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6月, 2021の投稿を表示しています

モンキー・パンチ(1937~2019)

ルパン三世~アニメ~ アニメの設定は制作時点時点での現代の舞台と、当時の国際情勢や流行を題材とした作品が多いが、初期の原作漫画が連載されていた1960年代後半を舞台とした作品も存在する。またごく少数ながら江戸時代や近未来の舞台としたものもある。

イーゴリ1世(867~945)

東ローマ帝国遠征 941年に、1000隻の船を率いて東ローマ帝国に遠征した。当時、東ローマ軍は東部属州に遠征中、海軍の大半も地中海や黒海を巡航中であり、帝国の首都・コンスタンティノープルは守りが手薄な状態だった。だが迎える東ローマ側は残された15隻の老朽船を修理して出撃し、キエフ艦隊はギリシャの火を浴びせた。キエフの軍船は次々と炎上し、不利と見たイーゴリ1世は黒海に逃れ、黒海沿岸の諸都市を次々と攻略し、住民を殺戮した。キリスト教の司祭や修道士は特に残酷に取り扱われ、兵士の訓練の的とされたり、頭に釘を撃ち込まれた者もいたという。だが上陸したキエフ軍は東ローマ海軍に退路を封鎖されたあげく、ギリシャの火の攻撃を受けほぼ全艦隊が炎上した。イーゴリ1世は辛くも逃れたが、捕らえられた生き残りの兵士はコンスタンティノープルに連行され、衆人環視の元で処刑された。

奥平忠昌(1608~1668)

宇都宮興禅寺刃傷事件 宇都宮興禅寺刃傷事件は、1668年3月2日、下野興禅寺において、宇都宮藩の藩主・奥平忠昌の法要の際に起こった家臣相互の刃傷事件。4年後の浄瑠璃坂の仇討の原因となった。

スルターン・フサイン(1668~1726)

ギルザイ部族の反乱 パシュトゥーン人の雄族、ギルザイの族長ミール・ワイスは、1709年にグルジン・ハーンを庭園の宴席に招き、謀殺した。事件の翌日に人々に独立を宣言し、カンダハールを中心にファラまで勢力化においてカンダハール王国を樹立した。スルターン・フサインは懐柔のためミール・ワイスをヴェキールに任命、ミール・ワイスも満足して1715年に死去するまで、名目上はフサインの臣下に留まった。

織田信行(不明~1558)

守山城をめぐる争い 1555年6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された。それを聞いた信行は、信次の居城・守山城の城下を焼き払わせた。これに対して信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」と言って、信次を処罰しようともなかった。この対応の違いにも、信行と信長の対立が見て取れる。

ヨハン・フリードリヒ・オーベルリーン(1740~1826)

農業開発と児童学校の創設 また彼の主導で児童学校が建てられ、彼の女中であったルイーゼ・シェップラーがその指導に当たった。オベリンの教育理念は「子供に対しては厳しすぎず、常に優しい好意を持って、しかし侮ることなしに」というものであった。彼は農業生産者のために協会を作り、近代的な農法の指導も行なった。彼の社会事業は女性の就業への道を切り拓くものであった。

永井龍男(1904~1990)

黒い御飯 市井の人情などとはいまや死語にも等しいように感ずるが、創刊直後の『文芸春秋』に掲載されたこの短編は、病弱の父を疎ましく思いながら、その父の切口上な説教を憂鬱な思いで聞きながら、貧しい一家が夕餉の卓を囲むという光景が描かれている。そこでの話題は、主人公が明日学校に着てゆく普段着のことだった。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598~1680)

ダビデ像

川島忠之助(1853~1938)

八十日間世界一周 物語は1872年10月2日のロンドンに始まる。独身の紳士、フィリアス・フォッグは物事を尋常ではない正確さで行う習慣と、カードゲームに熱中する癖があったが、ロンドンの紳士クラブ「リフォーム・クラブ」のメンバーであること以外は全く謎で、裕福であることの理由も定かではなかった。

アルケラオス(生没年不詳)

伝記と学説 アテナイまたはミレトスの人で、アナクサゴラスの弟子である。自然学をイオニアからアテナイにもたらした一人であるが、倫理学にも着手していたらしい。法律や美・正義などソクラテスと共通するテーマを論じたため、ソクラテスの師とも言われる。

百地丹波(1556~1640)

天正伊賀の乱 織田信長の次男織田信雄が1579年に伊賀攻めを始めた。「伊乱記」によれば、百地丹波は鬼瘤越に進軍する柘植保重らの軍勢と戦ってこれに勝利した。この戦いで伊賀衆は、信雄の拙い指揮もあって織田軍を撃退したものの、1581年に信長自ら5万の大軍を率い侵攻を開始する。これに対して丹波は諸将とともに柏原城に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに開城した。

ジョン・ウォーカー(1781~1859)

摩擦マッチの発明 1819年に英国東北部のストックトン・オン・ティーズに薬局を開店した。1826年に偶然摩擦による発火を発見し、1827年に 'friction lights' の名称で摩擦マッチの販売を始め、多くを売り上げた。評判をきいたマイケル・ファラデーによって特許の取得を勧められたが、薬剤師であることを選び、特許の申請をしなかった。1829年には模倣者があらわれ、1830年か1831年にはマッチの販売をやめた。ウォーカーのマッチは塩素酸カリウムと硫化アンチモンの混合物をゴム糊でまぜたものを軸木に塗ったもので、着火性が悪く、フランスのソーリアの発明した黄燐マッチに変わっていった。

小林亜星(1932~2021)

未知という名の船に乗り 未知という名の船に乗り希望という名の地図を見て夢という名のコンパスで未来を訪ねる冒険者心に鍵はかからないいつでもいっぱい開いておけばはるか銀河の彼方から未知という名の船が着くちょっと不思議もちょっと疑問もちょっと悩みも訪れる未知という名の船に乗り勇気という名の帆をはって愛という名の舵をとりぼくらはこぎ出す冒険者心はいつもパノラマだ楽しい世界を描いていればどんな小さい窓辺にも未知という名の船が着くちょっと不思議もちょっと疑問もちょっと悩みも訪れる

マリア・アレクサンドロヴナ(1824~1880)

結婚生活 マリアは非常に人見知りが激しく、慣れない人にはぎこちなく接し、服装に好みがなく、議論もできず、魅力がない女性だと見なされがちだった。母ヴィルヘルミーネに似て呼吸器官が弱く、咳や周期的な発熱に苦しみ、サンクトペテルブルクの気候が合わなかった。それにも関わらず、彼女は8人の子供の母親となった。絶え間ない妊娠は病を伴い、多くの行事が重なる宮廷から彼女を遠ざけた。それは同時に、アレクサンドルに誘惑の機会をもたらした。マリアは後にアレクサンドルが不貞を働き、多くの愛妾のエカチェリーナ・ドルゴルーコヴァを特に愛し、彼女との間にできた3人の庶子たちと宮殿に住んでいた。1855年にアレクサンドルは皇帝に即位。彼はマリアの体調が安定しようがしまいが、公務に付き合わせた。マリアの最も愛した皇太子ニコライの1865年の死は、彼女に非常な打撃を与えた。

角川源義(1917~1975)

角川書店設立・私生活 城北中学校教師を経て、1945年11月に東京都板橋区小竹町で角川書店を設立した。既に岩波書店から刊行されたベストセラーになっていた阿部次郎著『三太郎の日記』を合本として上梓し、成功を収めた。1948年2月から1949年8月まで雑誌『表現』を刊行。1949年5月、角川文庫を創刊。文庫本の刊行形態は、戦前既に岩波書店と新潮社の二つの老舗により、開拓されていたため、新興出版社である角川書店の進出が成功するかどうか危ぶまれたが、結果として関係者が驚くほどの成果を得た。

サミー・デイヴィスJr.(1925~1990)

「シナトラ一家」 この頃はアメリカ国内におけて公民権運動が徐々に高まりつつあったが、南部などを中心にまだまだ白人による人種差別が激しく、多くのホテルやレストランが客として受け入れることを拒んでいたアフリカ系アメリカ人であるサミーを一家に入れて「サンズ」のショーに出演させることに反対するものが多かった。

草川信(1893~1948)

揺籠のうた 揺籠のうたをカナリヤが歌うよねんねこねんねこねんねこよ揺籠のうえに枇杷の実が揺れるよねんねこねんねこねんねこよ揺籠のつなを木ねずみが揺れるよねんねこねんねこねんねこよ揺籠のゆめに黄色い月がかかるよねんねこねんねこねんねこよ

イスラム・カリモフ(1938~2016)

ウズベキスタン大統領~大統領選挙~ 1990年3月24日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領に就任。ソ連8月クーデター失敗後の1991年9月1日にウズベキスタンの独立を宣言し、ウズベキスタン共産党をウズベキスタン人民民主党に改称した。ソビエト連邦の崩壊後の12月29日にウズベキスタン大統領選挙で当選。1995年3月26日に国民投票を実施し、任期を2000年まで延長した。2000年1月9日の大統領選挙では91.9%の得票を得て再選したが、選挙では白票や棄権票が「カリモフに投票した」と見なされるなど公正さに疑問があり、アメリカ合衆国からは「真の自由で公正な選挙とは言えず、ウズベク国民には選択肢が与えられていなかった」と批判を受けた。

丸谷才一(1925~2012)

笹まくら 45歳を迎えた浜田庄吉は結婚をして私立大学の事務員だったが、手紙で20年前の恋人の阿貴子が亡くなったことを知る。そのせいで、彼は戦争の間、「徴兵忌避者」として逃げ回っていた5年間を思い出す。1940年、東京の医者の息子の浜田は兵役に入る前日、東京駅から逃亡する。高等工業学校出身でラジオの修理をしながら、日本を転々とする。そのうち、修理だけではもたなくなり、砂絵を打っていた香具師みたいな人に出会い、砂絵師になって逃げる。最後の1年は鳥取の境港で阿貴子という女性と出会い、親しくなる。四国の宇和島の質屋の娘で、その質屋にかくまってもらって、終戦を迎える。

ジョンソン・アグイイ=イロンシ(1924~1966)

クーデターを鎮圧 ナイジェリアは独立後、地域間の対立が激化し、政治の腐敗も深刻であった。1966年1月15日、政府の腐敗に怒ったチュクウマ・ヌゼオグ、エマヌエル・イフェアジュアナ、デイビッド・オカフォル少佐らがクーデターを起こし、北部州政府首相アフマド・ベロ、連邦首相アブバカール・タファワ・バレワ、西部州チーフ・アキントラが殺害された。

北杜夫(1927~2011)

楡家の人びと 大正初め、東京青山に西洋の御殿のような精神病院「帝国脳病院」が聳えていた。そこを舞台に、院長の楡基一郎、その妻ひさ、勝気な長女龍子、学究肌の夫徹吉、などの一家とそれを取り巻く人々が織りなす人間模様。初め、虚栄に満ちた華やかな生活を送る楡家の一族であったが、基一郎の議員落選、二女聖子の出奔が続き、震災直後の病院の焼失と基一郎の急死を経て、昭和の動乱期に入ると、楡家は、いったんは全盛期を超える規模の大病院にまで復活するものの、大戦勃発を受けて、ゆるやかだが確実に没落の一途をたどっていく。

ヨシップ・イェラチッチ(1801~1859)

イェラチッチ広場 イェラチッチ広場はクロアチアの首都・ザグレブにある町の中心的な広場である。ザグレブ中央駅前から広がる新市街と、旧市街の東側・カプトル地区の間にあり、古くから人々の物の交換が行われてきたところで、名称はこの広場に騎馬像のあるイェラチッチ総督にちなんで付けられて、イェラチッチ総督広場とも呼ばれている。

福永武彦(1918~1979)

海市 妻のある画家・渋太吉は、旅先の伊豆南端の海村で蜃気楼のように現われた若い女性を愛しはじめる。渋はかつて一緒に死ぬ約束をした女性を裏切り、現在の妻とは離婚寸前の状況にある。やがて伊豆で逢った女性は親友の妻・安見子であることが判明するが、渋の安見子への思慕はやみがたく肉体関係を続ける。恋愛のいくつかの相を捉えて、頽廃と絶望の時代における愛の運命を追求する。

オマル・ムフタール(1862~1931)

反イタリア抵抗運動 ムフタールはイドリースによりリビア司令官に任命され、対イタリア運動の指揮を執ることになった。ムフタールはキレナイカの地形と砂漠戦に熟知しており、1924年までに各地の反イタリア・ゲリラを指揮下に置いた。ゲリラ戦の際にはイタリア軍の補給ルートと通信施設を集中的に攻撃し、イタリア軍を追い詰めていった。

吉岡彌生(1871~1959)

東京女子医科大学 女性医師・吉岡彌生が1900年に創設した「東京女医学校」を前身とし、世界的にも珍しい女子大学としての医科大学となっている。吉岡の母校の濟生學舎が当時、「女性を入れると風紀が乱れる」と女子学生の入学を拒否し始めたことに反発した形で設立した。附属機関として東京女子医科大学病院のほか、がんセンター、先端生命医科学センターなどがある。早稲田大学との間で医工連携における協定を締結し、共同研究施設や共同専攻大学院などを開設している。

エーリク7世(1382~1459)

カルマル同盟 デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3国は、名目上は対等の同盟であったが、実態はデンマークを盟主にした同君連合でもあった。エーリクはシュレースヴィヒおよびホルシュタインの併合を目指したが、結局失敗に終わった。このため財政難を引き起こし、エーリクはこの穴埋めにノルウェー・スウェーデンに重税を課して立て直しを図ったが、両国は反発し、不満がくすぶり始める。

弥助(生没年不詳)

本能寺の変 1582年の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という。

スティエパン・トマシェヴィチ(不明~1463)

ボスニア国王として~王位継承と戴冠~ 1461年7月、ボスニア王スティエパン・トマシュが死去した。後の文献によれば、彼の死は息子であるスティエパン・トマシェヴィチや弟ラディヴォイの陰謀によるもので、マーチャーシュ1世やメフメト2世まで関与していたという。しかし歴史家たちは、トマシュ王が6月の時点で病に臥せっていたことから、この陰謀説を否定している。スティエパン・トマシェヴィチは長きにわたり王位を狙ってきた叔父ラディヴォイに気前よく領地を与えたことで、自身はスムーズにボスニア王位を継承することができた。彼が継承した「ボスニア王」という称号はスティエパン・トヴルトコ1世に始まるもので、正式には「神の恩寵による、セルビア、ボスニア、ポモリェ、ザフムリェ、ダルマチア、クロアチア、西方領の王」と称していた。しかし実際には、セルビアはすでにオスマン帝国領となり、クロアチアは1390年代にハンガリーに奪われていた。またスティエパン・トマシェヴィチは、オスマン帝国が攻めてきたときに備えてダルマチアへの亡命を考えていたが、それすらもヴェネツィア共和国に許可を請わねばならなかった。

尾高惇忠(1830~1901)

富岡製糸場~建設決定まで~ ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県、群馬県、埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、1870年閏10月7日に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと、同月17日には富岡を建設地とするとすることを最終決定している。この決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること、水や石炭などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、元和年間に富岡を拓いた代官中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられることなど、様々な要件が考慮された結果であった。

アクセル・ヴェナー=グレン(1881~1961)

鉄道事業 ヴェナー=グレンはカナダ人のW.A.C. ベネットと協力してプリンス・ジョージの北から未着手のピース川、ロッキーマウンテン渓谷そして最終的にはアラスカまで至る鉄道の建設という投機的な鉄道計画に情熱を燃やし続けた。不必要なフォート・ネルソン支線を含む鉄道の一部はヴェナー=グレンの死後にパシフィック・グレートイースタン鉄道により建設された。北部の利権は、広大な渓谷を利用したベネット・ダム、ガスのパイプライン、テーラーの工場、炭鉱、パルプ工場といった巨大な産業プロジェクトをこの地域に萌芽させる刺激となった。

白井武左衛門(生没年不詳)

いろは樋 新河岸川の左岸と荒川の右岸に挟まれた宗岡地区は、度重なる水害と恒常的な農業用水不足に悩まされた。この地域を知行していた旗本、岡部忠直は、現志木市本町から新河岸川に無効用水が流れていたのを見て、家臣の白井武左衛門に命じ、新河岸川に総延長126間の水路橋を架設した。樋は船の通行を妨げないようにするため、水面から4-5メートルの上方に架けられた。

サミュエル・ベケット(1906~1989)

ゴドーを待ちながら 第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。そこにポッツォと従者・ラッキーがやってくる。ラッキーは首にロープを付けられており、市場に売りに行く途中だとポッツォは言う。ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、「考えろ!」と命令されて突然、哲学的な演説を始める。ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。

岡部元信(不明~1581)

甲斐武田家の時代 武田氏は信玄の晩年とその後の勝頼の代になると徳川領である三河・遠江方面に攻勢をかけ、1574年6月に勝頼が遠江高天神城を落とす。しかし、1575年5月、織田信長・徳川家康連合軍の前に武田勝頼が長篠の戦いで大敗すると、徳川軍による遠江方面の反攻が開始され、二俣城・犬居城・諏訪原城などが攻略される。元信はこの際に駿遠国境に近い小山城に在番しており、8月26日より徳川軍の攻撃を受けるが、猛攻を耐え凌ぎ翌9月7日に勝頼が後詰を率いて着陣するまで城を守り通した。

ユスティノス(100~165)

思想 ユスティノスの思想の特徴は、キリスト教徒として初めてギリシャ思想とキリスト教思想を融合しようとしたことにある。具体的には当時のギリシャ哲学の用語であった「ロゴス」をキリスト教思想に取り入れている。ユスティノスに先立ちアレクサンドリアのフィロンもユダヤ教徒としてユダヤ教思想にロゴスを取り入れ、「神はロゴスを通して自らを表す」と唱えたが、ユスティノスはフィロンと異なり、キリスト教徒としてイエス・キリストこそが完全なロゴスであると考えた。イエスは「普遍的・神的ロゴス、純粋知性、完全な真理」であるとユスティノスはいっている。

伊福部昭(1914~2006)

日本狂詩曲 伊福部が北海道帝国大学を卒業してすぐに、友人の三浦淳史が文通していた指揮者ファビエン・セヴィツキーに献呈する為に書いた曲で、彼の初めての管弦楽曲として知られる。本来はヴァイオリンと36の打楽器のための協奏曲として構想されていた。この曲によりアレクサンドル・チェレプニン主催の作曲コンクールであるチェレプニン賞第一席を受賞し、楽壇にデビューを飾ることとなる。

ハミルカル・バルカ(前275~前228)

第一次ポエニ戦争 第一次ポエニ戦争は、彼の活躍にも関わらず、カルタゴの敗北に終わった。カルタゴの軍は基本的に傭兵で成り立っており、ハミルカルの軍はハミルカル個人の素質によって率いられたものであった。しかし、ハミルカルにより約束されていた報酬は、大ハンノを中心とするカルタゴ政府内の反ハミルカル勢力により反故にされ、傭兵たちは反乱を起こしてしまう。危機感を募らせたカルタゴ政府はハミルカルに反乱の鎮圧を要請、紀元前237年ハミルカルは傭兵の反乱を鎮圧に成功する。これによりハミルカルのアフリカでの名声と影響力を世に知らしめる。