明応の政変
当初、政治の実権を握り「大御所」と称した父・義視が1491年1月に死去した後は、前管領・畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。しかし擁立の功労者であった富子や、もともと清晃支持派である細川政元とは対立を生じることになった。同年8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江国に出陣して高頼の追放に成功している。1493年2月には、応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、またもや政元の反対を押し切って畠山政長らを率いて河内国に赴いた。
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