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マヌエル1世(不明~1263)

フランス王ルイ9世への使節
1253年、マヌエルは十字軍遠征としてエジプトに滞在していたフランス王ルイ9世のもとに使節を派遣した。マヌエルはフランス王女と結婚することで、両国との間に強固な関係を構築しようと試みていたとされる。現代の歴史家ウィリアム・ミラーによると、フランス王ルイ9世はその十字軍遠征に王女を随行させておらず、代わりにマヌエル1世に対してラテン帝国と婚姻関係を結ぶことを推奨したという。「マヌエル1世のような偉大で裕福な皇帝の助力は、仇敵ニケーア帝国やギリシャ系貴族ヴァタツェス家と対抗するラテン帝国に対して非常に有益な支援になったのであろう。」とミラーは主張する。十字軍遠征に参加していたルイ9世の重臣ジャン・ド・ジョアンヴィルは自身の伝記にマヌエルの豊かさを示す記述を残している。その記述によれば、マヌエルはルイ9世に対して多種多様な宝石やその他の贈り物に加え、ハナミズキの木材で作られた弓矢を贈呈したという。またその矢の矢羽は弓に嵌め込められており、矢を放った際にはその矢が非常に鋭く、また非常によく作り込まれていることが見て取ることができたという。

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エイブラハム・ダービー1世(1678~1717)

ダービー父子~父、ダービー1世~ 父のダービーはブルストルで鋳物製造を行っていたが、砂型鋳物製造の特許を取り、事業を安定させ、1709年に石炭をコークス化して燃料として用い、鉄鉱石を熔解する高炉を成功させた。コークスは石炭を蒸し焼きにしてつくり、香炉の中で鉄鉱石と一緒に入れて燃やすと、不純物を除去することができる。また高炉はつねに高温を保たなければならないが、そのために従来は「ふいご」が使われていたがダービーは送風シリンダーを考案し、その問題も解決した。こうして本格的な製鉄業を興し、鍋などの生活用具からニューコメンの蒸気機関用の部品まで製造し、事業を成功させた。

度会家行(1256~1351)

伊勢神道 鎌倉時代末期に、それまでの両部神道や山王神道などの本地垂迹説とは逆に、反本地垂迹説が勃興するようになり、その影響で、伊勢神宮の外宮の神官である度会家行によって、伊勢神道が唱えられた。伊勢神道は、『神道五部書』を根本経典とする。また、儒教・道教思想の要素も含まれた最初の神道理論とされる。伊勢神道は、元寇により日本が神国であると再認識し、日本における唯一絶対の宗教は神道であるとする勢力から支持され発展した。日本書紀によると、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女で、天照大神の御杖代として各地を巡行し、伊勢の地で神宮を創祀した。「神道五部書」と呼ばれる伊勢神道の根本史料の一つ『倭姫命世記』に、度会郡を中心とする倭姫命の足跡が数多く記されている。

フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(1778~1852)

体操~ドイツ体操~ ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。バゼドーは神学教師であったが、哲学者ルソーの『エミール』に触発され、身体と精神は互いに助け合わなければならないと考え、その実現の場として1771年にデッサウに汎愛学校を設立し、平均台や徒歩競争などを含む体育法「ギリシャ体育」を生徒に施した。ヤーンは教育所を設立して高跳び用のスタンドなど体操用の器械を考案し、『ドイツ体操術』の著し、運動を愛国心に結び付け、旅先や公園で指導し、その発展と普及に努めた。今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。その後スピースに引き継がれ、号令による運動や性別・年令に応じた段階的・組織的運動などを採り入れ、ドイツ初の器具装備の体操場を造った。1860年にはドイツ体操祭が開催され、今も4年に一度開催されている。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われたが、医者などの支持を得て、今日に至っている。