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赤松小三郎(1831~1867)

洋式兵学者としての業績 1855年より勝海舟の門人として長崎海軍伝習所に赴く。長崎で最新式のミエニー銃の性能を知り、新銃が戦闘方法も一変させると考え、関心は海軍から陸軍に移っていった。1857年にはオランダ語の原書から新式のミエニー銃の性能を詳述した『新銃射放論』を、1858年にはオランダ陸軍の銃の使い方の教則である『矢ごろのかね 小銃彀率』を、それぞれ翻訳出版している。当初は勝海舟の従者として活動していたが、途中で勝のもとを離れ、1858年からは第3期伝習生として長崎入りしていた旗本の小笠原鐘次郎に従って騎兵学を学んでいる。

ミハイル・バフチン(1895~1975)

主要概念~対話主義とポリフォニー~ 「ドストエフスキーの詩学」初版において、バフチンは、それまでのドストエフスキー研究を、登場人物の思想や心情と研究者が台頭にたって、実在の人物のように批評・批判するものや、逆に、登場人物の思想や人格を作者の思想や人格の「表現」として分析したものであって、どちらのやり方も、小説のテキストをそれ自体として捉えたものではないとして批判した。

上総広常(不明~1184)

源頼朝挙兵 同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる。

コラン・ド・プランシー(1794~1881)

地獄の辞典 『地獄の辞典』は、1818年、プランシーが20代のときに発表した作品であり、以後何度も版を重ねたプランシーの代表作かつ成功作である。悪魔学・迷信および占い・人物を3本柱として構成されており、辞書形式で多数の項目が記載されている。項目数は、1863年に発行された第6版では3799項目に至っている。

浦辺粂子(1902~1989)

日活へ 同年8月、当時日活の装置部にいた波多野安正から日活京都撮影所の女優採用試験を受けるよう薦められ、同撮影所に入社する。池永浩久撮影所長から「ちどりなんて、波間に漂っている宿無し島で縁起が悪い。静浦の浦を残して浦辺、それに本名のくめは縁起がいいから、子をつけて粂子」と改名を言渡され、芸名を浦辺粂子とした。同年公開の尾上松之助主演『馬子唄』がデビュー作となり、日活旧劇女優とては岩井咲子に続く第2号ということになったが、ついた役は女中や腰元ばかりであった。同年11月、日活向島撮影所が閉鎖され、向島の所属者が京都撮影所に合流して、第二部の名称で現代劇部が設立されると、浦辺も第二部へ移る。

アダム・ダンカン(1731~1804)

軍法会議とジブラルタル包囲戦 この時期、ダンカンは主にダンディーに住み、1777年6月6日に、スコットランド最高裁判所の首席裁判官であるロバート・ダンダスの娘ヘンリエッタと結婚した。おそらくダンカンは、この有力な家族だが、15年間も職務をむなしく探している自分に、何らかの仕事を得させてくれるだろうと考えたと思われる。1778年も押し詰まったころ、ダンカンはサフォークに乗艦し、ほどなくしてモナークに異動した。

石井四郎(1892~1959)

ノモンハン事件 1939年5月11日、ノモンハン事件が勃発すると、関東軍防疫部長として出動。7月8日から10日間、海拉爾・将軍廟方面にて防疫給水部隊を指導。10月1日、ノモンハン事件での防疫給水への貢献が評価され、石井が長を務める関東軍防疫部は、第6軍司令官の荻洲立兵中将から部隊感状感状を授与され、石井の顔写真付きで新聞報道された。