天保の改革
1841年、南町奉行矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。矢部家は改易、定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。天保の改革における耀蔵の市中取締りは非常に厳しく、おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていたため、当時の人々からは”蝮の耀蔵”、あるいはその名をもじって”妖怪”とあだ名され、忌み嫌われた。また、この時期に北町奉行だった遠山景元が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた。1843年に勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。
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