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10月, 2023の投稿を表示しています

平賀譲(1878~1943)

予備役編入後~東京帝国大学総長~ 1939年1月から翌2月にかけて、所謂「平賀粛学」が起こった。東大経済学部において土方成美筆頭の国家主義派と河合栄治郎筆頭の自由主義派の教授の対立が起こり、平賀譲は荒木貞夫文部大臣に喧嘩両成敗で両者の休職を具申した。それに対して、経済学部教授13人が舞出長五郎に辞表を提出し、結果的に13名が追放された。平賀は助教授以下の辞職撤回や教員の補充により1940年までに事態を収束させた。

フレデリック・マリアット(1792~1848)

ピーター・シムプル 『ピーター・シムプル』は、元英国海軍艦長であるフレデリック・マリアットが1833年に発表した海洋冒険小説である。ナポレオン戦争に従軍した著者との実体験をもとに主人公であるシムプル士官候補生の成長をユーモアも交えて描いている。実体験に基づく迫真の描写との賛辞もあり海洋冒険小説の古典とされている。

芝木好子(1914~1991)

面影 「銀河ドラマ」第42作。天才的な職人気質の人形作家と気の勝った芸術家肌の女性との、戦前から戦後にかけての20年にわたる激しい恋を描く恋愛ドラマ。

フランソワ・ロロネー(1630~1667)

カリブ海の海賊 彼と手下たちは、ある町を人質にとって身代金をスペインの統治者に要求した。ハバナの総督はロロネーの一味を撃退するため軍艦を送ったが、ロロネーは逆にその艦を制圧し、1人を除き乗員を皆殺しにした。そして生き残った1人に、伝言をハバナに届けさせた。その伝言で、ロロネーは「今後スペイン人には、いかなる容赦もしない」と宣言した。

早川雪洲(1886~1973)

アメリカ時代:1911年 - 1922年~映画デビュー~ 雪洲が舞台で活動していた頃、アメリカ映画はロサンゼルスのハリウッドが新しい映画製作地となり、多くの映画関係者がそれまでの映画産業の中心地だったニューヨークからハリウッドへ移ってきた。そんなハリウッド草創期に活躍したニューヨーク・モーション・ピクチャー・カンパニーの映画製作者のトーマス・ハーパー・インスは、雪洲を映画界にスカウトした人物とされている。自伝によると、『タイフーン』の公演3日目にインスが観客として見に来ていて、芝居が終わったあとに楽屋を訪ね、「『タイフーン』を映画化しないか」と誘ってきて、映画出演の契約を結んだという。しかし、1914年に雪洲が兄に宛てた手紙によると、1913年10月にNYMPCの社長に認められて、俳優としてではなく、脚本家として月給300ドルで雇われたという。その後、雪洲は俳優としてインスと契約を結んだと考えられている。

パティ・ペイジ(1927~2013)

プロ歌手として 1947年、ペイジは「Confess」という、他の歌手による返答のパートを含む歌を録音した。彼らには別の歌手を起用するだけの予算がなかったため、リールはペイジにこのパートも自身で歌うよう進言した。おそらくは一つのレコードにおいて二つのパートを歌うという目新しさも相俟って、この歌はチャートの20位に入るヒットを記録した。

篠原長房(不明~1573)

織田信長の上洛と野田城・福島城の戦い しかし同年、15代将軍・足利義昭を擁立した織田信長が9月7日に岐阜城を出立、12月に六角義賢の近江観音寺城が陥落、25日に大津まで進軍すると、篠原長房と三人衆の軍は崩壊する。更に29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には長房も越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。その上、10月20日に足利義栄が阿波国で病死、松永久秀と三好義継は信長に臣従、11月10日には長房暗殺未遂事件が起きている。

アフォンソ5世(1432~1481)

親政開始~モロッコ・ポルトガル戦争~ 1458年、アフォンソ5世はアルカセル・セゲールを征服した。1471年にはアシラーを征服し、さらにタンジェも征服した。これにより、モロッコでセウタ他4都市を掌握するアフリカ・ポルトガル帝国を形成、ポルトガル・アルガルヴェ、アフリカ海内海外王を名乗った。

亀井忠一(1856~1936)

三省堂 1881年、旧旗本の一族である亀井忠一により古書店「三省堂書店」として創業され、出版事業には1884年に進出。

マリー・ド・ロアン=モンバゾン(1600~1679)

転落と陰謀 シュヴルーズ公爵夫人となったマリーは引き続きと王妃の友人であり腹心であった。しかし、1622年に王妃の妊娠中にルーヴル宮殿の廊下で馬鹿騒ぎを起こし、これが原因で王妃を流産させて宮廷から追放を受け、夫のシュヴルーズ公爵は彼女を宮廷に戻すために様々な工作をすることになった。

三原純子(1920~1959)

南から南から 南から南からとんで来た来た渡り鳥うれしそうに楽しそうに富士のお山を眺めてる茜の空晴れやかにのぼる朝日いさましいその姿見た心ちょっとひとこと聞かせてよ南から南からそよぐそよそよ南風さわやかになごやかに村の鎮守の森をゆく深みどり色もこく娘十八神詣でその姿見た心ちょっとひとこと聞かせてよ南から南から遠く海越え来た人は村里に町かどになびく日の丸たのもしくじっと眺めて涙ぐむ強いお国日本のその姿見た心ちょっとひとこと聞かせてよ

円地文子(1905~1986)

食卓のない家 電機メーカーに研究員として勤務する鬼童子信之は、妻と3人の子どもを持つ平凡な男であった。長男の乙彦は優秀であったが、進学した大学で、学生運動に熱中する。やがてセクトのリーダーとなった乙彦は、八ヶ岳の山荘で人質・籠城事件を起こして警察に逮捕されてしまう。逮捕の後、セクト内では同志殺人を起こしていたことが判明し、逮捕された学生たちだけでなく、その親たちにも世間の非難が集中した。彼らの中には退職したり、ついには自殺に追い込まれるものも出た。しかし、信之は「成人となった子どもの責任を負う理由はない」という姿勢を貫き、頑なに乙彦との面会を拒否し、謝罪も行わないことを明言した。そうした態度により信之はさらに激しい批判を受けることになる。

ジェームズ・ブギャナン(1791~1868)

政治経歴 1814年から1815年までペンシルベニア州選出下院議員だった。その後第17から次の4つの議会に選出された。第21議会では司法部委員会の議長を務めた。1832年から1834年まで駐ロシア大使を務めた。

サイモン・キャメロン(1799~1889)

アメリカ合衆国陸軍長官 1861年3月、キャメロンはエイブラハム・リンカーン大統領からアメリカ合衆国陸軍長官に任ぜられ、連邦上院議員を辞任した。キャメロンは1862年1月まで陸軍長官を務めた。