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チャールズ・ブランドン(1484~1545)

サフォーク公爵 1505年、ブランドンはカレー総督サー・アンソニー・ブラウンの娘アン・ブラウンと婚約した。ブランドンとアンは教会法に則った正規の婚姻手続きを踏まずに、両人の合意による事実婚を選んだ。1506年に2人の間には長女が生まれた。ところが同年、ブランドンはアンの伯母で裕福な未亡人であるマーガレット・ネヴィルと結婚する。マーガレットはモンターギュ侯ジョン・ネヴィルの娘で、「キングメーカー」と呼ばれたウォリック伯リチャード・ネヴィルの姪である。ブラウン家はこの結婚を容認したものの、翌1507年にはブランドンはマーガレットとの結婚を解消し、1508年に正式にアン・ブラウンと再婚した。1510年に次女が産まれるが、その翌年にアンは没する。

トマス・ペラム=ホリス(1693~1768)

第二次ニューカッスル公爵内閣 デヴォンシャー公の後継をめぐってはニューカッスル公とフォックスの間で争いがあったが、ニューカッスル公は更迭された大ピットと手を組むことで庶民院における基盤を確立し、フォックスとの競争に競り勝った。1757年6月末に組閣の大命を受け、第二次ニューカッスル公爵内閣が成立する運びとなった。同内閣においてニューカッスル公は、国王や議会から安定した支持を確保することで軍事費を調達する役割を担い、七年戦争の戦争指導は大ピットが担っていた。

ジョン・カートレット(1690~1763)

ウォルポール内閣で 1721年3月にロバート・ウォルポール政権の南部担当国務大臣に就任すると共に枢密顧問官となる。ウォルポール政権下では外交を担当、ジョージ1世の信任も厚く、1723年夏には国王に随伴して大陸に渡っている。しかしその国王からの信任ぶりと、サンダーランド派として反ウォルポール的だったことから、ウォルポールから危険視された。そのため1724年春には外交上の失態を理由にしてアイルランド総督に左遷された。

チャールズ・タウンゼンド(1674~1738)

ハノーヴァー朝初期 しかし1715年のジャコバイト反乱の鎮圧後に政府は外交方針をめぐって分裂し始めた。ジェームズ・スタンホープと第3代サンダーランド伯チャールズ・スペンサーは大北方戦争でハノーファーを重視するジョージ1世の方針に従ってスウェーデンへの対抗、フランスとの連携を志向し、1715年10月にもスウェーデンに宣戦布告した。一方タウンゼンドやウォルポールはこれを「イギリスよりハノーヴァーの利益を優先させる政策」として反対した。

フリードリヒ・アウグスト1世(1750~1829)

ワルシャワ公国~建国~ 新たに建国された国家は、形式上は独立公国で、フランスと同盟を結び、ザクセン王国との同君連合の下に置かれた。ナポレオンに従い、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世はその新しい領国を下院議会をともなった立憲君主国とした。しかし、公国が真の独立国として発展することは許されなかった。フランスは公国を資源の産出源として扱い、フランスの国益に従ってフリードリヒ・アウグスト1世が公国を統治した。そのため、公国の事実上の最重要人物は、首都ワルシャワに拠点を置くフランス大使であった。さらに、公国としては海外で外交する手段を持っていなかった。

モーシェ・ダヤン(1915~1981)

政治家として 第二次中東戦争後の1959年にイスラエル労働党から国会議員になり、農業大臣に就任した。1967年、第三次中東戦争の直前に国防相に任命され、1973年の第四次中東戦争でも再び国防相として戦争指導にあたるも、作戦の準備不足などの不手際を批判され、1974年5月に辞任。その後労働党を離れて、メナヘム・ベギン政権の外相を務めたが、意見対立により1979年に辞任した。

フラ・アンジェリコ(1390~1455)

受胎告知

フアン2世(1397~1479)

父子の対立と内乱 アラゴン連合王国の一部だったカスティーリャの都市バルセロナでは貴族層と大商人、中小商人と職人層の対立があり、市会はそれぞれビガ・ブスカと呼ばれる派閥で混乱していた。フアン2世は当初ビガに肩入れしていたが、後からブスカを贔屓し彼らのバルセロナ市会独占、およびブスカが掲げる国内産業の保護政策を後押しした。しかし、経済立て直しに失敗したブスカが1462年に市政を放棄すると、それは王権への打撃と反発したビガのジャナラリター・デ・カタルーニャ結集を引き起こし、ジャナラリターが王権に反旗を翻す伏線になった。

アフォンソ3世(1210~1279)

即位後 1252年にカスティーリャ王に即位したアルフォンソ10世とアルガルヴェの支配権を巡って争い、翌1253年にインノケンティウス4世の仲裁によって一時的にアルガルヴェの統治権をカスティーリャに譲渡することを呑んで講和した。1263年にポルトガル・カスティーリャ間で結ばれた協定によってアルガルヴェの支配権は2歳のアフォンソ3世の王子ディニス1世に与えられ、1267年までにポルトガルはアルガルヴェの領有権を確保することができた。アフォンソ3世の死後に結ばれた1297年のアルカニセス条約によって、ポルトガルとカスティーリャの国境が確定する。

フェリクス5世(1383~1451)

バーゼル公会議 1431年にスイスでバーゼル公会議が開催されると、教皇エウゲニウス4世に批判的な公会議主義者が教皇支持派と対立して論争を引き起こした。1437年、教皇側が公会議を正教会と合同開催するため、イタリアへの公会議の移転を発表するに至って遂に公会議は分裂し、教皇に従ってフィレンツェ・フェラーラ公会議に移動する者と、バーゼル公会議に残留する者とに分かれた。

ファイサル1世(1883~1933)

フサイン=マクマホン協定~アラブの反乱~ この協定にもとづいて、1916年にフサインはいわゆる「アラブの反乱」を開始し、ヒジャーズ王国の設立を宣言、1918年にフサインの子ファイサル1世がダマスクスを占領し、独立を達成した。このアラブの反乱を指導したイギリス人が「アラビアのロレンス」として有名なトーマス・エドワード・ロレンスであった。

サンシュ2世(1207~1248)

忠誠を尽くした領主 コインブラ城主マルティン・デ・フレイタスは、新王アフォンソ3世が前王を追い出す形で即位したことを好まず、自分の城に立てこもった。アフォンソ3世は、忠誠を誓わないマルティンのコインブラを包囲した。サンシュ2世が死去するまで1年4ヶ月、マルティンは方位を耐えた。前王の死去の知らせを聞くと、マルティンはアフォンソ3世の許可を得てトレドへ向かった。サンシュ2世の棺を開けてもらい、コインブラの城の鍵を遺骸の手に握らせた後、あらためて鍵を受け取った。帰国してマルティンは、アフォンソ3世に鍵を手渡した。サンシュ2世の手から鍵を渡すという、正規の手続きを踏むことにこだわった彼の行為に感動した王は、マルティンをそのままコインブラ城主にとどめようとしたが、彼は固辞して受けなかった。

ロバート・デヴァルー(1566~1601)

カディス襲撃の成功で英雄に エセックス伯と初代ノッティンガム伯チャールズ・ハワードを指揮官とする遠征軍は、1596年6月にプリマス港から出撃し、カディスを襲撃した。この戦いでエセックス伯は陸上での戦闘を指揮し、イングランド軍を大勝に導いた。またこの戦いでエセックス伯は女子供に手をかけることや教会に火を放つことを禁じて騎士道精神を示したことも話題になった。

織田秀信(1580~1605)

関ヶ原の戦い この間に石田三成から「戦勝のあかつきには美濃・尾張の2ヶ月を宛行う」との条件で勧誘されて西軍に加勢した。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」に美濃口の将の一人として名が記されている。秀信が西軍についたことによって美濃の諸勢の大半はこれに従った。この間、木造左衛門・津田藤三郎・上方弥兵衛門・上方藤蔵ら一向門徒である家臣の懇願を受けて三成に強談判し、本願寺教如の帰洛を助けたという強気な言い伝えも残っている。

花山天皇(968~1008)

拾遺和歌集 『拾遺和歌集』は、古今・後撰に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」の最後にあたる。一条天皇の代、1006年頃の成立か?古来、花山院の親撰もしくは院が藤原長能・源道済に撰進させたといわれてきたが、確証はない。先行する二つの勅撰集と違い、和歌所が置かれなかった。藤原公任の撰という『拾遺抄』との命名の相似性を考え、それをベースに編まれたと思われる。

鳥居耀蔵(1796~1873)

天保の改革 1841年、南町奉行矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。矢部家は改易、定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。天保の改革における耀蔵の市中取締りは非常に厳しく、おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていたため、当時の人々からは”蝮の耀蔵”、あるいはその名をもじって”妖怪”とあだ名され、忌み嫌われた。また、この時期に北町奉行だった遠山景元が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた。1843年に勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。

浜田彦蔵(1837~1897)

日米修好通商条約 そして1858年、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り日本への望郷の念が強まった彦蔵はキリシタンとなった今ではそのまま帰国することはできなかったので、帰鹿してアメリカ国民となった。その翌年の1859年に駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳として採用され、6月18日に長崎・神奈川へ入港し9年ぶりの帰国を果たした。

藤田嗣治(1886~1968)

パリ風景

市川団十郎(1791~1859)

勧進帳 源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関での物語。義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。辿り着いた関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言う。しかし、関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いており、山伏は通行罷りならぬと厳命する。これに憤慨した弁慶は仲間と富樫調伏の呪文を唱え、疑いを晴らそうとする。

後藤祐乗(1440~1512)

獅子牡丹造小さ刀拵

東常縁(1401~1484)

東野州聞書 室町時代の歌論書。東常縁著。成立を示す奥書などはないが、記事に付された年月日から、1456年ころ成立したと推定される。東常縁が、尭孝をはじめとする師友より聞き伝えたことを記録した聞書。内容は、語句の説明や歌人の伝記といった歌の解釈に必要な秘伝のほか、懐紙や短冊の書き方などの故実も多く、当時の歌学を伝える資料として重要である。

三条西実隆(1455~1537)

実隆公記~日記の内容~ 実隆公記の書かれた時期は室町時代の後期あるいは戦国時代の前期にあたる時代であるが、戦乱の動向よりも歌会や古典の書写に関する記述が多くを割かれている。また当時の朝廷や幕府は政治の実態から離れた有閑無為の生活を余儀なくされており、和歌や連歌の会に参加したり、囲碁・将棋・雙六などの賭け事に没頭したりする記述が多く見られる。

頓阿(1289~1372)

井蛙抄~巻三制の詞の事~ 歌語として使うべきでないといましめられた語。「あるひは優美ならざるにより、あるひは義理のたがひたるより、あるひは詞のあしきにはあらねども、時俗のきほひよむによりてとどめられたるあり」。

藤原俊成(1114~1204)

古来風体抄 初撰本は後白河院の皇女である式子内親王が、公卿で歌人の藤原俊成に依頼して執筆されたものとされる。再撰本も式子内親王の依頼によるものと見られている。なお、初撰本と再撰本との間には初撰本を改稿したと見られる撰本が残されている。

近藤真柄(1903~1983)

近藤真柄の経歴 日本の先駆的社会主義者・堺利彦の娘。18歳にして、日本最初の社会主義女性団体赤瀾会の結成に参加、結成直後のメーデーでデモを敢行し全員検束される。最年少で日本最初の女性参加者としてメディアの注目を集めた。赤瀾会が自然消滅した翌1922年に日本共産党に入党。のち、同党と袂を分かち、奥むめおらと婦人政治運動促進会を組織し婦人戦線の統一を掲げた。戦後は一切の政党に属することなく、日本婦人有権者同盟で会長を務めたほか、幸徳事件の真相解明を求める運動を起こした。高瀬清と結婚したが離婚後アナキストの近藤憲二と再婚。拘引され、尋問されても他人のことはいっさい話したことはなく、また、研究者などが昔の話を聞きに行っても、かつての同志をおとしめる発言はいっさいなかったと言われている。

謝花昇(1865~1908)

沖縄倶楽部 その後、知事に赴任した奈良原繁と杣山問題で対立し、1898年に退職。翌1899年から當山久三らと沖縄倶楽部を結成し、県政批判、土地整理問題、参政権獲得の三点を中心に活動を展開したが、農工銀行の役員選挙で敗れ、挫折した。

吉川広家(1561~1625)

岩国領主 ところが、大坂冬の陣の際に毛利秀元が輝元・秀就らと極秘に内藤元盛を豊臣方に派遣し、この事実を広家や他の重臣には一切秘密にしていた事を知った広家は激怒して1614年12月22日に隠居して嫡男の広正に家督を譲り、福原広俊もこの問題の処理後の1616年に藩の政務から退いた。以後、藩政は秀元と益田元祥・清水景治によって運営される事となる。

池波正太郎(1923~1990)

真田太平記 甲州・信州などに覇を唱えた武田氏傘下の豪族だった真田昌幸。武田家が滅び、真田家は信州の小大名としての道を歩みはじめる。天下統一目前と思われた織田信長の横死後、大大名らの草刈場となった信州で、昌幸と長男の真田信之、次男の真田信繁らは、真田忍びらによる卓越した情報収集と謀略によって激しい戦国乱世を生き抜いていく。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の死後、関が原、大坂冬の陣・夏の陣で親子兄弟が敵味方となるも、江戸幕府の治世下に家名を残すことに成功する。しかし、真田家と真田忍びに煮え湯を飲まされ続けた幕府と甲賀衆は、なおも真田家取り潰しを策謀する。唯一の生き残りとなった信之は真田家の存続を図る。

ピート・グレイ(1915~2002)

「片腕の奇跡」 1942年、グレイはセントルイス・カージナルスとフィラデルフィア・アスレチックスの入団試験を受けたが採用されず、マイナーリーグのC級トロイスリバーズに入団、そこで打率.381の成績を残した。その後にA級メンフィス・チックスがグレイを獲得、グレイは1944年にサザン・アソシエーションで打率.333、盗塁68という成績を残し、この年のリーグの最優秀選手賞を手にする。フィラデルフィアのスポーツ誌はグレイを「片腕の奇跡」と書きたて、最も勇気あるアスリートとして表彰した。しかし片腕ゆえ兵役につけなかったグレイは、当時第二次世界大戦下で多くの兵士が戦線に出ていたこともあり、「私のしたことは勇気ではない。勇気はダイヤモンドではなく、戦場にある」というコメントを残している。

パブロ・カザルス(1876~1973)

「表現する音程」 カザルスの演奏は、シャープ記号の音が半音高く、フラット記号の音がより低い傾向があると指摘されたり、音程が不正確で現代と比べれば技巧的には前時代的などと批判的に指摘する者もいる。しかしカザルスは、音程も表現の手段であり、同じ音階でも上昇するときと下降するときでは異なる音程をとる必要があると語っている。したがって、カザルス自身はそのことを十分承知の上で、表現上あえて音程をずらしていたのである。

イツハク・ラビン(1922~1995)

ラビン首相暗殺 1995年11月4日、テル・アヴィヴの広場で10万人よる平和のためのラリーに参加し終わり、車に乗り込もうとしたところを至近距離から射殺された。犯人は狂信的なユダヤ教徒の青年であった。一部のユダヤ教の指導者の中には、ラビン首相のパレスチナとの和平政策をユダヤ教徒を迫害の危機にさらすものであり、裏切り者であるとして非難していたが、この青年はそれを盲信しユダヤの法にもとづいてラビンを処刑をしたのだという。イスラエルの歴史の中では首相暗殺は最初のことであった。

グリゴリー・ラスプーチン(1869~1916)

第一次世界大戦~反ラスプーチン機運の増大~ 11月、ドゥーマが開会されると、ミリュコーフはアレクサンドラ、ラスプーチン、スチュルメルを「ドイツに味方する勢力の裏切り」と弾劾した。ミリュコーフはスチュルメル内閣の政策をドイツへの利敵行為と訴え、演説の中で「これは愚考なのか?裏切りなのか?」と繰り返し、議場からは「愚考だ!」「裏切りだ!」「両方だ!!」と賛同の声が挙がり、弾劾演説の内容は国内や前線に配布された。また、ウラジーミル・プリシケヴィチも議会でアレクサンドラとラスプーチンを弾劾し、「皇帝の大臣たちは皇后とラスプーチンの傀儡となっている」「ラスプーチンが生きている限り、ロシアは勝利できない」と演説した。

ローレンス・オリファント(1829~1888)

中国および日本滞在 エルギン伯がアロー戦争の遠征軍司令官となると、オリファントは個人的秘書として中国に同行した。途中、日本との通商条約を締結するため、一行は1858年7月30日に上海を4隻の艦隊で出発、8月3日に長崎に到着、8月12日には品川沖に停泊した。8月26日に日英修好通商条約が調印された。およそ1ヶ月前に日米修好通商条約が調印されていたこともあり、交渉は比較的スムーズに進んだが、オリファントはこの際の様子は「エルギン卿遣日使節録」としてまとめ、出版している。なお、幼少期を過ごした南アフリカにはオランダ人が多かったため、オリファントはオランダ語ができた。

モーリツ・ベニョヴスキー(1746~1786)

手紙事件 ベニョヴスキーが奄美大島で発した書簡は神聖ローマ帝国陸軍中佐名義で高地ドイツ語で書かれていた。長崎オランダ商館長ダニエル・アーメナウルトが幕府より解読を依頼されたが、その内容はロシア帝国が松前近辺を占拠するためにクリル諸島に要塞を築いているという内容を含んでいた。ベニョヴスキーをオランダ語読みした「ファン・ベンゴロ」は日本で「はんべんごろう」と呼ばれることになり、幕府は書簡の存在を秘匿したものの、工藤平助・林子平らがロシア関連書籍を刊行して世に警鐘を鳴らすきっかけとなった。

関根正二(1899~1919)

神の祈り

和田三造(1883~1967)

南風

赤松麟作(1878~1953)

夜汽車

土佐光起(1617~1691)

源氏物語図屏風

歌川豊国(1769~1825)

役者舞台之姿絵 はま村や

河津祐邦(1821~1873)

長崎脱出 河津が奉行として着任した1867年当時、長崎の地には海援隊や全国各地からやってきた諸藩の浪人達が横行し、幕府の権威は失墜していた。同年11月6日に大政奉還の報が、同年12月26日には王政復古の大号令が出されたことが長崎の地にも伝わってきた。そして翌1868年1月10日には、鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍の敗戦の報が届いた。

木村芥舟(1830~1901)

渡米 1860年、前年6月に締結された日米修好通商条約の批准のためアメリカに使節を派遣することになった。この時、軍艦奉行・水野忠徳の建議で、米艦ポーハタン号を使用する正使新見正興一行とは別に咸臨丸を派遣することになった。9月10日、軍艦奉行並に任じられていた木村は咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられ、軍艦奉行に任じられる。咸臨丸の司令官に就任するにあたっての航海手当は小栗忠順と同格以上であった。

ロバート・ランシング(1864~1928)

石井・ランシング協定 日本が中国における権益をアメリカに承認される石井菊次郎特使を派遣、ウィルソン大統領のもとでの国務長官ランシングと協議した。ランシングは1899年の門戸開放宣言以来のアメリカの中国政策の原則である。中国の門戸開放・機会均等・領土保全を尊重する共同宣言を提案、結局両者の要求を容認する曖昧な表現で決着した。すなわち、アメリカは日本が中国において特殊な権益を有することを認め、同時に両国は中国の領土保全と門戸開放・機会均等を尊重することを表明した。これによってアメリカはヨーロッパ戦線に全力を傾けることが可能となり、日本は中国での特殊権益をアメリカに認めさせたことで満足が得られるという、日米の帝国主義による中国分割協定であった。