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ロドリゴ・デ・ビベロ(1564~1636)

日本との関係 1609年、次期総督と交代のため召還命令を受け、ガレオン船3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴに乗った旗艦「サン・フランシスコ」は難破、9月30日に上総国大多喜藩領の岩和田村田尻の浜に漂着、地元民に救助される。大多喜城の本多忠朝も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。なお僚艦の「サンタ・アナ」も、9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し、もう一隻の「サン・アントニオ」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。

足利直義(1306~1352)

二頭政治から観応の擾乱へ 尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定して幕府を成立させるが、この式目の制定には直義の意向が強いとされる。1338年に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。しかし、1348年頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展し、さらに吉野へ逃れていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。直義派からの讒言を受けて尊氏が師直の執事職を解任すると、1349年に師直とその兄弟の師泰は直義を追撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。直義は出家し、慧源と号した。

源頼家(1182~1204)

第2代将軍 1199年1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1~2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。

以心崇伝(1569~1633)

禁中並公家諸法度 禁中並公家諸法度は、徳川家康が以心崇伝に命じて起草させた法度である。1615年9月9日、二条城において大御所徳川家康、二代将軍徳川秀忠、前関白二条昭実の3名の連署をもって公布された。署名は、二条昭実、秀忠、家康の順である。漢文体、全17条。江戸時代を通じて、一度も改正されなかった。

足利義稙(1466~1523)

明応の政変 当初、政治の実権を握り「大御所」と称した父・義視が1491年1月に死去した後は、前管領・畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。しかし擁立の功労者であった富子や、もともと清晃支持派である細川政元とは対立を生じることになった。同年8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江国に出陣して高頼の追放に成功している。1493年2月には、応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、またもや政元の反対を押し切って畠山政長らを率いて河内国に赴いた。

北畠顕家(1318~1338)

京への進撃と足利尊氏との戦い その後、11月に朝廷は尊氏の追悼を宣し、新田義貞を総大将とする軍勢を鎌倉へと派遣したが、12月まで足利方に破られた。尊氏は義貞を追撃し、京へと迫る勢いであった。12月22日、顕家は義良親王を奉じ奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京を開始する。『太平記』によるとその兵数は5万であった。

エドワード黒太子(1330~1376)

エドワード黒太子の家族 1361年に父の従妹ジョーン・オブ・ケントと結婚した。当時の王族、上流貴族では珍しい恋愛結婚で、既に2度の結婚をしているジョーンと結婚には反対が多かったが黒太子が押し切ったという。ジョーンとの間にエドワード、リチャードの2人の息子をもうけたがエドワードは早世、リチャードが後に国王リチャード2世として即位している。