎写楽などを育てている。また、鳥居清長、渓斎英泉、歌川広重らの錦絵を出版している。

アルフォンソ4世(1299~1336)

慈悲王 兄のハイメが王位継承権を放棄して修道士となったため、アルフォンソは次男でありながら王太子に立てられた。またアルフォンソ3世はウルジェイ伯領の相続人であるテレサ・デ・エンテンサと結婚し、ウルジェイをアラゴン王国の領土に加えた。彼女との間には王位を嗣いだペドロ4世やマヨルカ王ハイメ3世妃となったコンスタンサをもうけた。

朝倉宗滴(1477~1555)

永正三年の一向一揆 同年7月、加賀国・越中・能登の一向宗門徒が越前で起こった一向一揆に加勢するため越前甲斐氏の牢人衆らと合流し越前へと侵攻を開始した。これを迎え討つため宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙した。これが永正3年の一向一揆である。この時一向宗勢力は30万を上回る勢力となっていたと言われ、対する朝倉軍は1万1000ほどであった。九頭竜川流域各地で、激戦が繰り広げられた。8月6日の中ノ郷の戦いを期に、一向宗側が総崩れとなり朝倉軍は勝利を収めた。